チェンジヒストリープリキュア   作:RBうじざね

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『呼び出し音の彼方、届かぬはずの声』

六月の終わり。

梅雨の合間の蒸し暑い日の夕方、研究会の手伝いアルバイトが無事に終了した。重い三脚や何本もの太いケーブルを台車で機材庫へ運び、ようやく片付けを終えたあかりは、教授に「時任さんも、もし時間が許すならそのままおいでよ。今日の労いも兼ねてね」と気さくに誘われ、断る理由も見つからないまま、研究会の打ち上げに参加することになった。

 

場所は駅前の賑やかな居酒屋。座敷席には、他学部の教授たちや頼もしい大学院生たちがズラリと並んでいる。

乾杯の音頭が勢いよく鳴り響くや否や、あかりの左右や目の前では、研究者同士による極めて専門的で難解な議論が、目にも留まらぬ速さで飛び交い始めた。現代社会論や思想史の小難しい用語たちが、右の耳から左の耳へとただ通り過ぎていき、あかりにはその中身が半分も理解できない。

 

今回の学生アルバイトは三人いた。しかし、一人は用事があると言って研究会終了後にすぐ帰宅し、もう一人も打ち上げの席にはついたものの、「あ、自分、終バスの時間があるんでここで失礼します!」と元気よく頭を下げて早々に帰っていった。

広い座敷の片隅に、ぽつんと取り残されてしまったのはあかりだけだった。

「おや、時任さんはまだ残ってくれているのか。君も成人してお酒が飲める年齢になったら、こういう席は付き合いが多くて大変だろうなぁ」

教授がジョッキを片手に笑いかけてくる。

「あはは……いやいや、私、たぶんお酒はすごく弱いと思います」

愛想笑いで適当に答えながら、ウーロン茶のグラスに口を付ける。

(スクーターで来たから飲めないだけで実は成人してるんだけど・・・幼く見えるのかな?)

賑やかな場自体は嫌いではない。けれど、知的な大人たちの輪の中に、自分から積極的に入っていくのはどうしても苦手だった。あかりは自然と、座敷の最も隅の席へと身を落ち着かせた。

 

教授たちの会話をBGM代わりに聞き流しながら、手元のスマホをなんとなく眺めていた、その時だった。

「――いやぁ、昔は本当にお世話になりましてね」

少し離れた席から、ふとそんな言葉が耳に飛び込んできた。

声の主は、教授の知り合いらしく特別に招かれていた、かなり年配の男性だった。真っ白な髪に、仕立ての良いシャツ。非常に柔らかな物物腰で話している。

「へえ、どなたにです?」

別の院生が尋ねる。白い髪の男性は、愛おしそうに目を細めて言った。

「菱元(ひしもと)先生ですよ」

 

ドクン、とあかりの心臓が跳ねた。スマホを操作していた指先がピタリと止まる。

持っていたグラスの中で、氷がカラランと小さく乾いた音を立てた。

「ああ、あの数学の?」「そうそう、あの菱元先生」

男性は懐かしそうに、遠い目をしながら笑った。

「私がまだ若い頃にね。ずいぶん目をかけていただきまして、助けていただきました」

 

菱元。

その名前が鼓膜を震わせた瞬間、あかりの胸の奥深く、澱のように沈んでいた記憶の底から、何かが猛烈な勢いで脈打ち始めた。

ひしもと。菱元先生。高名な数学者。

そして――立花千代の、生涯の伴侶。

 

あの日、命をかけて共に未来を変えた少女が、やがて人生を共に歩むことになった人物。

日々の忙しさに紛れ、忘れていたはずだった。いや、現実の大学生としての生活を守るために、必死に忘れようと蓋をしていたのかもしれない。

一気に、脳裏にあの昭和の情景がフラッシュバックする。

激しい蝉の声。古い女学校の廊下。岡谷邸の重厚な空気。夜空を彩った大きな花火。楽しかったダイナー。

そして、自分の手を握ってくれた千代の、あの最高の笑顔。

 

あかりは思わず、ウーロン茶のグラスを指が白くなるほど強く握りしめた。

周囲の教授たちは、何事もないように普通の会話を続けている。当然だ。誰も気づいていない。この「菱元」という苗字が、この席にいる一人の女子大生にとって、どれほど特別な意味を持っているのかを。

 

(聞くべき? ……それとも、知らないふりをしておくべき?)

 

胸の奥が、壊れた時計の歯車みたいに激しくざわつく。もし違ったら? 同姓同名の別人だったら? あるいは、やっぱりあの日々が私の都合のいい妄想の産物だったとしたら?

怖い。確かめるのが、たまらなく怖い。

――それでも、聞かずにはいられなかった。千代ちゃんが確かにあの時代を生き、誰かと幸せになった証に、少しでも触れたかった。

 

あかりはゆっくりと、吸い寄せられるように座敷の上に立ち上がった。

その突然の動きに、話をしていた真っ白な髪の年配の男性が、不思議そうにこちらを振り返る。

「あの……」

あかりの声は、自分でも驚くほど小さく、細く震えていた。

「はい? どうしました?」

会話が止まり、座敷にいる全員の視線が、一瞬にしてあかりに集まる。急激な緊張感で喉がカラカラに乾いていく。けれど、もう引き返せない。

あかりは胸いっぱいに小さく息を吸い込み、意を決して、まっすぐにその男性を見つめて尋ねた。

 

「……あの、菱元拓実先生をご存じなんですか?」

 

その瞬間、あかりの視界の中で、遠い遠いあの始まりの日々へと続く扉が、静かに、しかし確かに開いた気がした。

 

 

真っ白な髪の年配男性、松本教授からメッセージアプリで連絡が届いたのは、それから三日後の夕方だった。

『先方には、時任さんの件をすでにお話ししてあります。快く引き受けてくださったので、こちらの連絡先に一度、直接連絡してみてください』

 

短い事務的な文章の後に、ひとつの電話番号が添付されている。

あかりは自分の部屋のベッドに座り、しばらくの間、夕闇が迫る部屋の明かりもつけずにスマホの画面を見つめていた。

胸の奥が、妙にそわそわして落ち着かない。

 

立花千代。

あの資料館の展示パネルで、静かに微笑んでいた名前。

大学の巨大な図書館の片隅で、難しい装丁の本に刻まれていた著者名。

そして――何があろうと、世界で誰よりも自分がよく知っている、大切な女の子の名前。

 

あかりはゴクリと唾を飲み込み、意を決して、画面の通話ボタンをタップした。

耳元で、静かに鳴り響く数回の呼び出し音。心臓の音がうるさいくらいに耳の奥で跳ねる。

 

『――はい、菱元です』

 

スピーカーから聞こえてきたのは、非常に穏やかで、どこか知性を感じさせる男性の声だった。

あかりは緊張でガチガチになりながらも、大学名と自分の名前を名乗り、先日の研究会での縁と、大学の課題として「地域の偉人 社会学者 立花千代の生涯」をテーマにした自主制作ドキュメンタリーを制作したく、ぜひお話を伺いたいという旨を一生懸命に説明した。

すると、受話器の向こうの相手は、フッと柔らかく笑って、快く応じてくれた。

『社会学ではなく、映像学部の学生さんですか。祖母の足跡に興味を持ってくださるなんて、それは今の時代、珍しいですねえ。いいですよ、私でお役に立てることであれば、何でもお話ししましょう』

 

具体的な訪問日程の調整が済み、通話が切れる。

あかりはスマホを胸に抱きしめたまま、ゆっくりと仰向けに倒れ込み、天井を見上げた。

 

なんだろう、この感覚は。

大学の、ただのひとつの課題のための「取材」に過ぎないはずなのに。

まるで、自分の人生を大きく左右する大切な試験を、これから受ける前のような――そんな激しい緊張と、不思議な高揚感が、あかりの胸をいつまでも満たしていた。

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