千代と菱元拓実の新しい生活は、二人の通う大学にほど近い、静かな私鉄沿線の街にある、小さなアパートの一室から始まった。
かつて千代が、まだ多感な少女だった頃に兄の創と二人で肩を寄せ合って暮らしていた、あの思い出深い長屋は、千代がアメリカ留学から帰国する頃には、道路拡張工事のためにすでに取り壊されて更地になっていた。力強く立ち上がる東京の街は、文字通り急速なモダニズムの波に乗り、めまぐるしくその姿を変貌させていたのだ。
創は千代の帰国よりも少し前、戦友の妹と家庭を持ってすでに長屋を出ており、千代も帰国後は大学の寄宿舎に身を寄せていた。そのため、四畳半と六畳に小さな台所がついたこの慎ましい新居こそが、二人が人生で初めて自分たちの意思で構えた、本当の「我が家」だった。
結婚式は、華美な格式を好まない二人らしく、親族とお互いのゼミの担当教授、そしてごく親しい友人たちだけを小さな料亭に招いた、慎ましくも温かいものとなった。
「まあまあ……あの偏食でだらしのなかった拓実が、こんなに綺麗で、おまけに大学の助手なんて立派なお仕事をされているしっかりしたお嬢さんと一緒になれるなんてねぇ。もう神様仏様、ご先祖様に感謝しなくちゃバチが当たりますよ」
拓実の母親が嬉し涙で目を潤ませながら千代の両手をきゅっと握り、何度も何度も嬉しそうに頭を下げている。白無垢の婚礼衣装に身を包んだ千代は、慣れない重みと緊張に少し頬を染めて微笑みながらも、ふと胸の奥で、優しかった自らの亡き母のことを静かに想っていた。
(お母さん……私、お嫁にいったよ。もし今も生きていてくれたら、この姿を見て、どんなに喜んでくれたかしら。少しは安心、してくれたかしら)
その時、少し離れた親族席から、静かな料亭の空気を震わせるような、ズビズビと低く鼻をすする激しい音が聞こえてきた。
見ると、借りてきた一張羅の礼服に身を包んだ千代の父親が、顔を真っ赤にして大きなハンカチで何度も何度も目元を拭っていた。
「お母ちゃんに見せてやりたかった……。あいつが……千代がこんなに立派になって、世界一綺麗なお嫁さんになった姿を……お母ちゃんに、一度でいいから見せてやりたかったなぁ……っ」
隣で自分の妻と和やかに談笑していた兄の創が、「親父、みっともないぞ」と父親の肩をそっと叩きながら苦笑している。しかし、創もまた、妹の白無垢姿をどこか眩しそうに、そして深い感慨を込めて見つめていた。
拓実が親戚への挨拶のために少し席を外した瞬間、創が静かに歩み寄り、千代の傍らに立った。いつも通りのぶっきらぼうな口調で、けれどその奥に限りない優しさを湛えて囁いた。
「……まさか、あのやせっぽちの偏食メガネに、俺の自慢の妹を持って行かれる日が来るとはな」
「お兄ちゃん……」
「幸せになれよ、千代。お前はもう、十分に他人のために戦ってきた。これからは自分の幸せを一番に考えろ」
創の照れくさそうな、けれど心の底からの祝福の笑顔に、千代の目頭も熱くなる。
そんな千代の横で、これまた周囲に寄ってたかって着せられた、見違えるように端正な黒の紋付羽織袴をまとった拓実が戻ってきて、
「いやあ、僕も自分の人生設計に、これほど巨大な『幸福』という因子が介入してくることは、確率計算の完全に枠外でしたよぉ」
とのんびり呟き、背後から母親に「これ! おめでたいお席で変な数式ばっかり言わないの!」とピシャリと窘められていた。
式は終始、和やかで温かい笑いに包まれてお開きとなった。
しかし、事件は式が滞りなく終わり、全員が控室に戻って祝電の整理をしていた時、菱元家の親族の一声によって引き起こされた。
「ちょ、ちょっと拓実、千代さん……! これ、何かの見間違いじゃないかしら!? 私、目が悪くなったのかしら……!」
従姉の一人が、数枚の祝電を震える手で持ったまま、血相を変えてすっ飛んできたのだ。
「見間違いって、一体何がですかぁ? 誤字でもありましたかねぇ?」
拓実が不思議そうに首を傾げる。
「そうじゃないわよ! 差出人の名前よ、名前! ほら、これ……『本山九十九』って、まさかあの、旧海軍で総司令まで務められた最高幹部の方よね!? こっちの『米田光輝』さんって、戦後に大臣を務められた、あの政界の米田さん!? 極めつけは、この……数年前に他界されている『岡谷元首相』のご遺族名義の祝電よ! 一体これ、どういうことなの!?」
「ええっ!?」
控室にいた親族一同が一斉に立ち上がり、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
無理もない。ペーペーの大学助手二人の慎ましい結婚式に、昭和という激動の日本を、ある時は裏から、ある時は表から動かしてきた、国家の重鎮たちの名前がずらりと並んでいるのだ。地方の小市民である親族からすれば、まさに「国家の陰謀」か「狂気の沙汰」である。
隣にいた新郎の拓実までもが、「へ? 岡谷……? 本山、米田……? え、千代さん、これ一体何者なんです……? 君、実はどっかの国のスパイか何かなんですか……?」と、丸メガネを白く曇らせて千代をまじまじと見つめてきた。拓実にとっても、彼らは歴史の教科書や、新聞の紙面を飾る「雲の上の偉人」でしかない。
千代は背中にドッと冷や汗が流れるのを感じた。
(しまった……! あの人たち……!)
岡谷閣下はすでに亡くなられているし、存命の他の方々にも、余計な気を使わせまいと結婚のことは一切お伝えしていなかった。それなのに、独自のルートで情報を嗅ぎつけ、直筆や遺族名義でこんなに堂々と電報を打ってくるなんて!
全員の、畏怖と疑念の混ざった視線が一斉に千代へと集中する。千代はごくりと唾を飲み込み、引きつりそうな笑顔をなんとか貼り付け、脳細胞をフル回転させて精一杯の「苦しい言い訳」を繰り出した。
「あ、あの! それは、その……ええと! 拓実さんには以前、少しお話ししたと思うのですけれど……ほら、私の女学校時代の、大切な親友の『あかり』のことです」
「親友……?」拓実と親族が同時に首を傾げる。
「はい。彼女は実は、当時、身寄りのない子供を不憫に思われた、あの岡谷元首相のご自宅に、女中見習いとして住み込んでいた時期があったのです。普通なら、一般の女学生がそんな大邸宅に出入りすることはできないのですけれど……。偶然、元軍人である私の兄の創が、当時は岡谷首相の私邸の警護任務を担当しておりまして。兄を通じて彼女と私が友人同士と知った岡谷先生から、『友人がいてくれるなら心強い』とご了承のもと、出入りをお許しいただいたのです。……その不思議なご縁で、私は親友に会うために、よく岡谷先生の私邸にお邪魔していたのです。その際、邸内に出入りしていらした本山先生や米田先生も、とても親切に声をかけてくださって……。今回、私が結婚するということがどこからかお耳に入ったらしく、こうして身に余る不相応な祝電をくださったのだと思います……!」
ふう、と千代は心の中で一気に息を吐き出した。
「偶然、兄が私邸の警護をしていた」――全然偶然ではない。命がけで歴史を変える特命任務だったのだが、嘘は言っていない。ただ、歴史の裏側の真実を、猛烈にオブラートで隠しているだけだ。
千代の必死の、しかし妙に具体的で理路整然とした説明に、親族たちは顔を見合わせた。
「そ、そうなのねぇ……。立花家のお兄さんは、そんな凄い方々の警護を任されるほどの立派な軍人さんだったのね。世の中、どこでどんなご縁が結ばれているか分からないものねぇ……」
「は、はい……本当に、身に余るありがたいご縁です……」
なんとか無理やり納得してくれた親族たちを見て、千代は安堵でドッと肩の力を抜いた。
ふと隣を見ると、拓実だけはまだ「へえ〜……そんな凄い縁があったんだねぇ。千代さんって、意外と油断ならないというか、人脈のスケールが大きすぎるなぁ」と、まだ狐につままれたような顔で感心している。
そんな愛すべき夫の様子に、千代は小さく苦笑いを浮かべ、胸の中でそっと呟いた。
(お伝えしていなかったはずなのに……。あの元軍人の方々の、恐るべき情報収集能力を完全に甘く見ていましたわ……。でも、本当に……粋なことをしてくださいますね)
かつて命がけで歴史の裏側を駆け抜け、共に「未来」を守り抜いた男たちの、不器用でこれ以上なく温かい祝福。
華やかなプリキュアの魔法や奇跡は、もう手元にはない。
けれど、かつて繋いだたくさんの人々の温かい想いと愛に守られながら。
二人はこのささやかで愛おしい四畳半の部屋から、あのあかりが待つ美しい未来へ向けて、一歩ずつ、確かに幸せな歩みを進めていくのだった。