それから、さらに幾度目かの季節が足早に通り過ぎていった。
日本は昭和四十年代に入り、街にはカラーテレビの鮮やかな色彩があふれ、自家用車が排気ガスを上げて走り回り、社会はかつてない高度経済成長の激変の渦中にあった。
そんな高度文明の喧騒から少し距離を置いた、A町の隣町のはずれにひっそりと佇む菱元家では、千代と拓実の愛する子どもたちも、時代の光を浴びてすくすくと健やかに大きくなっていた。
長男の拓哉(たくや)は、今年で十四歳。父親の拓実に似てどこか理屈っぽくマイペースで、暇さえあれば年季の入った将棋盤に向かって、一人で熱心に定跡を研究しているような少年だ。
一方、長女は十二歳。こちらは一体誰に似たのか、天真爛漫で底抜けに明るく、彼女がそこにいるだけで周囲の空気をパッと華やかにしてしまう、太陽のような少女だった。
ある日の穏やかな夕暮れ時。
ガラガラと小気味よい音を立てて玄関の引き戸が開くと、拓実が大学の研究室から、お気に入りの若い助手――二十二歳の熱心な青年である松本を連れて帰ってきた。
「あら、松本さん。いらっしゃい」
千代が割烹着の袖をまくり、トントンと小気味よい包丁の音を響かせていた台所から顔を出して微笑むと、松本は大きな風呂敷包みを抱えたまま、恐縮したようにペコリと深く頭を下げた。
「夜分にすみません、千代先生……。いつもいつも、こうして急にお邪魔してしまって……」
「まーあ、いいじゃないですかぁ。さっきまで研究室で一緒に議論してたんだし、明日も朝一番からどうせ二人で合同研究会に出るんだからさぁ。ここに泊まって行動を共にしたほうが、移動時間とエネルギーのロスが防げて極めて効率がいいよねぇ」
拓実は首にだらしなく巻きついた長いマフラーを不器用に外しながら、いつものんびりとした調子で言った。松本は非常に優秀かつ真面目な若者であり、こうして菱元家に泊まらせてもらい、夜遅くまで学問の議論を交わすのも、すでに何度も繰り返された見慣れた光景だった。
「本当に構いませんよ。今すぐお食事の用意をしますから、そちらでちょっと待っていてね」
千代が優しく言って台所へと戻ると、そのすぐ後ろを、すり足で長女がちょこちょことついてきた。悪びれもしないちゃっかりとした笑みを浮かべ、少し大人びた口調で千代の顔を覗き込んでくる。
「ねえお母さん、松本さんがいらしたんだから、まずはちゃんとお菓子を出さなきゃダメだよ? お客様へのおもてなしは、我が家の基本でしょ?」
「もうすぐ夕飯だって言っているでしょうに……。もう、分かったわよ。棚の缶に入っているお煎餅なら、出していいわよ」
「さすが、お母さんは話がわかる! じゃあ、私がお茶も美味しく淹れて持っていくね!」
お客様のため、という立派な正論を並べ立てながらも、その実、自分も一緒にそのお煎餅を食べる気満々でちゃっかり自分のお皿まで準備する娘。千代は「もう、本当にお調子者なんだから」と呆れつつも、その天真爛漫で少しだけ生意気な後ろ姿に、かつての愛おしい「誰か」の面影を重ねるように、思わず目元を優しく緩ませるのだった。
そこへ、トントンと廊下を小走りに駆ける足音がして、十四歳の長男・拓哉が顔を出した。
「あ、松本さん、また来てくれたんだ。……ねぇ、ご飯ができるまでの間に、ちょっと一局打とうよ」
「こら、拓哉。松本さんは明日の研究会の準備でお忙しいんだから、困らせるんじゃないの」
千代がすかさず窘めるが、松本はいつも通り快く破顔した。
「いいんですよ、千代先生。いつも美味しいご飯をご馳走になってますし、僕も論文の読みすぎで凝り固まった頭をほぐすのに、ちょうどいいですから。喜んで受けて立ちましょう」
「やった。お相手、お願いします」
拓哉は嬉しそうに目を輝かせると、大事そうに将棋盤を抱えて居間の畳へと運び、松本と向かい合ってパチリと駒を並べ始めた。
千代が台所で出汁のいい香りを漂わせながら夕食の仕上げをする間、パチ、パチ、と静かで心地よい駒の音が居間に響き始める。拓実が縁側の藤椅子に深く腰掛け、のんびりと夕闇に沈む庭を眺めていると、娘がお茶とお菓子を器用に運んでいくのが見えた。
拓哉が松本に厳しい一手を指され、頭を抱えて「ううむ……」と少年の声を漏らして唸っている間、松本はふと、窓の外の庭に目を向けた。
「……あれ? 教授、なんかあの隅の盆栽、前より増えてません?」
「ああ、よくぞ気づいてくれたねぇ、松本くん」
拓実が待ってましたとばかりに嬉しそうに目を細める。どうやら、数年前に千代に言われて始めた庭の手入れをきっかけに、この天才数学者はすっかり園芸、特に「盆栽」の奥深い魅力に取り憑かれてしまったようだった。
台所から出来上がった料理を運んできた千代が、クスリと悪戯っぽく笑いながら口を挟む。
「そうなのよ、松本さん……。文句を言わずに手入れして、お庭を綺麗に保ってくれるのは本当にありがたいんだけどね。この人、盆栽の枝の曲がり具合を調整して針金を巻くのに、わざわざ複雑な計算式をノートに解いてからやるのよ。そんな理屈っぽい盆栽、私、生まれて初めて見たわ」
「いいじゃないですかぁ。これはね、一見すると無作為な自然の姿のようであって、実は極限まで人間によって計算された幾何学的な様式美なのだよ。針金の張力と、木の成長速度を割り出して……」
「はいはい、いいから。もっと肩の力を抜いて、純粋な趣味として楽しめばいいのに」
千代が呆れたように言うと、松本も思わず声を上げて苦笑した。
しかし、そんな大人たちが会話に気を取られた一瞬の隙を、十四歳の少年は見逃さなかった。
パチン! と、それまでとは明らかに違う、一段と鋭く硬い駒の音が居間に響き渡った。
「――王手」
「……え?」
拓哉の放った、鋭い死角からの鮮やかな奇襲の反撃。
さっきまで大人の余裕を見せていた松本が、逆に将棋盤の前でピキリと信じられないものを見たように固まった。
「あれ? ちょっと待ってくれよ拓哉くん。ここの筋の歩を突いてから来るとは……。ええと、ここを飛車で受けると、今度はこっちの角が詰む……? え、嘘だろ?」
「松本さん、また油断したね」
「また、って……」
「お父さんとお母さんの話が面白くなると、すぐ盤面見なくなるじゃん」
冷や汗を流しながら、逆に絶句して頭を掻きむしり盤面を睨みつける若き助手。その微笑ましくも平和な光景を、千代は胸の奥がじんわりと熱くなるような愛おしさで見つめていた。
(……拓哉も、もう、十四歳なのね)
十四歳。
それは、かつて千代の運命が、そしてこの世界の歴史が決定的に変わった、あの約束の年齢だった。
昭和十年の、あの気の遠くなるほど暑かった夏。自分と同じ十四歳という若さで、あまりにも重い運命を背負いながら、それでも未来を信じて笑顔で駆け抜けた「あかり」と出会い、共に手を取り合って新しい世界を拓こうとした、自分自身の燃えるような情熱。
今、目の前で、戦争の影も飢えの恐怖もなく、平和な光の中で穏やかに、ただ大好きな将棋に心から熱中して育っている我が子を見る。
(あかり……。私の目指した、私たちが夢見たあの優しい世界も……ほんの少しは、こうして形にすることができたのかな……)
世間からの女性研究者に対する偏見や、急進的な学説へのバッシングは、今なお完全には消え去ってはいない。イデオロギーの激しい渦に巻き込まれ、孤独と戦う夜も決して少なくはなかった。
けれど、この家の中に満ちている温かな家族の景色と、お煎餅を美味しそうに頬張る娘の屈託のない笑顔、そして千代たちの背中を見て、確かに新しい時代を切り拓こうとしている松本のような若い世代の瑞々しい姿が、千代の歩んできた茨の道の正しさを、何よりも雄弁に、美しく証明していた。
千代は、胸の中のあかりに「私、間違っていなかったよ」と優しく微笑みかけるように、静かに、深く幸福な息を吐き出した。
その後も立花千代は、白髪が混ざり、晩年を迎えるその瞬間まで、衰えることのない情熱で精力的に社会学の研究活動を続けた。
時代がどれほど移り変わろうとも、彼女は決してペンを置かなかった。
100年後の未来に生きる、まだ見ぬすべての「あかり」たちが生きる世界を、少しでも優しく、選択肢にあふれた自由な場所にするために。
そして『立花千代』の名は、彼女が残した数々の不朽の論文や著作の中に深く刻まれ、日本社会学の歴史の礎として、未来永劫、静かに受け継がれていくことになるのだった。