すべての始まりは、あのあまりにも退屈で、いつもと変わらないはずだった日――十月二十八日の昼下がりだった。
従兄であるナオヤに呼び出され、渋谷のスクランブル交差点で待ち合わせていた少年、峯岸一哉は、幼馴染の木原篤郎、そして谷川柚子と共に、手渡された妙な改造スマートフォン「COMP」を怪訝そうに見つめていた。
ナオヤは「お前たちのこれからの運命に役立つ」とだけ言い残し、人混みの向こうへと消えていった。それが、世界を塗り替える『悪魔召喚プログラム』の起動スイッチだとは、その時の誰も知る由がなかった。
その後に鳴り響いた不気味な警告音。スマホに強制配信された『ラプラスのメール』それは、数時間後にその場所で発生する凄惨な殺人事件を、そして東京が完全に外界から隔離されるという、あり得ない「未来の確定」を告げていた。
山手線の内側を丸ごと包み込んだ『光の壁』が天を突き、外界との通信が遮断され、街のあちこちの空間の裂け目から異形の「悪魔」たちが這い出し始めたとき、少年たちの日常は音を立てて崩壊した。
生きるためにCOMPを起動し、悪魔を従えて戦うしかない。そして何より、自分たちの頭上に浮かび上がった、死へのカウントダウン――『ラプラスの魔』が告げる、残り数日という圧倒的な絶望の数字を覆すために。
封鎖から数日が経ち、東京は日を追うごとに飢えと恐怖で狂気に染まっていった。悪魔の暴力に魅入られた暴徒、機能を失った政府と自衛隊の迷走、そして頭上の数字が『0』になる恐怖。
そんな中、少年たちの前に立ち塞がったのが、自らを『ベルの王』の候補と称する異形の神――ベルデル。そのあらゆる攻撃を完全に無効化する「不死の呪い」の前に、少年たちは成す術もなく撤退を余儀なくされた。
どんな悪魔の魔法も、物理的な刃も、ベルデルの肉体を傷つけることすらできない。ただ時間が過ぎれば、ラプラスのメールが予言した通りの凄惨な死が、少年たちを確実に捕らえる。
絶望が影を落とす新宿の街角で、途方に暮れる少年たちの前に、ふらりと姿を現したのは、あまりにも場違いな軽薄さを纏った「遊び人風の男」だった。
「やあやあ、冴えない顔してるねぇ、少年たち。手も足も出なかったろ?」
派手なシャツを揺らし、ナンパの途中にでも立ち寄ったかのような気楽さで、男は少年の顔を覗き込んできた。アツロウが警戒を露わにし、ユズが憤慨する中、男はカズヤの頭上の数字を面白そうに眺めながら、思わせぶりに指を一本立てた。
「あのベルデルはさ、ちょっとした『ずるいルール』で守られててね。人間の作った武器や、そこらの悪魔の力じゃ掠り傷一つつけられないんだ。かわいそうに、このままだと君たちの命は明日でおしまい、ゲームオーバーってわけ。……でもさ、それじゃあつまんないんだよねぇ」
男は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、カズヤの肩を軽く叩いた。
「ヒントをあげるよ。北欧の古いおとぎ話を知ってるかい? どんな武器も通用しない無敵の神様バルドル。でもね、世界で唯一、たった一つの『植物』だけが、その無敵のルールを無視して彼を殺すことができたんだ。……探してごらんよ、この隔離された東京のどこかにある、その神話を再現するための『依り代』をさ。
君たちのその、便利なオモチャを使えば、概念をデータに変換して、神を殺す牙に変えることだってできるかもしれないよ?」
それだけを言い残し、男は再び人混みへと消えていった。
その言葉は、少年達にとって暗闇の中の唯一の蜘蛛の糸だった。アツロウのハッキング能力と機転、そしてナオヤの遺したプログラムの拡張性を駆使し、少年達は東京のデータベースから「その植物」の逸話――ヤドリギの概念データを割り出すことに成功したのだ。
悪魔召喚プログラムによってデジタルコードへと置換され、COMPの内部で牙へと変えられた神殺しの概念。それこそが、世界が敷いた「無敵のルール」に開けられた、唯一のセキュリティホールだった。
そして迎えた、青山霊園での決戦。
赤く染まった不気味な空の下、再び少年たちの前に現れたベルデルは、嘲笑うかのようにその鎖をこちらに向け攻撃を仕掛けてきた。だが、少年の瞳に宿る光は、すでに以前とは異なっていた。
「いけ……っ!」
叫びと共に、COMPの画面から解き放たれた『ヤドリギ』のプログラムコードが、電子の光を纏った鋭い一撃となってベルデルの胸を貫いた。
その瞬間、世界を縛っていた「不死の法」がガラスのように砕け散る。
無敵という絶対の防御を奪われた肉体に、猛攻が次々と突き刺さっていく。
激闘の果てに、かつて神と呼ばれた巨躯が光の粒子となって霧散したとき、少年たちの頭上で冷酷に時を刻んでいた『ラプラスの魔』の数字が、一斉に書き換わる。
死の運命を、自らの力で捻じ伏せたのである。
さらに、この日には新たな仲間の加入もあった。
ネットアイドル「ドリー」として活動していた小牧翠が、正義の味方『マジカルドリー』を自称し、封鎖内の理不尽と共に戦っている。
時に衝突し、時に理想と現実のギャップに涙しながらも、彼女もまた、この地獄の中で懸命に生きようとする同じ『人間』だった。
少年たちが差し伸べた手を受け入れ、ひとつのチームとして機能している。
十月三十一日、封鎖四日目の十八時にベルデル戦という最大の山場を越え、時刻は十九時を回っていた。
少年、峯岸一哉たちのパーティーは過酷な一日を終えて、夜の休息時間に入っている。
ただ月光とCOMPの液晶の光だけが差し込む静かな広場で、カズヤたちは身を寄せていた。
固い床の上に座り込み、泥のように疲弊した肉体を休めている。
「……本当に、勝てたんだよね、私たち」
ユズが膝を抱え、小さく息を漏らした。その声には、まだ信じられないというような震えと、同時に、最悪のタイムリミットを越えたことへの深い安堵が混ざっていた。
「ああ。あの不死身の化け物を倒したんだ。俺たちのCOMPの余命システムも、ちゃんと伸びてる。とりあえず、今日いきなり全員死ぬって事態だけは避けられたみたいだな」
アツロウが、画面の作業で疲れ切った目をこすりながらも、どこか誇らしげに笑う。その隣では、ミドリがまだ興奮冷めやらぬ様子で、自分のCOMPを胸に抱きしめていた。
「うん! やっぱりリーダーはすごいや。私、リーダーたちを信じて本当によかった。これで明日からも、もっとたくさんの人を悪魔から守れるよね!」
「ミドリちゃん、気が早すぎだってば……。まずは今夜、ちゃんと休ませてよ」
ユズが苦笑し、一同の間に、穏やかでホッとした笑い声が静かに広がった。
カズヤは、仲間たちのその笑顔を静かに見つめながら、自身のCOMPの画面へと視線を落とす。
ナオヤが遺したこの力。そして、あの遊び人風の男が告げた世界の歪み。自分たちは生き残った。しかし、この『神の檻』が告げるゲームは、まだ中盤に差し掛かったばかりなのだという予感が、カズヤの胸には確かにあった。
――だが、カズヤたちはまだ知らない。
自分たちが不死の神を討ち倒し、この封鎖四日目の夜にようやく掴み取った束の間の平穏。
山手線の内側――程近くの『渋谷』の地下深くでは、現代最強の呪術師を巡る、世界の命運を賭けたもう一つの大激震『渋谷事変』が、リアルタイムで幕を開けているということを。
窓の外を見上げれば、東京の空を均等に切り裂く、冷たい光の壁が不気味に脈動している。
重なり合う二つの絶望が、この隔離された戦場でついに交錯し始める。
渋谷事変と合わせるためにベルデル戦を封鎖四日目に変更。
デビサバ主人公の名前は漫画版から拝借。