震える指先で、丁寧に閉じられた封筒から一枚の便箋を取り出す。その紙はすっかり黄ばみ、ところどころに長い歳月の経過を物語る淡いセピア色の染みが浮かんでいた。
けれど、そこに万年筆で綴られたインクの文字は、今も驚くほどはっきりと、鮮烈な青さを残して残っている。
見慣れた、ちょっとだけ右上がりに癖のある、けれどどこまでも凛とした、丁寧な筆跡だった。
何十年の時を越えようとも、あかりには一目で分かった。
千代ちゃんの字だ。
あかりは小さく息を呑み、張り裂けそうな胸をなだめながら、ゆっくりと、その言葉を心の中で大切に読み進めていった。
――――――――――
『あかりへ
元気にしていますか?
この手紙を見るころ、あなたはどんな生活をしているのでしょうか。
まさか、私みたいなおばあさんではないと思うけど
あまりにも突然のお別れだったので、伝えられないことがたくさんありました。
あかりは私を救ってくれただけでなく、未来を拓く心を与えてくれました。
あの時伝えられなかった感謝を伝えます。
本当にありがとう。
私は私と全然違うあなたを見て 全然違う文化に触れて
それでも一緒に笑えるのはどうしてだろう? 一緒に笑えないのはどうしてだろう?
と考えるようになりました。
そして、今より少しでも暮らしやすい世界にするために、
世の中の仕組みはどうなっているのか
どうやったら変えていけるのかを今も考えています。
あなたの暮らす世界は今どうなっていますか?
どんな世界になっていたとしても、私はあかりの幸せを心から願っています。
間違っても、急いでこちらに来ないこと!
あかりはあかりらしく、時々つまづいたって、自分の人生を思うままに駆け抜けて下さい
私はずっと、見守っています。
立花 千代』
――――――――――
読み終わった瞬間、視界が完全に滲んだ。だめだった。
堪えよう、大学の取材なんだからしっかりしようと思ったのに、一度決壊して溢れ出した涙がどうしても止まらない。
ぽたり。
ぽたり。
あかりは、千代が遺してくれた世界に一枚きりの大切な手紙を濡らしてしまわないよう、慌てて便箋を持った手を胸元へと引き寄せ、机に突っ伏すように顔を伏せた。
ぽたり。
ぽたり。
大粒の雫が、古い木製のローテーブルの上に落ちて、小さな真ん丸い水溜りを作っていく。あかりは肩を激しく震わせた。
胸の奥がぎゅうぎゅうに苦しくて、けれどそれ以上に、言葉にできないほどの温かさと嬉しさが押し寄せ、そして同時に、もう二度と触れられないという猛烈な寂しさが混ざり合って、どうしようもなかった。
会いたい。もう一度だけでいいから、あの真っ直ぐな瞳をした彼女に会いたい。
あの、うだるように暑くて、世界の終わりみたいに激しかった夏の夜に戻って、もっともっと、たくさんくだらない話をしたい。もっとたくさん、お腹が痛くなるまで一緒に笑い合いたい。
けれど――それはもう、どんな魔法を使ったって、逆立ちしたって絶対に叶わないことなのだ。
千代ちゃんは、あの不条理な戦前の時代から、自分自身の独りの足でしっかりと歩みを進め、長い長い人生を立派に、美しく生き切った。誰に恥じることもない彼女自身の航路を、最後まで全力で駆け抜けたのだ。
……そして、こうして果てしない時空の果て、100年後の未来にいる自分へ向けて、最後の、そして最も重いバトンとして、この手紙を遺してくれた。
涙が次から次へと溢れて、視界の輪郭をめちゃくちゃに崩していく。
ふと我に返ると、低いテーブルの向こう側で、千代の孫夫婦が本当に驚いたような、そして心から心配そうな顔をしてあかりを見つめていた。
「あ、あの……時任さん、大丈夫ですか……?」
「あ……っ、すみません、大丈夫です! ちょっと、その……っ」
あかりは慌てて袖でごしごしと目元を拭った。「す、すみません……っ」と声を絞り出すが、喉が激しく震えてうまく言葉にならない。
千代の面影を残すその男性は、少し困ったように、けれどどこかすべてを包み込むような温かい目をしながら、穏やかな微笑みを浮かべた。
「そういえば」と、ふと思い出したように、男性が言う。
「あなたも、お名前は『あかり』さんでしたね」
「え……」
「すごい偶然だなあ、と思って。祖母の若かりし頃の大切なお友達も、あなたと同じ名前だったなんてね」
あかりは涙で真っ赤になった目のまま、ひどく曖昧に、けれど愛おしそうにはにかんだ。
きっと彼らからは、感受性が人一倍強くて、ドキュメンタリーの取材対象の人生に感情移入しすぎてしまった、ちょっと風変わりな学生なのだと思われているのだろう。本当のこと――自分がその手紙に書かれている「古い友人本人」だなんて、天地がひっくり返っても説明できるはずもなかった。
少しだけ深く呼吸を整え、ようやく落ち着きを取り戻したあかりは、黄ばんだ古い便箋を破らないよう、まるで壊れやすい宝物を扱うように丁寧に畳んで封筒に戻した。
「すみません、急に大泣きしちゃったりして……」まだ赤くなった鼻をすすりながら、あかりは微笑む。「……千代さんにとって、そのあかりさんは、とっても、大切でいいお友達だったんですね」
あかりの言葉に、男性は窓の外の遠い空を見るような、懐かしそうな顔になった。
「ええ」と、ゆっくり深く頷く。
「ずいぶん昔のことですから、僕も子供の頃に聞いたきりで、詳しいことは忘れてしまいましたけどね」
そして、その目元を千代によく似た、優しくも意志の強い形に細めて、柔らかく笑った。
「大学の教授になってからも、晩年になってからもね。女学校時代の話をするときだけは、祖母は……本当に、少女みたいに嬉しそうにしていたんですよ」
あかりは、せき止めようとした涙がまた堰を切って溢れそうになるのを、奥歯をぎゅっと噛み締めて必死に堪えた。
◇
すべての取材を終え、菱元家の玄関を出た頃には、初夏の広い空はすっかり燃えるような鮮やかな茜色に染まっていた。
昼間の蒸し暑さを連れ去るように、涼しくなり始めた心地よい風が吹き抜ける玄関先で、あかりはカメラバッグを肩にかけ、これ以上ないほど深く深く頭を下げた。
「本日は、貴重なお話を本当にありがとうございました!」
「いえいえ、こちらこそ。立花千代という一人の女性の生き方が、今の若い方の瑞々しい感性でどんな映像になるのか、僕たちも本当に楽しみにしています。ドキュメンタリーが完成したら、ぜひ見せてくださいね」
「はい! ありがとうございます。必ず、素晴らしい作品にします!」
あかりはもう一度、弾けるような声で元気よくお辞儀をした。
愛車の電動スクーターに跨がり、スタートスイッチを押す。かつての昭和にあったような騒々しいエンジン音の代わりに、近未来的な、静かで小さなモーター音が規則正しくトトト、と鳴り響いた。
走り出す直前、あかりはふとスクーターを止め、オレンジ色から紫色へと移り変わる大きな空を見上げた。
赤く、黄金色に染まる雲の波。どこまでもどこまでも、美しい地平線の先へと続いていく、遮るもののない夕暮れ。胸の奥に灯った、決して消えない大きな温かさと、進むべき道を照らす確かな光。
あかりは小さく、誰にも聞こえない声で、けれど確信を込めて呟いた。
「千代ちゃん……本当に、ありがとう」
その瞬間、あかりの言葉に応えるように、優しく一陣の風がそよぎ、周囲の街路樹がさらさらと祝福の拍手を送るように揺れた。あかりの唇に、いつもの、太陽のように真っ直ぐで力強い笑みが浮かぶ。
(私の進む道は、もう空白なんかじゃない。私にしか撮れない映像で、私にしか伝えられない言葉で――)
「私も……ちょっとだけいい世の中にするために、今の私にできること、全力で、精一杯頑張ってみるよ!」
アクセルをぐっと回すと、スクーターが滑らかに、力強く走り出した。
夕日のオレンジ色の光が優しく降り注ぐ、どこまでも続く真っ直ぐな並木道を。
千代ちゃんたちが、あの暗い時代を命がけで突っ切って繋いでくれた、この愛おしくて、どこまでも自由な未来へ向かって――。