絶望の花咲く東京で   作:ベイベ後藤

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第1章 神の檻と、呪いの街
1話 日常のひび割れ


 

それは、あまりにも唐突で、暴力的な「切断」だった。

 

 十月二十八日。

 大学のキャンパスが集まる高田馬場は、いつも通りの、少し騒がしい平日の昼下がりを迎えていた。

駅前のロータリーには学生たちの笑い声が響き、早稲田通り沿いの飲食店からは小気味よい油の音が漏れている。

 

 文学部に通う大学二年生、渡辺梨月は、講義の空き時間に喫茶店でノートPCを開いていた。

周囲の喧騒を遮断するようにイヤホンを耳に差し込み、静かに画面を見つめる。それが彼女の日常であり、崩れるはずのない平穏な日々だった。

 

 異変が起きたのは、午後一時を回ったころである。

耳の奥で、不快な電子の破裂音が響いた。同時に、スマートフォンの画面が激しく明滅し、通信中だったWi-Fiのシグナルが、まるで命の灯火が消えるようにゼロへと落ちた。

 

「……通信エラー?」

 

 梨月は眉をひそめ、イヤホンを外した。その瞬間、喫茶店の店内に満ちていた「音」の質が、明らかに変わっていることに気づいた。BGMは途切れ、店員の持つハンディ端末がエラー音を繰り返し吐き出している。

店外へ出ると、早稲田通りは奇妙な大混乱に陥っていた。

 

 全ての信号機が黒い硝子の塊と化し、立ち往生した車のクラクションが響き渡っている。それだけではない。歩道にいる学生たちが、一様に自分のスマートフォンを凝視し、困惑の声を上げていた。電波が、完全に死んでいた。通話も、ネットも、あらゆる通信インフラが、一瞬にして東京の街から消失したのだ。

 

 街のあちこちから「何これ」「自衛隊?」という声が上がり始める。

早稲田通りの遥か東方、山手線の内側を囲うように、天を衝くほどの『光の壁』が、蜃気楼のように立ち上っているのが見えた。

自衛隊の装甲車が、物々しいエンジン音を立てて主要な交差点を封鎖し始める。理由も分からぬまま、東京という巨大な都市が、物理的に世界から隔離された──それが、後に言う『東京封鎖』の初日だった。

 

しかし、梨月にとっての本当の絶望は、政府の隔離政策ではなく、自身のポケットの中で静かに震えた、一台の端末からもたらされた。

ネットは繋がっていないはずだった。にもかかわらず、彼女のスマートフォンには、見覚えのないアプリアイコンが強制的にインストールされていた。漆黒の背景に、幾何学的な紋様が描かれた不気味な意匠。

画面が勝手に点灯し、一件のメールを表示する。

送信元は『ラプラス』

 

【ラプラスメール:10月28日の予報】

本日、15時42分。高田馬場駅前において、集団パニックによる圧死事故が発生します。

死亡者数:3名。

原因:未知の怪異による一般市民の襲撃。

 

「なにこれ悪戯……?」

 

 梨月は冷や汗が背中を伝うのを感じた。単なるデマだと切り捨てたい。だが、この通信が完全に途絶した状況で、どうやってこのメールを受信したというのか。

画面の右上に、赤いデジタル数字が浮かび上がっている。

【 0 】

それが何を意味するのか、その時の梨月には分からなかった。ただ、その数字を見つめているだけで、胸の奥が凍りつくような、根源的な恐怖が這い上がってくるのを感じた。

 

午後三時半。梨月は、吸い寄せられるように高田馬場駅前のロータリーへと向かっていた。無視することができない胸騒ぎ。もし、あのメールが本物であるならば、この街はすでに安全ではない。

駅前は、運行を停止した山手線から吐き出された群衆と、自衛隊の規制線によって、異常な熱気に包まれていた。誰もが苛立ち、焦燥感を剥き出しにしている。

安全なはずの日常の裂け目は、あまりにも呆気なく開いた。

 

 午後三時四十二分。

駅の改札口付近の空間が、にわかに陽炎のように歪んだ。

──グルゥォォォォォ……。

それは、人間の喉からは絶対に出せない、地獄の底から響くような咆哮だった。半透明の、剥き出しの筋肉の塊のような『何か』が、虚空から染み出すように姿を現した。

悪魔。後に人々がそう呼ぶことになる異形が、駅前で立ち往生していたサラリーマンの肩口へ、容赦なくその鋭い爪を立てた。

 

「ひっ……、化け物!!」

 

「うわあああああッ!」

 

 悲鳴が爆発した。群衆が一斉に、蜘蛛の子を散らすように出口へと殺到する。押し寄せる人間の波。足をもつれさせた学生が転倒し、その上から容赦なく他人の足が踏みつけていく。

梨月は、群衆の隙間からそれを見ていた。

悲鳴、怒号、肉の潰れる音。ラプラスメールの予言通り、駅前は一瞬にして凄惨な圧死の現場へと変貌した。

恐怖で震える手で、梨月はスマートフォンを見た。

画面の右上、先ほどまで【 0 】だった赤い数字が、不気味なノイズと共に書き換わっていた。

【 3 】

 

「……私の、余命?」

 

 直感が、彼女の脳内で警報を鳴らしていた。この数字は、自分が生き残れる「日数」だ。何もしなければ、自分はあと三日で、この理不尽な状況の中で死ぬ。

生きなければならない。そのための生存戦略を、狂い始めた世界の中で、彼女は弾き出そうとしていた。

 

 翌日、封鎖二日目。

高田馬場の学生街は、早くも配給を巡る人間たちの猜疑心で満ち始めていた。その中で、梨月のCOMPの掲示板機能に、ある一つの噂が書き込まれる。

 

『渋谷を拠点にしてる、悪魔を従えた自警団がある。チーム名は【ダイモンズ】

リーダーのカイドーって男はかなり強引で恐ろしい奴だが、そいつのルールに大人しく従っていれば、あそこは安全だ。警察や自衛隊よりも確実に守ってくれる』

 

 渋谷。高田馬場からは明治通りを南下すれば、徒歩でも届く距離だ。

梨月は薄暗い自室で、最小限の荷物をリュックに詰め、自身のCOMPの画面を見つめた。

彼女の足元には、ラプラスメールの惨劇の直後、生き延びるために契約せざるを得なかった、小さな黒猫の姿をした悪魔──ネコマタが、不気味に目を光らせて佇んでいる。

 

「行くよ、ネコマタ。ここにいても、余命は削られるだけだから」

 

 彼女はまだ知らない。

自分が救いを求めて向かうその『渋谷』という街が、呪術師たちの血の因果が爆発する、東京封鎖の中で最も凄惨な「劇薬」の舞台になるということを──。

 

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