突如として渋谷を覆った、あの『光の壁』とは明らかに質の異なる、禍々しくドロドロとした黒いドーム――『帳』が降り注いだその頃。
宮下公園近くのビルを占拠した「渋谷ダイモンズ」の基地は、鉄と血、そして悪魔たちの咆哮に満ちていた。
「ハハハッ! 死ねや、新種のバケモノどもがァ!」
ダイモンズの精鋭の一人が叫ぶと同時に、彼のCOMPから召喚された『闘神ナタタイシ』が突進した。手にした武器『乾坤圏』に全力を込め、ビルに侵入してきた不気味な異形――呪霊を、文字通り『渾身の一撃』で壁ごと粉砕する。
呪霊たちの放つ超常的な打撃や酸の霧が若者たちを襲うが、彼らのCOMPから不可視の波動が放たれ、その威力を強制的に減衰させていた。
呪力という概念こそ知らぬが、COMPに標準搭載された『ハーモナイザー機能』――悪魔の異能を現実の物理法則へと同調させ、同時に敵の攻撃から人間の肉体を保護する防御システムのおかげもあり、ダイモンズの面々は襲いかかる呪霊の群れに一切の遅れを取っていなかった。
「おい、梨月。ボサッとしてんじゃねえ! 右からまた変なのが湧いて出てきたぞ!」
「ひっ、はい……っ! 『メディア』……!」
アジトの奥で、渡辺梨月はガタガタと膝を震わせながらスマートフォンを掲げた。
彼女のCOMPから放たれた淡い緑の光が、前線で傷を負ったダイモンズの構成員の肉体を癒やす。
梨月のすぐ傍らでは、彼女が東京封鎖初期から使役する『魔獣ネコマタ』とデビルオークションを経て悪魔合体で誕生した『霊鳥ホウオウ』が、いつでも彼女を連れて逃げ出せるよう、周囲を鋭い目付きで索敵していた。
梨月には、カイドーたちのように悪魔の力に狂喜し、積極的に戦う度胸などない。ただ、ここにいなければ死ぬ。そして何より、彼女の頭上で非情に明滅する不気味なデジタル数字――『0』という圧倒的な絶望が、彼女の思考を麻痺させていた。
この東京封鎖が始まって四日目。今日、自分は死ぬ。ラプラスの魔が告げたそのタイムリミットが、今まさにこの夜に迫っているのだ。
「電波が完全にイカれやがったな。おい、梨月。お前のCOMPはどうだ」
地響きのような足音と共に、ダイモンズの絶対的リーダー――カイドーが歩み寄ってきた。
彼の頭上には、強者の証として、まだ『3』という数字が余裕を持って灯っている。
だが、そのカイドーの背後には、彼らの持つ悪魔とは一線を画す、異様なまでの威圧感を放つ巨大な影が聳え立っていた。
バビロニア南部に栄えた最古の都市文明シュメールにて、暴風と熱砂の魔王とされた存在。
アプリのレベル上限という生温いルールを突き破り、カイドーの力を求める意思に共鳴して直接現界した特別な個体、『パズス』である。
「う、うん……。もう完全に繋がらない。あの空の黒い壁が降りてきてから、アプリのノイズも酷くなって……」
梨月はパズスから放たれるプレッシャーに耐えながら、必死に声を絞り出した。
魔術の力をもたずして治療することが出来ないとされる魔王の呪気。
ハーモナイザーの保護がなければ、一般人など即座に病に伏すほどの絶対的な災厄の化身が、そこにいた。
「チッ、どいつもこいつも小細工ばかり仕掛けやがって。だが、面白ぇ」
カイドーは不敵に笑い、パズスの巨躯を見上げた。
「あの光の壁を作った野郎が誰かも知らねえし、この黒いカーテンを降ろした奴が誰かも知らねえ。だがよ……誰が仕掛けたゲームだろうが、この渋谷を支配するのは俺たちダイモンズだ!」
「カイドーさん、周辺のバリケードが破られました! 人間じゃねえ、かと言って悪魔でもねえ、なんか目がたくさんある肉塊みたいな連中が、一般人を巻き込みながらこっちに近づいてきます!」
息を切らせた構成員の報告に、基地の空気が一気に張り詰めた。
『帳』の降下に伴い、渋谷の至る所で呪霊の群れが、悪魔を従えたダイモンズの縄張りへと一斉に雪崩れ込んできたのだ。
「カイドー……私、やっぱりあんなのとは戦えないよ。こんなの、狂ってる……」
梨月はネコマタの背にしがみつき、青ざめた顔で首を振った。ダイモンズの過激な思想にも、悪魔や呪霊のグロテスクな暴力にも、どうしても馴染めない。しかし、頭上の『0』の数字が、彼女に逃げ場がないことを突きつけていた。
今日が終わるまでに、この地獄の中で生き残る術を見つけなければ、確実に死ぬ。
「戦いたくねぇなら、そこにいろ。だが、お前はまだ、俺たちに必要な『ヒーラー』だ。命が惜しいなら、俺の後ろから離れるんじゃねえぞ」
カイドーは蔑むこともなく、ただその濁りのない鋭い眼光で梨月を一喝すると、背後の魔王に向かって獰猛な顎を突き出した。
「行くぞ、パズス。どこの馬の骨かも分からねえ『呪い』だか何だか知らねえが……俺たちの縄張りでハジけてる奴らに、砂漠の砂を食わせてやれ!」
咆哮。獅子の頭部が裂け、魔王パズスがその四枚の鳥の翼を広げた。
額に一本の湾曲した角を戴き、脚には鷲のかぎ爪、背には毒を持ったサソリの尾。最凶の魔神が、近くのビルから駆け上がってきた呪霊の群れを見下ろす。
パズスの口から吹き出されたのは、数千、数万のイナゴの群れを伴った、凶悪な熱砂の暴風だった。
その風に触れた呪霊たちの肉体はみるみるうちに乾燥し、魔王が齎す頭痛と嘔吐を伴う疫病の呪詛によって、ボロボロと腐食していく。逃げ惑う呪霊を、パズスは鷲のかぎ爪で文字通り細切れに磨り潰す。
魔術の力をもたずして治療することが出来ないとされる魔王の圧倒的な格の違い。ダイモンズの精鋭たちの悪魔を遥かに凌駕するレベル??の暴力が、襲いかかる異形を瞬く間に蹂躙していく。
「アハハハッ! スゲェ! これがカイドーさんの悪魔だ!」
若者たちが血湧き肉躍る熱狂に包まれる中、梨月は恐怖を堪えながらネコマタとホウオウに命じた。
「ネコマタ、ホウオウ……お願い。カイドーたちの後ろについていきながら、索敵と移動の補佐をして。一番ヤバい奴らとは、絶対にぶつからないように……」
「ニャーゴ(任せといて、ご主人様。でも、この街、どこに行っても『ヤバい気配』しかしないわよ)」
ネコマタは鋭い五感で周囲の呪気と悪魔の気配を察知し、梨月を最も安全な後方へと導いていく。
梨月はガタガタと震える手でCOMPを握り直し、前線で傷ついたダイモンズのメンバーに向けて、恐る恐る『メディア』の光を放ち続けた。
戦いたくはない。けれど、彼らの圧倒的な盾がなければ、自分のような一般人は一瞬で押し潰されてしまう。
「おい、野郎ども! 駅が騒がしい。美味い獲物はそこにいるぞ。まだヤレる奴は俺に着いて来い!」
カイドーの叫びと共に、ダイモンズはさらなる混沌の渦中へと進軍を開始した。梨月はネコマタの背にしがみつき、今日という「余命0」の最悪の夜を生き延びるため、必死の思いでその背中を追うのだった。