あの日。激動の過去から、何事もなかったかのように平穏な現代の日常へと戻ってきたあかりを待っていたのは、世界が確かに優しく書き換わったという、奇跡のような証明の数々だった。
千代ちゃんは、あの過酷な運命を生き抜いたのだ。
悲劇の歴史をその強い意志で乗り越え、高度成長期の日本において社会学者として数々の立派な業績を残し、今では「現代につながる社会規範と福祉の礎を築いた偉人」として、地元の小さな資料館で静かに紹介されている。
「歴史は……本当に、変わったんだね……」
溢れ出す狂おしいほどの嬉しさと同時に、あかりの胸をきゅっと冷たく締め付けたのは、自分がこの世界に生まれるよりずっと前に、千代がすでにこの世を去っていたという、厳然たる時間の壁だった。
会いたい。もう一度だけその手を握って、名前を呼び合いたい。けれど、もうこの世界線のどこをどう探しても、大人の女性になった彼女は存在しないのだ。温かい涙が、ぽろぽろとあかりの頬を伝い、現代のフローリングの床に落ちて消えた。
まるで千代の生きた記憶の答え合わせをするように、あかりは休日、もう一度地元の資料館へと足を運んだ。
薄暗いガラスケースの中。かつて妖精「クロノス」としてあの激動の日々を一緒に駆け抜けたはずの懐中時計は、すべての役目を終えたかのように、元の古びてピクリとも動かない、ただの静かなアンティークに戻っていた。
その傍らに展示されていたのは、「女学校時代の立花千代」と記された一枚のモノクロ写真だった。
古ぼけてセピア色に劣化し、少し見えにくくなってはいたけれど、千代のすぐ隣で、セーラー服を着て満面の笑みを浮かべている少女の姿に、あかりは思わず息を呑んだ。
(……嘘、これ、間違いなく私じゃない!?)
千代と過ごした日々が確かにそこにあったのだと、泣き出したくなるほど愛おしく思ったのも束の間、ふと「歴史に未来人の痕跡を残してしまった」という事実に気づき、あかりは冷や汗をかいた。
しかし、数日後に恐る恐る資料館を再訪すると、その写真は「展示資料の定期入れ替え」という名目で、いつの間にか千代の単身でのアメリカ留学時代の写真へと差し替えられていた。
ほっと胸をなでおろしながらも、あかりの心には、あの眩しい日々が歴史の修正力によって優しく消し去られてしまったような、言葉にできない寂しさが小さく澱のように積もっていくのだった。
それからあかりは、近所の大きな図書館へ行き、千代が遺した著作をいくつか借りてページをめくってみた。
しかし、「社会学への招待」などと優しく銘打たれた本であっても、それは専門的な学問を志す大学生や大人向けに書かれたものだ。まだ中学生のあかりにとっては、「書いてある漢字や専門用語がギリギリ理解できるかできないか」というレベル。ましてや本格的な専門書となれば、膨大なカタカナの前提知識や、複雑な統計データの数式が延々と並び、とても太刀打ちできるものではなかった。
どれほどの努力を重ねれば、あの千代ちゃんが、こんな立派な本を書けるようになるのだろうか。
(……あの千代ちゃんが、こんなに難しくて、凄い本をたくさん書いたんだ……)
誇らしくて、本当に立派だなあと思う反面、あかりの胸には徐々に、奇妙に割り切れない寂しさが芽生え始めていた。
――本の向こう側にいるこの偉大な学者先生は、本当に、私の知っているあの千代ちゃんなんだろうか。
さらに年譜を調べるうちに、千代が「菱元拓実」という優秀な数学者と結婚し、温かい家庭を設け、子どもたちに囲まれてその生涯を全うしたことも知った。
調べれば調べるほど、ページをめくればめくるほど、彼女はあかりの知らない、立派な大人の「立花千代」になっていく。
自分だけが十四歳の子供のまま未来へ置いていかれたような寂しさと、彼女のあずかり知らぬプライベートを後ろから覗き見しているような、奇妙な罪悪感。
自分でも処理しきれない複雑な感情に胸が苦しくなり、あかりはある日を境に、千代の過去を検索するのを一切やめてしまった。
これ以上触れれば、あの激動の中で紡いだ、二人だけの真っ白で純粋な大切な思い出が、何か別の大きな歴史の記録に書き換わって壊れてしまうような気がしたからだ。
その後、あかりは地元の高校へと進学した。
トップクラスの超進学校ではないものの、地域ではそれなりに名前の通った伝統のある進学校だ。過去から戻って以来、物事に対する集中力が飛躍的に上がっていたあかりの成績は、面白いようにぐんぐんと伸びていった。
模試の判定が上がるたび、両親は「受験が近づくと一気に化ける子がいるって本当なんだね!」と手放しで大喜びしてくれた。あかり自身、少しだけ誇らしい気持ちにはなった。
けれど、心のどこかで、いつも冷めていくもう一人の自分がいた。
(……でも、私なんかよりずっと何倍も凄いことを、一生かけて成し遂げた子を、私は知っているから)
胸の奥に深く突き刺さったその無意識のトゲが、小さな成功に溺れそうになるあかりの足を、いつも冷酷に止めさせる。
そんな割り切れない思いを振り払うように、高校生活ではソフトテニス部に全てを捧げた。
ボールを全力で追いかけ、ラケットの芯でひたすら打ち抜いている間だけは、余計な過去も未来も忘れ、その一瞬の呼吸にだけ集中できたからだ。汗だくになりながらコートを走り回り、部活の仲間たちと笑い、泣き、一喜一憂し汗を流した時間は、あかりにとって現代で手に入れた何物にも代えがたい本物の宝物になった。
しかし、そんな眩しい青春の季節は、残酷なほどあっという間に過ぎ去っていく。
夏の大会が終わり、部活を引退したあかりを待っていたのは、「進路選択」という、いよいよ人生の地続きの未来を選ばされる大きな決断の瞬間だった。
放課後の教室。夕日が差し込む机の上で、一枚の「進路希望調査」の白い紙を前に、あかりのシャープペンの先はピタリと止まったまま動かない。
「私……これから、本当に何がやりたいんだろう」
いくら頭を抱えて考えても、輪郭のある答えは一向に見つからなかった。
周りの友達が「将来は看護師の資格を取りたい」「大学で経済を学びたい」と、それぞれの地平を見つめて現実的な目標を決めていく中、自分だけが中身の入っていない空っぽの器のまま、ポツンと取り残されているような気がした。
ふっと、あの激動の時代の中で、凛として前を見据えていた千代の横顔が頭をよぎる。
千代ちゃんは、まだあかりと同じ女学生だったあの頃からすでに、「社会学を学びたい。誰もが笑い合える世界を作りたい」という明確な志を持っていた。その強い意志を胸にアメリカへ渡り、逆風の中で学者になり、暗い時代を突っ切って、たくさんの確かな足跡を未来へ遺した。
(私には……私には、千代ちゃんみたいに、未来に向かって何かを遺せるような特別なものなんて、何一つないよ……)
自分が本当はどうしたいのか、何のために机に向かって勉強しているのかも分からないまま。
あかりはただ、夕日に赤く染まっていく机の上の、真っ白で冷たい進路希望の紙を、ただじっと見つめ続けることしかできなかった。