チェンジヒストリープリキュア   作:RBうじざね

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『理性の弾丸、現実の壁』

高度経済成長期に差し掛かった東京、その中心にある政府の特別審議会室は、凍りつくような緊迫感に包まれていた。

菱元拓実名義で作成したレポートがある政府関係者の目に留まり、議題となったのだ。

呼ばれたのは菱元であったが、「共同研究者」として妻の千代も出席している。

 

千代や拓実の考えに理解を示す政治家も現れ始め、そういった政治家を支援するために会議に同席しているのだ。

千代と拓実は、A町をはじめとする地域復興のモデルケースとして、低所得層への生活保障と教育支援――すなわち「新時代の福祉制度」の予算を勝ち取るため、この重苦しい場に呼ばれていたのだ。

かつて千代の良き理解者であった永守や岡谷はすでに表舞台を去り、円卓に並んでいたのは、戦前の家父長制や「自己責任」の価値観から一歩も抜け出せない、頭の固い官僚や政治家の重鎮たちだった。

 

「君たちの提出したレポートを読んだがね」

 

中央に座る、白髪の委員長が冷徹な視線を千代に浴びせた。

 

「君たちの言う『福祉』とやらは、要するに国費を使って怠け者を養うということかね? 今の日本は一円でも多く基幹産業の興隆と、防衛――新しく発足する自衛隊に回すべき時だ。内助の功や家族の絆、地域で解決すべき問題を国に頼ろうなどとは甘えであり、国家の弱体化を招く綺麗事だよ」

 

重鎮たちの賛同するような鼻鳴らしが響く。それは、千代がアメリカで、そして帰国後の大学で何度もぶつかってきた、「旧い規範」の分厚い壁そのものだった。

 

その時、千代の隣で「あ、すんません、ええと……」と、間の抜けた声が上がった。

見ると、拓実が自分の長いマフラーを机の角に引っ掛け、慌ててモタモタと外そうとしていたのだ。張り詰めた空気が一瞬だけ脱力する。

 

しかし、拓実がマイクの前に立つと、いつものボソボソとしたのんびり口調のまま、備え付けられた大きな黒板へと歩き出した。

 

「委員長の仰ることもね、伝統的にはもっともな気がするんですけどねぇ。……ただ、これを見ていただけますかね」

 

チョークを手にした瞬間、拓実の空気が変わった。

カツカツカツ、と凄まじい速度で、黒板に複雑な数式と、グラフが描き出されていく。

 

「この人口動態と労働統計のデータを数理モデルに組み込んでシミュレーションしてみたんです。今、ここで『甘え』と呼んで福祉予算を削り、すべてを家族の自己責任に丸投げすると、どうなるか。10年後には労働人口の困窮による病気や犯罪、それに孤児の増加が発生します。……ほら、ここです。それによって国が将来的に被る直接的な経済損失、および治安維持のコストは、今日削ろうとしている予算の『数倍』に跳ね上がっちゃうんですよねぇ」

 

拓実は振り返り、丸メガネの位置を指でくい、と直した。

 

「つまり、今ここで福祉をケチることは、将来の日本の経済と防衛の予算を、文字通り内側から食い破って『確実に国を破綻させる』因子になるんです。……ほら、そこの確率計算、綺麗にマイナスに振り切っているでしょう?」

 

拓実はそこで言葉を区切ると、困ったように頭を掻いた。

「いやぁ、こんなこと言っちゃいけませんがね、僕は別に福祉に強い思い入れがあるわけじゃないんですけどねぇ。……ただ、計算したらそうなっただけですよぉ」

 

冷徹なまでに緻密な「コストとリターン」の証明。重鎮たちの顔色が変わる。

 

その『数字の弾丸』によって穿たれた隙に、千代が迷わず踏み込んだ。千代は凛として背筋を伸ばし、圧倒的な気迫で重鎮たちを真っ向から見据えた。

 

「個人のポテンシャルを底上げし、すべての人に選択肢を与えるセーフティネットを作ることは、決して慈善事業ではありません! この国が困窮に陥り、破滅へと向かわないための、最も合理的で、最も費用対効果の高い『国家の防衛策』です!」

 

千代の脳裏には、あの夜、黒い炎を背負って人類の絶望を笑った怨念の化身の姿が、そして国を守るために散っていった永守たちの姿があった。

 

「かつて、この国を破滅から救おうとした先人たちも、目に見える国境を守ることだけが防衛だとは、決して考えていなかったはずです! 人々が餓えず、明日を信じて笑える豊かな社会を作ること。それこそが、私たちが今、最優先で構築すべき真の国防ではありませんか!」

 

会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。

千代の放った魂の叫びと、拓実の提示した冷徹な数字の盾。

 

二人の完璧な共闘の前に、重鎮たちは苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していた。誰もが黙り込む中、中央の委員長がゆっくりと重い口を開いた。その声には、単なる頑迷さだけではない、この国を動かす立場としての別の重みが宿っていた。

 

「……君たちの数字はきっと正しいんだろう・・・それは理解した」

委員長は真っ白な眉の下の目を細め、千代をじっと見つめた。

「だがね、立花くん。政治というのは数字だけで動くものではないのだよ。予算をこちらの福祉に増やせば、当然、削られた側の支持を失う議員もいる。地方自治体からの猛烈な反発もあるだろう。現実として、自分に利益がないと思う者はそう簡単には動かない。それが、社会を束ねるということだ。綺麗事や計算式だけでは語れない数多の利害を抱えてなお、君はやるべきだと言うのかね?」

それは、最前線で国家の舵を取る大人としての、重く冷たい理屈(リアリズム)だった。

千代と拓実だけが正しいのではない。委員長もまた、現実という名の別の壁と戦っているのだ。

しかし、千代の瞳の光は少しも揺らがなかった。千代は前をまっすぐに見据えたまま、静かに、けれど確固たる意志を込めて語った。

「はい。――私は政治家ではなく、研究者ですから。現実の壁がどれほど厚くとも、未来のために正しいと考える道を見つけ出し、それを示すこと。それこそが、私たちの仕事です。動かすのは、先生方の役割ですわ」

その答えを聞いた委員長は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがてフッと、皮肉げながらもどこか満足そうな笑みを漏らした。

「……我々の役割、か」委員長はしばらく沈黙した。

「まったく、最近になってからこんな話がちらほら出てくるんだよ」

委員長は机の上のレポートを一枚一枚めくり、赤鉛筆で几帳面に印をつけていった。

「教育支援と、児童のいる困窮世帯への給付。ここまでは、A町を含む数地域で試験導入を行おう。数字の裏付けもある。反対する材料が私にはない」

千代の表情がわずかに緩みかける。だが、委員長の声はそこで止まらなかった。

「――ただし、就労年齢の成人への現状以上の保障については、今回は見送る」

「委員長……!」

千代が思わず声を上げるが、委員長は静かに、しかしはっきりと首を振った。

「君たちの計算では、これも将来的な国益にかなうという。理屈では分かるつもりだ。だがね、立花くん。『働かずとも国が現状以上を保障する』という制度は、現在のこの情勢で理解はおそらく得られないだろう。私が今それを通せば、君たちの試験導入まで道連れにして、来年の予算そのものが吹き飛ぶ。……欲張って全部を失うより、確実な半歩を選ぶ。それが、私のような立場の人間の仕事だ」

拓実が小さく息を吐いた。「……確かに、それはそれで一つの合理的な選択ですね」

千代は唇を噛んだ。すべてが通ると思っていたわけではない。だが、目の前で自分たちの理想の半分が、確かに切り捨てられていく感覚は、数字の勝敗では測れない重さを持っていた。

委員長は千代の顔を見て、ふっと表情を和らげた。

「不服そうだな。だがな、立花くん。今日通らなかった半分は、君たちの世代がこれから納得ができるように作っていくんだ。……君の言う通り、我々の役割はそこまでだ」

「……分かりました。まずは、通していただいた分から。必ず結果を出します」

千代は深く頭を下げた。悔しさを飲み込みながらも、その声には次に繋げる強さが滲んでいた。

 

重い扉が閉まり、厳かな廊下へと出た。窓の外には、ビル群の向こうに燃えるような夕日が沈みかけている。

 

――その帰り道。

勝ち取った「半歩」の価値を理解しつつも、まだ悔しさと現実の重みから表情の硬い千代の横で、拓実が「ふぅーっ」と深いため息を吐いた。

 

「いやぁ、半分は冷や汗で、半分は宿題の持ち帰りですねぇ。お腹が空きました、早く部屋に帰って干し芋でも食べたいです」

 

すでにいつものだらしない、気の抜けた表情に戻って、だらりと垂れ下がった長いマフラーを不器用に巻き直している。そのあまりにいつも通りの姿に、千代の肩からすっと余計な力が抜けていく。

 

「拓実さん。その干し芋、いつ買ったものかちゃんと把握していらっしゃるんでしょうね? 」

 

呆れたようにクスリと笑う千代。けれど、その穏やかな笑顔の裏には、今回通せなかった提案への未練が、胸に刺さった小さな棘のようにチリリと残っていた。

 

思想を叫ぶだけでは、人の心は動かせない。

数字を突きつけるだけでは、冷徹な現実は救えない。

そして、政治のリアリズムだけでも、新しい未来は作れない。

それでも――だからこそ、この二人でなければ、この国の閉ざされた扉をこじ開けるための、最初の『楔』を打ち込むことなどできなかったのだ。

 

千代はコートのポケットの中で、あかりの筆箱にそっと触れた。

 

(あかり。今日も、確かに一歩、進んだよ)

 

胸の中の親友にそう誇らしく語りかけるように、千代は小さく、しかし深く息を吸い込む。

隣を歩く頼もしい数学者と歩幅を合わせ、夕日に赤く染まった長い廊下を、彼女は未来へと向かって、再び力強く歩み出すのだった。

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