地道な取材と、深夜に及ぶ編集作業を経て、あかりの自主制作ドキュメンタリー映画はついに完成の瞬間を迎えた。
映像学部の学生たちがそれぞれの若き情熱と知性を注ぎ込んだ数多くの作品群の中でも、特に教授陣から優秀と認められたいくつかの作品は、大学のシンボルである大講堂で行われる一般公開上映会へと選出される。
あかりが魂を削るようにして作り上げた、我が街の偉人を追うドキュメンタリー『誰もが人生を選べる社会へ〜立花千代の足跡〜』は、並み居る強豪を抑えて見事に佳作を受賞。この日、満員の観客が息を呑む大講堂の巨大なスクリーンでの上映を、大きな機材トラブルもなく無事に終えたのだった。
パチパチパチパチ……!
パチパチパチパチパチパチ……!!
エンドロールが静かに消え、場内が明るくなった瞬間、講堂を埋め尽くした大勢の観客から、地鳴りのような温かい拍手が沸き起こった。
客席の中央では、あかりにあの夜、運命的な取材のきっかけを作ってくれた松本教授が、我が事のように深く満足そうに何度も頷きながら、惜しみない拍手をステージへと送っていた。そして、その少し後ろの席では、取材で大変お世話になった立花千代の孫夫婦も、目元を少し潤ませながら、どこか誇らしげに、誰よりも優しく手を叩いていた。
「時任さん、素晴らしい作品でした。では、本作の制作意図について、会場の皆様に一言いただけますか」
ステージの中央、スポットライトに照らされた演台に立つあかりに、司会進行の教員がマイクを向ける。
「はい」
あかりは緊張で震えそうになる手を抑えてマイクの位置を調整し、集まった大勢の観客を見つめた。心臓はバクバクに鳴っていたが、それ以上に、自分の手であの愛おしい千代の生きた証を確かなカタチとして未来へ遺せたという絶対的な達成感で、その胸ははち切れんばかりに満たされていた。
ここまでは、ごく普通の、どこの大学にでもあるような、微笑ましくも立派な上映会の光景だった。
しかし――。
「……立花千代さんは、昭和初期という、女性が社会で自らの声を上げるのがとても難しい時代に……」
あかりが凛として言葉を紡ぎ、あの激動の時代、ともに運命に怒り、ともに笑い合った、あの凛として気高い千代の姿を脳裏に鮮烈に浮かべた、まさにその瞬間だった。
「……っ、ふ、あ……」
急に胸の奥の一番深い場所から、押し留めようのない熱い感情の質量が凄まじい勢いで突き上げてきて、喉がキュッと閉まる。早くも声が怪しく震え始めた。
壇上に並ぶ教授陣が「おや?」と怪訝そうに顔を見合わせる。
あかりは必死に呼吸を整えようと、スカートの裾を握りしめ、ぎゅっと拳を固く突き合わせた。
「どんなに、どんなに困難な時代を生きながらも……彼女は、決して、諦めませんでした……。誰もが、自分の足で……行きたい場所へ、行けるようにって……」
だめだった。一度決壊して溢れ出した感情の濁流は、あかりの理性ではもう止められなかった。声はいよいよ激しく震え、大粒の涙が次から次へと溢れ出して視界のすべてをめちゃくちゃに滲ませていく。
客席の最前列で並んで見守っていた親友の奈央子が、思わず「あちゃー……」と天を仰いだ。
(やばい、始まった……! あかり、完全に感極まってる!)
隣に座る達也も、言葉を失って額を手のひらで押さえる。
(やばいって、あかりの奴、完全に自分の作った世界にスイッチ入っちゃったぞ……!)
「ただ、自分のためじゃなくて……! まだ見ぬ未来の人たちが、私たちが……自由に、幸せに生きられるようにって……それだけを、ずっと……一人で背負って……ッ」
ついに、あかりは次の言葉を紡げなくなった。
完全に言葉が詰まり、大講堂に重く、張り詰めた沈黙が落ちる。
場内が「どうしたんだ?」とざわつき始め、横にいた教員が心配そうに身を寄せ、小声で声をかけた。
「時任さん? 大丈夫ですか? 一度マイクを置きましょうか」
「う……す、すみません……っ、うう……っ!」
ついに我慢の限界を迎えたあかりは、演台に両手を突き、子供のようにぽろぽろと大粒の涙を流して、何百人もの大観客の前で大号泣し始めてしまった。
そのあまりの取り乱しっぷりを見て、客席から達也が慌ててポケットからクシャクシャのティッシュを引っ張り出してステージへと全力で駆け寄る。奈央子も後に続き、「ほら! 落ち着く! 呼吸してあかり! カメラ回ってないから!」と、ステージの上で彼女の背中をポンポンと激しく叩いてなだめるという事態に発展した。
前代未聞の上映会での大号泣。しかし、周囲の学生や一般の観客たちは、それを見て嘲笑うどころか、
「あの子、どれだけあの社会学者の人生に入れ込んで取材してたんだ……」
「ものすごい純粋な熱量で、歴史の痛みと向き合ってたんだな。だからあんな映像が撮れたんだ」
と、むしろ彼女の並外れた共感能力の高さと、作品に込められた熱意に、深く感銘を受けていた。
客席の後ろに座っていた千代の孫夫婦は、ステージの上で友人たちに囲まれて涙を拭うあかりを見つめながら、目元を優しく細め、お互いに顔を見合わせて微笑み合っていた。
「また泣いちゃったのね、あの子。取材の時もそうだったけれど、本当に感受性が豊かなお嬢さんだわ」
「いや……違うよ。おばあちゃんの遺した意志や孤独を、それだけ真剣に、自分のこととして受け止めてくれたんだ。あんなに若い子が、あんなに僕たちのおばあちゃんを強く想ってくれている。きっと、天国のおばあちゃんも、今頃空の上で、ものすごく驚いて、ものすごく喜んでいるよ」
ステージの上で、達也から差し出されたティッシュで大きく「ブーーッ!」と豪快に鼻をかみ、客席の緊迫感を少しずっこけさせながらも、あかりは奈央子に肩を支えられながらなんとか落ち着きを取り戻した。真っ赤になった目を手でこすり、マイクを両手で強く強く、握り直す。
「……千代ちゃんは、最後まで、自分の人生を立派に生き切って、その大切なバトンを、いま、私たちに繋げてくれたのです。……ご清聴、ありがとうございました!」
溢れる涙をそのままに、背筋をピンと伸ばし、深々と、誰よりも美しい所作で頭を下げるあかりに、場内からは最初よりも何倍も一段と大きな、大講堂が震えるほどの割れんばかりの拍手と、鳴り止まない賞賛の嵐が送られたのだった。
――上映会がすべてのプログラムを終えて閉会した後の、静かになったステージの裏舞台。
「本当にお疲れ、あかり。いやー、ドキュメンタリーは最高に感動的だったんだけどさ……」
達也がクスッと悪戯っぽく笑いながら、手元の進行メモの端っこを指差した。
「最後の一番良いところでさ、思いっきり『千代ちゃん』って言い間違えただろ? 名前が知られてる偉大な社会学者先生なのに、ちゃん付けはさすがにマズいって。教授陣、一瞬みんな耳を疑ってたぞ」
「あはは、本当ね! あれは私も冷や汗かいちゃった!」
奈央子も機材を片付けながら楽しそうに笑い、あかりの華奢な肩にポンと温かい手を置く。
「でも、あかりは一度作品に入り込むと、とことん感情移入しちゃうタイプだからねー。千代さんの資料や著作と向き合ってドキュメンタリーを作っているうちに、脳内での距離感が完全にバグっちゃったんでしょ? ……まるで、当時の立花千代さんと、本当の親友同士だったみたいじゃない」
「……あ」
奈央子の、何気ない、けれど核心を突いたその一言に、あかりは少しだけ驚いたように丸い目を見開いた。
それから、大きな窓から差し込む、優しくも鮮やかな初夏の夕暮れの光の向こう。
遠い遠い、あの雲の彼方、100年前の青い空の先へと、愛おしそうに目線を向けた。
100年前のあの荒涼とした満州の地で。アメリカの賑やかなダイナーで。戦火の足音が迫るあの古い町並みで。
確かに自分と手を繋ぎ、背中を預け合って戦った、最高に強くて、最高に不器用で、世界で誰よりも愛おしい彼女の笑顔が、今も、そしてこれからも、鮮明に自分の胸の奥で生き続けている。
あかりは涙の跡が残る頬を上げて、太陽のような眩しい笑顔で答えた。
「うん……。私の、人生最高の……本当の友達だよ……!」
◇
それから。
どれほどの、眩しい時が流れただろうか。
◇
そこは、見渡す限りどこまでも続く、黄金色に輝く美しい草原だった。
さらさらと、心地よい風が吹き抜けるたび、金色の波が豊かに揺れる。
空は雲一つなく、どこまでも、どこまでも高く青い。
その眩しい光の中を、制服姿のあかりが、軽やかに走っている。
それは、あのすべての始まりの日だった、中学生の頃の姿だった。
肩にかけた懐かしい通学鞄。履き慣れた白いスニーカー。あの頃の、等身大の、真っ直ぐな自分。
そして、その走る視線の先に、一人の少女が静かに佇んでいた。
仕立ての良い紺色の女学校の制服。風に揺れる、肩まで伸びた黒い髪。
こちらを振り返る、少し困ったような、けれどすべてを見透かすような美しい表情。
世界中の誰が見間違えようとも、あかりが見間違えるはずがない。
「千代ちゃーーーーーん!!」
あかりは、全力で彼女の名前を叫んだ。
少女が、ゆっくりとこちらへ振り向く。
そして、あかりの額の汗と、その変わらない大袈裟な走る姿を見て、少しだけ白い頬を赤く染めて笑った。
呆れたように。けれど、心の底から嬉しそうに。
「……もう、急がなくっていいって言ったでしょ?」
あかりは、満面の笑みで笑う。
千代も、眩しそうに目を細めて笑う。
100年の時を超えて、今、確かに重なり合った金色の草原の中で。
誰も引き裂くことのできない、二人の愛おしい笑い声だけが、未来の空へ向かって、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
(――完――)