それから、しばらくの時が流れた。
日本が目まぐるしい高度経済成長の狂乱とも言える光の中に突き進み、東京の街もビルで埋め尽くされていく中で、千代と拓実の生活にも、人生における最大の転換期が訪れていた。
千代が、新しい命――二人の輝かしい未来そのものである我が子を授かったのだ。
二人はそれを機に、A町の隣町のはずれに、風通しが良く手入れのしやすい和風建築の家を建てて移り住んだ。
子供が生まれ、家を持つ――当時の昭和の絶対的な世間の感覚からすれば、既婚女性はひたすらに職を辞し、家庭に入って夫を支え、育児に専念することこそが唯一の美徳であり、社会的な役割であった。
だが、千代はその強固な「当たり前」に決して従わなかった。
「女性が子供を育て、家庭を愛しながら、同時に一人の独立した研究者としての仕事も全うする」
千代はその先進的な生き方を自らの背中で実践し、当時の日本を縛り付けていた頑迷な「性別役割分業」の概念を、内側から静かに、しかし強固に変えていこうとしたのだ。当然、それを実現するためには、家事や育児の負担の一部を拓実が対等に担う必要があった。
「いやぁ、千代さん……。数式を解くのは明快でいいんですけどねぇ、この皿洗いや洗濯という奴は、どうしてこうも不確定要素が多くて手がかかって厄介なんでしょうねぇ……」
相変わらず料理だけは壊滅的にできなかったが、かつては部屋を散らかしっぱなしだったあの生活力皆無の数学者が、苦手なはずの拭き掃除や、慣れない手つきでの庭木の剪定など、毎日ヒイヒイと文句を垂れながらも、どこか楽しそうにこなしている。
かつて大学の研究室で彼が「昼行燈」と呼ばれていた頃を知る学友たちが見れば、文字通り天地がひっくり返っても信じられないような、奇跡に近い光景がそこにはあった。
しかし、時代を先取りしすぎた二人の公私のあり方は、当然のように世間からの激しい反発と冷酷な誤解を招くこととなる。
近所や親戚からは、「菱元さんのところの奥さんは家庭を顧みない」「旦那様を家政夫のように扱って、外で好き勝手なことばかりしている」と心ない陰口を投げつけられ続けた。女性が社会の表舞台へ出て発言すること自体が、まだ生意気だと忌避される時代だったのだ。
週刊誌や学会誌には、千代の急進的な学説を痛烈に批判する記事が載ることもあった。学術的に正当な批判であれば千代も真摯に受け止めたが、その多くは単に「女の分際で」「家庭を壊す思想だ」という感情的なレッテル貼りに過ぎなかった。
「……随分とひどい書かれようだねぇ」
ある夜、机の上に広げられた批判記事を見つめて眉をひそめる拓実に対し、千代は柔らかく髪を耳にかけながら、静かに微笑んだ。
「もう、すっかり慣れましたわ。……それに拓実さん、世間から賞賛されることだけが良い学問の証というわけではないでしょう?」
さらに、結婚して籍は『菱元』に入れたにもかかわらず、学者としては一貫して旧姓の『立花千代』のままで論文を発表し、大学の教壇に立ち続けたことも、保守的な学会や世論から格好の攻撃の対象となった。
「どうして夫の姓を名乗らないのか。夫への不満や、家制度への反逆の表れか」
そう詰め寄る頑固な老教授たちに対し、千代はただ凛として背筋を伸ばし、「いいえ。私が私であるために、この名で論文を残さねばならない絶対の理由があるのです」とだけ答え、毅然とした態度で決して首を縦に振らなかった。
(こうして『立花千代』の名で歴史に事実を刻み続けないと……100年後の未来で、あかりが私を見つけてくれないかもしれないから)
その本当の理由は、誰にも言えない、千代の胸の最も深い場所に隠された聖なる秘密だった。
しかし、壁はそれだけにとどまらなかった。
千代が命をかけて向き合う「福祉の拡充」や「新しい社会規範」の現場においても、戦後の思想闘争の荒波が容赦なく二人に襲いかかったのだ。
最初は思想が近いと信じ、協力関係を築こうとした社会運動団体や急進的な活動家たちとも、次第に決定的な深い溝が生まれていった。
千代や拓実のアプローチは、どこまでも「客観的なデータと緻密な制度設計」という、誰の尊厳も思想も傷つけないための【ロジックとしての理解と救済】だった。しかし、当時の社会運動の多くは、特定の政治的な【イデオロギーとしての強烈な主張と糾弾】を強く求めるものだったのだ。
「立花先生、あんたは冷たい数字や数式ばかり見ている! 私たちが毎日目の前で見ている、この労働者たちの血の滲むような苦しみを、本当は何も理解していないんじゃないですか!?」
集会所で激昂する活動家に詰め寄られても、千代の瞳は少しも揺らがなかった。
「理解したいからこそ、個人の感情論で終わらせず、持続可能なシステムとしての『制度』にしなければならないのです」
「その制度はいったいいつ出来上がるんですか! 今、この目の前で飢えて苦しんでいる人はどうなる! 今すぐ国をひっくり返さなくてどうするんですか!!」
時には、昨日まで同志だと信じていた人々から「体制側の犬」「冷酷な裏切り者」と激しく罵られ、あらゆる陣営から孤立することさえあった。理想論の嵐にも、偏った左右の思想にも決して与しないその歩みは、時に狂暴なほどに孤独だった。
それでも――二人は、決して歩みを止めなかった。
世間にどれだけ叩かれ、四方八方から孤立しようとも、拓実は淡々と埃っぽい黒板に向かい、誰も言い逃れのできない冷徹で完璧な「数字の盾」を研ぎ澄まし続けた。そして千代はその盾を誇らしげに胸に抱き、どんな偏見と罵倒の嵐の中でも怯まずに、未来の選択肢を示すために毅然と教壇に立ち続けた。
すやすやと眠る我が子の愛らしい寝顔を見つめる夜、ふと張り詰めた緊張が解け、疲れが滲む千代の肩に、拓実がそっと温かいお茶の淹れられた湯呑みを置いた。
「千代さん。どうやら僕たちのやっていることは、今の昭和の確率計算ではまだ、社会の表面に十分浸透できない段階にあるようです。変人扱いされるのがオチだ」
拓実は自分のマフラーを弄りながら、しかしその丸メガネの奥の瞳に揺るぎない理知の光を宿して続けた。
「……でもね、30年後、50年後、あるいはもっと先の世界になれば、君の語る社会も、僕の作ったこの数理モデルも、すべてが『当たり前の景色』になりますよ。僕の計算には自信がありますから」
「……ええ。分かっていますわ、拓実さん。あの子たちが生きる遠い未来を、少しでも優しくて自由な場所にするために……私たちがここで立ち止まるわけにはいきませんものね」
千代は愛おしそうに微笑み、拓実の無骨で大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
激動の昭和の濁流を、二人はただまっすぐに、互いの存在だけを信じて生き抜いていく。
かつて世界を救った華やかなプリキュアの魔法が去った世界で。
今や二人の人間の地道な知性と、不屈の意志だけが、100年後のあかりへと繋がる一本の頼もしい黄金の航路を、暗闇の歴史の中に、確実に切り拓いていた。