当日、あかりは初夏の陽気の中、電動スクーターを走らせていた。目的地はA町の隣市、その郊外のさらに外れにある。
ヘルメットの隙間から滑り込んでくる六月の風が、火照った頬を心地よく撫でていく。
ナビが告げた目的地に到着した瞬間、あかりは思わずブレーキを握り、速度を落とした。
「わぁ……」
そこに佇んでいたのは、立派な和風建築だった。
長い年月を経て木肌は深く渋い色に落ち着いているが、隅々まで手入れが行き届いている。美しく整えられた庭木の間から、木漏れ日が柔らかく畳の匂いを運んでくるようだった。
なんとなく、あの昭和十年に訪れた岡谷邸を思い出す。もちろん規模も構造も違う。けれど、そこに漂う凛とした、それでいてどこか懐かしい空気の粒子が、驚くほどよく似ていた。
門をくぐると、玄関先で初老の男性と奥様が穏やかに迎えてくれた。
「時任さんですね」
先日、電話口で丁寧に応対してくれた男性だ。目元に優しい笑みをもらせている。
「遠いところ、よくお越しくださいました」
「いえ! こちらこそ、突然不躾なお願いをしてしまってすみません」
あかりはスクーターを止め、ぺこりと深く頭を下げた。
「ははは、気になさらずに。古い付き合いのあった先生方や大学の教授は時々いらっしゃるんですがね」
男性は声を立てて笑う。
「あなたのような若い学生さんが一人で取材に来るなんて、本当に珍しいんですよ。さあ、どうぞ中へ」
案内された応接間は、磨き抜かれた廊下の奥にあり、広々としていて不思議なほど心が落ち着く空間だった。
「私は、千代さんと同じ、あのA町の出身なんです」
あかりは差し出された冷たいお茶を前に、少し背筋を伸ばして緊張気味に切り出した。
「地元の資料館で千代さんの功績を紹介されているのは、子供の頃からずっと知っていて……。それで今度、大学の自主制作でドキュメンタリー映画を撮ることになったんです。どうしても、千代さんの人生をテーマとして取り上げさせていただきたくて、お電話しました」
「なるほど、そういうことでしたか」
男性は深く得心がいったように、嬉しそうに頷いた。
「そこまで言っていただけるなら、祖母もきっと泉下で喜んでいると思いますよ」
あかりは「あ、これ地元の、千代ちゃんも好きだった和菓子で……」と言いそうになり、慌てて「地元で人気の和菓子なんです」と言い直して手土産を渡した。それから、まずはご挨拶をと、仏壇の間へと案内される。
線香の煙が静かに立ち上る仏壇の中央。そこには、二つの遺影が仲良く並んでいた。
優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべる、年老いた千代。
そしてその隣で、やはりあの頃と変わらない丸メガネをかけ、穏やかに微笑む老年の菱元博士。
あかりは静かに膝をつき、両手を合わせてそっと目を閉じた。
きゅっと、胸の奥が締め付けられるように苦しい。
いま目の前の写真の中にいるのは、あかりがよく知る、あの「十四歳の千代ちゃん」ではない。昭和初期という激動の航路を懸命に、けれど誰よりも凛として生き切り、天寿を全うした『立花千代』という一人の偉大な女性の、堂々たる終着点だった。
仏壇への挨拶を終えると、すぐに取材が始まった。
あかりは手慣れた手つきで一眼カメラを三脚に据える。畳を傷つけないよう、三脚の脚の下にフェルトの保護シートを敷くことも忘れない。ポケットから取り出したスマホも、予備の録音用レコーダーとして手際よく起動する。普段はドタバタしているあかりだが、映像学部の学生としての顔は、驚くほど抜かりがない。
「留学中の話、ですか?」
「はい。できれば、アメリカに行かれていた頃の様子を……」
男性は「ちょっと待ってくださいね」と席を立ち、奥から一冊の、ずっしりと重い古いアルバムを運んできてくれた。
ページをめくると、あかりの胸がドクンと跳ねる。
そこには、初めて見る「若い頃の千代」の姿があった。
セピア色に変色した古き良きアメリカの街並み。大学の仲間たちと肩を並べて笑う写真。そして、ページの間には、びっしりと英語の数式や社会学の理論が書き込まれた、色褪せた研究資料が挟まれている。
それは、彼女が「立花千代」として世界と戦い、歩んできた、あまりにも長くて密度の濃い人生の足跡そのものだった。
あかりは夢中でペンを走らせ、男性の話に耳を傾けた。
知らなかった。あの時、別れてから。未来に帰ってから。千代ちゃんが留学先のアメリカや、日本に戻ってからもどれほどの壁にぶつかり、それをどう乗り越えてこんな素晴らしい人生を築いたのか。あかりの知らない彼女の歴史が、パズルのピースのように埋まっていく。
「盛り上がっているところ恐縮ですが、少し休憩にしましょうか」
奥様がトレイに温かいお茶を載せて運んできてくれた。
「せっかくだから、今お持ちいただいたお菓子をみんなでいただきましょう」
お皿に綺麗に切り分けられて並べられたのは、あかりが持参した地元の和菓子だ。
お茶の香りが部屋に満ち、張り詰めていた空気がふっと緩む。
そして、無意識のうちに。
「あ、おいしい」
もぐもぐ、もぐもぐ。
誰よりも先に、持ってきた本人が一番いい音を立てて口を動かしていた。
「……あ」
次の瞬間、あかりの動きが、まるでピタゴラスの定理を証明する数式のようにカチコチに固まった。
やってしまった。完全にいつもの、あかりの食いしん坊な癖が出てしまった。実家感覚で、自分が持ってきたお土産を、なぜ取材先で私が真っ先に、誰よりもおいしそうに食べているんだ。脳内で「バカバカ! 私のバカー!」と激しくのたうち回り、顔を真っ赤にするあかり。
しかし、その様子をじっと見ていた夫婦は、お互いの顔を見合わせて、破顔した。声を殺して、本当に愛おしそうに優しく笑っている。
「本当に、このお菓子がお好きなんですね」
「え? あ、あの、すみません……っ!」
消え入りそうな声で謝るあかりに、奥様がさらに微笑みを深めた。
「いいんですよ。形式的な、ただの上辺だけのお土産じゃなくてね。あなたが本当に美味しいと思って、大好きなものを、祖母のために選んで持ってきてくれた。それが何より嬉しいんです」
あかりは今度こそ耳の付け根まで真っ赤になり、小さく「……はい」と俯くしかなかった。
気恥ずかしい休憩時間を終え、話題は千代が晩年に遺した膨大な著作の数々へと移っていった。
「実は私、何冊か図書館で借りて読んだんですけど……」
あかりはポリポリと頭を掻きながら、苦笑いを浮かべた。
「あの、本当に難しくて。全然頭に入ってこなくって……」
「ああ、それはそうでしょう」
男性は深く納得したように何度も頷いた。
「確かに祖母の専門書は、当時の最先端の社会学ですからね。専門の学者でもかなり難解だと言われています」
そこから、男性は専門的な言葉を一切使わず、信じられないほど分かりやすい言葉で、千代が一生をかけて打ち立てた学問の核心を説明してくれた。
あの女性が声を上げることも難しかった不条理な時代背景の中で、千代が何を社会に伝えたかったのか。なぜ彼女が、出自や性別に関係なく、誰もが自分の人生を自分で選べる「優しい世の中」という思想に、生涯をかけて辿り着いたのかを。
話を聞くうちに、あかりの胸の奥が、どくどくと熱くなっていく。
知っていたはずだった。あの激動の時代、誰よりも彼女の近くにいて、誰よりもその涙の意味を分かっていたはずだった。
けれど、やっぱり私は知らなかったのだ。千代ちゃんは、あかりの想像を遥かに超えるほど、こんなにも孤独で、こんなにも立派な人生を戦い抜いて、この世界を少しずつ、確かに変えていたのだ。
あかりの脳裏に、かつて心を通わせた昭和の仲間たちの姿が、走馬灯のように蘇っていく。
(千代ちゃんが生きて、戦争がなくなって、前よりも穏やかな世界になったのは、なんとなく分かってた。……けど、その世界は、千代ちゃんが、自分の意志でもぎ取って、選んだ世界でもあったんだ。千代ちゃんだけじゃない。永守さんも、岡谷さんも……みんなが、必死に手を伸ばして選んできた世界が、今、私の目の前にあるんだ)
(じゃあ……私が選んだ道で、私ができることって、一体何だろう?)
静かに、けれど忠実にインタビューを録画し続けている愛機「ルミちゃん」に、あかりはそっと愛おしそうな視線を向けた。今の私の武器は、このカメラだ。彼女たちの生きた証を、未来へ繋ぐことだ。
インタビューもいよいよ終盤。あかりは膝の上でぎゅっと拳を握り、少し躊躇いながらも、ずっと胸の奥で気になっていたことを尋ねた。
「あの……千代さんが実際に、晩年まで、その、お仕事なんかで使われていたお部屋とかって……まだ残っていたりするんですか?」
「うーん、生活用品なんかはねぇ」
奥様が少し困ったように眉を下げた。
「主な資料や日記、愛用の万年筆なんかはすべて、資料館や大学のアーカイブへ寄贈してしまいましたから。ほとんど残っていないんですよ」
しかし、少し記憶を辿るように視線を泳がせた後、奥様は「あ、でも」と言った。
「主人のこだわりで、ここだけは当時のまま、一切手をつけずに残してある部屋が、一つだけありますわ」
夫婦に案内されたのは、立派な日本家屋の、さらに奥まった場所にある静かな一室だった。
引き戸を開けると、微かな紙の匂いが鼻腔をくすぐる。
天井まで届く古い木製の本棚。長年の擦れで塗装の剥げかけた、どっしりとした机。書き損じの書類の束。うず高く積み上げられた洋書。
そのどれもが、何十年という途方もない歳月を、この部屋の中で千代と共に過ごしてきたことを物語っていた。
「どうぞ、自由に見ていただいて構いませんよ。撮影もどうぞ」
男性の優しい言葉に甘え、あかりは吸い寄せられるように本棚へ近づいた。並んだ本の一冊を、壊れ物を扱うようにそっと手に取る。
ページをめくると、余白に万年筆の細かな文字でびっしりと書き込みがなされ、無数の付箋が飛び出し、重要な箇所には何度も角が折られた痕跡があった。確かに立花千代が、そこで思考を重ねていた生々しい息遣いが、今もそこに残っている。
ふと、部屋の隅に置かれた、最も使い込まれた古い机が目に入った。
まるで目に見えない何かに強く引っ張られるように、あかりはそっと机に近づき、その一番上の引き出しに手をかけた。
ガララ……と、乾いた軽い音が響く。
中には、何冊かの古びた大学のノート。
そして――そのノートの隙間に、一通の封筒が、ひっそりと静かに眠っていた。
経年劣化で完全にセピア色に変色した、分厚い上質な紙。
封は開いていた。いや、開けたというよりは、数十年の気の遠くなるような長い歳月の間に、糊が完全に乾ききって、自然に剥がれてしまったのだろう。
「……これは?」
あかりの声が、自分でも驚くほど不自然に掠れた。
後ろから足音を立てて、男性がその引き出しを覗き込んだ。
「ああ、それですか」
少し記憶を遡るように視線を宙に泳がせてから、男性は懐かしそうに目を細めた。
「昔、まだ祖母が若い頃に連絡が取れなくなってしまったという、古い友人宛ての手紙みたいですね」
古い、友人。
あかりの心臓が、ドクン、と、耳元で鐘を鳴らされたように激しく跳ねた。
「そういえば、祖母は結婚して戸籍は菱元になったんですがね」
男性は、アルバムの中の丸メガネの老人を思い出すように微笑みながら続けた。
「学者として論文を書くときも、本を出すときも、死ぬまで頑なに『立花千代』のままで名前を名乗り続けていたんです。周囲からは随分と変人扱いされたそうですが」
「……」
あかりは言葉が出ない。喉が完全に張り付いていた。
「『こうしないと、私だと分かってもらえないかもしれないから』って」
男性は小さく笑った。
「昔、僕がまだ子供だった頃、一度だけ理由を聞いたら、そう言って少し寂しそうに笑うんです。不思議ですよねぇ。もうとっくに、学者になって有名だったのに」
あかりの鼓動が、急激に速くなる。ドクドクと、耳の奥で自分の血流が津波のような音を立てて暴れていた。手先がじわりと熱くなる。
「たぶん」
男性は、あかりの指先の間にある、その茶色く煤けた封筒を見つめた。
「その手紙の、連絡の取れないお友達のことを、ずっと待っていたんじゃないかな」
震える指先で、あかりはその封筒をそっと持ち上げた。
裏面に、万年筆の青いインクで、けれど確かな筆圧で書かれた、差出人の名前。
――『立花千代』
それだけの文字を視界に捉えた瞬間、あかりは涙で視界が歪み、息が詰まりそうだった。
千代ちゃんは、ずっと待っていたのだ。
いつか、自分が「菱元千代」になっても。何十年か経って、未来からこの時代を調べる「誰か」が、迷わずに自分を見つけてくれるように。あかりが未来の教科書で、その名前を見つけられるように。彼女は生涯、その名前を世界に掲げ続けていたのだ。
「……私が」
あかりの声が、激しく震える。
「私、これ、見ても……いいんですか?」
「どうぞどうぞ、構いませんよ」
男性は、あかりの言葉の本当の意味など、何も知らずにあっさりと言った。
「僕も昔、祖母が亡くなった時に一度読んでいますしね。咎められはしませんよ」
あかりは、じっとその封筒を見つめた。
時空を超えて。プリキュアの魔法も、歴史を変える奇跡も何もかもが消え去った、地続きの、残酷で愛おしい現実の歴史の果てで。
百年の航路を越えて、今、ようやく本来の宛先へと届こうとしている。
これは、立花千代から、時任あかりへの、最後の手紙だった。