十月三十一日。
山手線の内側、隔離されたはずの『東京封鎖』の檻の上から、さらに重ねるように降ろされた呪力の結界――『帳』の境界線。その外側に、男は退屈そうに立っていた。
白髪に、両目を完全に覆い隠す黒い目隠し。特徴的な外見をした男――五条悟は、自身の前に広がる不気味な黒い壁を、目隠しの奥の瞳でじっと見つめていた。
「へぇ……。やっぱり、妙なことになってるね」
五条の端正な唇から、場違いなほど軽い声音が漏れる。
彼の周囲には、結界の維持と状況把握に奔走する補助監督たちの緊張した空気が張り詰めていたが、五条一人だけは、散歩の途中に立ち止まったかのような弛緩した空気を纏っていた。
だが、その脳内は、常人のそれとは比較にならないほどの超高速度で世界を演算している。
五条悟の持つ天賦の才――『六眼』
世界に存在する呪力の流れ、原子の揺らぎ、空間の歪みに至るまでを、一粒の砂のレベルで詳細に知覚し、脳に直接情報を叩き込む奇跡の質量。その『六眼』が今、かつてない違和感を五条に告げていた。
「ねえ、聞いてた話だと、この『光の壁』が東京を封鎖していて、物理的にも霊的にも完全に隔離されてるって話だったよね?」
五条は、背後に控えていた補助監督に向けて振り返らずに問いかけた。
「は、はい。その通りです、五条さん。現在、山手線の内側はすべての物理的な出入りが遮断され、外部からのあらゆる通信も遮断されています。
我々が今、こうして『帳』の外側にいられるのも、ギリギリ境界線の外側だからでして……」
「うん、それはいいんだ。僕が言いたいのはさ」
五条は目隠しの上から、そっと自分の額に指先を当てた。
「この『帳』の向こう側……呪力とは根本的に違う、何か気持ちの悪い『数式』みたいなのが、津波みたいに脈動してるんだよね。まるで、世界そのものがデジタルデータに書き換えられて、別の誰かのサーバーのルールで動かされてるみたいな、そんな不愉快な感覚。
呪霊の呪力でもない、人間の呪力でもない。……いや、そもそも『呪力』というエネルギーそのものが、別の何かに上書きされかけてる」
六眼が捉える視界は、本来であれば美しく整理された呪力の因果律で満たされているはずだった。しかし今の渋谷は、その美しい因果律の上から、無機質な二進法のコードのような『ノイズ』が、幾重にもレイヤーを重ねて侵食しているように見える。
さらには、そのノイズの隙間から、見たこともない異質な質量――呪力を持たないにもかかわらず、確固たる『生物』としての暴力性を持ったナニカ(悪魔)の気配が、無数に、文字通りウジ虫のように湧き出ている。
「僕をハメるために用意された舞台にしては、少々手が込みすぎているというか……。呪詛師の仕掛けた悪だくみにしちゃ、ちょっと毛色が違いすぎる。まあ、いいや」
五条は、首を小さく左右に振って骨を鳴らした。
どんなバグが起きようが、どんなルールで世界が書き換えられようが、関係ない。
なぜなら、自分が最強だからだ。
「じゃあ、行ってくるよ。みんなはここで、大人しく待っててね」
二十時二十分。
五条悟は、躊躇うことなく黒い『帳』の中へと足を踏み入れた。
一歩、その闇を跨いだ瞬間、世界の空気が一変した。
重力が増したかのような錯覚。そして、耳の奥でピリピリと鳴り響く、電子機器の致命的なエラー音のような精神的ノイズ。
五条は、自身の『無下限呪術』を常に発動させ、世界から飛んでくるあらゆる有害な事象を自身の手前で完全に停止させていたが、その無下限の防壁に触れる『空気の振動』そのものに、悪魔召喚アプリが齎す変調の残滓が混ざり合っているのを感じ取っていた。
「なるほどね。これが『ハーモナイザー』ってやつか。空間そのものの物理法則を、スマホのプログラムが無理やり定義し直してる。
人間の肉体を守り、悪魔の出力を調整する……。へぇ、作った奴は本当に天才だよ。呪術の歴史を数百年はすっ飛ばして、システム化しちゃったんだから」
五条は、無人の青山通りを悠然と歩いていく。
街灯は消え、ただ頭上の『帳』の黒と、そのさらに奥で脈動する東京封鎖の『光の壁』の残光だけが、アスファルトを不気味に照らしている。
突如、横の路地から、何かが這い出てきた。
それは、夏油陣営が放ったであろう特級以下の呪霊――だが、その背中には、COMPのバグによって強制合体させられたかのような、異形の翼を持つ悪魔の肉体が半分融解した状態で癒着していた。
呪力と電子コードの混ざり合った、歪なキメラ。
「グルルルル……!」
「おっと、醜悪だね。僕の知ってる呪霊の形態を完全に無視してる。君、生きてて辛くない?」
五条は目隠しの奥で、そのキメラの動きを完全に先読みしていた。
キメラが咆哮を上げ、五条の肉体を切り裂こうと爪を振るう。だが、その爪は、五条の肉体に届く直前――無限の手前で、完全に停止した。
「じゃ、おやすみ」
五条がパチン、と指を鳴らす。
それだけで、空間そのものが捻じれ、不可視の衝撃波がキメラの肉体を内側から木端微塵に破裂させた。
呪霊の肉体は塵となり、悪魔の肉体は光の粒子となって、夜の空気に溶けていく。
「呪霊が消える時は呪力に還るけど、こっちの異形は……『データ』に還る、か。本当に、僕の知らないゲームが始まってるみたいだ」
五条は、自身の白い髪を軽く指で弄りながら、さらに歩みを進める。
目指すは、すべての怪しい気配が収束しつつある、渋谷の中心。
そこには、怯える一般人だけでなく、残り寿命『0』に狂わされた人間たち、悪魔の軍勢、そして彼らを迎え撃つ呪いの計画が、ドロドロに溶け合ったスープのように煮立っているはずだった。
「待っててね、すぐに行くから」
最強の男の歩調が、わずかに速まる。その背中は、どんな絶望をも一瞬で消し去る絶対的な光のようでありながら、どこか世界の崩壊を愉しんでいるかのようでもあった。
二十時三十分過ぎ。
五条悟は、ついに目的の地点――『渋谷ヒカリエ』の敷地内へと足を踏み入れていた。
地上の喧騒は、すでに人間の限界を超えている。
宮下公園の方角からは、巨大な悪魔が熱砂の嵐を吹き荒らし、呪霊の群れを磨り潰す咆哮がここまで響いてくる。そして何より、五条の『六眼』が捉える光景の中で、最も異質だったのは――人間の頭上に浮かぶ、あの『数字』だった。
ヒカリエの商業施設『ShinQs(シンクス)』の地下一階。
ここには、地上の悪魔の暴動や、空を覆った『帳』の恐怖から逃れようと、数千人の一般人が隙間なくひしめき合っていた。
彼らは一様にスマートフォンを握り締め、ある者は悪魔を召喚して周囲を威嚇し、ある者は画面を見て狂ったように泣き叫んでいる。
そのすべての人間たちの頭上。
血のようで、禍々しい、赤色のデジタル文字がチカチカと明滅していた。
『0』
『1』
『0』
『2』
「……なるほど。これが噂の『ラプラスの魔』、余命カウントか」
五条はヒカリエの吹き抜けの上から、地下一階に満ちる人間たちの群れを見下ろした。
彼の『六眼』は、対象の肉体情報や呪力の流れから、その人間の「おおよその強さ」や「命の灯火」を感じ取ることができる。だが、この頭上の数字は、呪術的な命の残量とは全く違う。
まるで、世界を管理する巨大なコンピューターが、「お前は今日死ぬ」「お前は明日死ぬ」と、非情なシステムとして人間に死の刻印を強制しているかのような、絶対的な決定論(ルール)。
「『0』が圧倒的に多いね。つまり、ここにいる大半の人間は、今夜中に死ぬような目に逢う、と。……あはは、悪趣味極まりないね。傑も大概だけど、このゲームのマスターは、人間に希望を持たせる気がハナからないらしい」
五条が静かに階段を降り、地下一階のフロアへと姿を現した瞬間。
それまで互いに猜疑心の目を向け合い、スマホのアプリを起動させて悪魔をいつでも呼び出せるよう身構えていた一般人たちの視線が、一斉に彼へと集中した。
目隠しをした奇妙な男。しかし、そこから溢れ出る、世界そのものを威圧するような圧倒的なプレッシャーに、暴徒化しかけていた人間たちが本能的な恐怖を感じて静まり返る。
「な、なんだよ、あいつ……」
「悪魔使いか? いや、スマホを持ってないぞ……!」
「俺のアプリのメーターが……狂ってる! あいつが近づくだけで、悪魔のデータがノイズだらけに……!」
怯える人間たちの声を、五条は右から左へと聞き流す。
六眼の情報処理は、フロアにいる全員のスマホの画面、そこから漏れ出る電磁波、そして一般人が従えている『ピクシー』や『コボルト』といった小悪魔たちの演算コードまでを、瞬時にスキャンしていた。
「あー、やっぱりね。僕が近づくだけで、君たちの持ってるそのオモチャ(COMP)、出力が制限されちゃうみたいだ。僕の『無下限』の呪力圧が強すぎて、空間の電子同期がバグを起こしてるんだよ。ごめんね、悪気はないんだ」
五条は、ひらひらと手を振る。
一般人たちには、彼の言葉の意味など理解できるはずもない。ただ、彼が一歩歩くごとに、スマホの画面が激しく点滅し、召喚されていた下級悪魔たちが「キィッ!」と悲鳴を上げて強制的にCOMPへとリターンされていく現象に、ただただ圧倒されていた。だが、五条の表情から、徐々にいつもの軽薄な笑みが消え、冷徹な『最強の術師』の顔が覗き始める。
六眼が、このヒカリエのさらに地下――東急東横線の地下ホームの状況を、正確に透過して捉えていた。そこには、さらに大量の一般人が詰め込まれており、そして……。
呪力を持たない『悪魔のコード』の、最大級の質量が。
さらに、特級呪霊相当の呪力が、地下深くで彼を手招きしているのが、はっきりと見えていた。
「地上の悪魔の暴動に、頭上の余命システム。これだけのノイズを僕に見せて、一体何をさせたいのかな」
五条は、自身の目隠しにそっと手をかけた。
彼がこれから地下へと降りれば、待っているのは間違いなく、この融合した世界のルールを悪用した最悪の罠だろう。
頭上の『0』の数字に怯え、悪魔を武器にして生き残ろうとする狂った人間たちを人質に取られながら、呪霊たちと戦わなければならない。だが、五条の唇は、微かに弧を描いた。
「どんなにチェス盤をひっくり返そうが、無駄だよ。僕が勝つ。それ以外の結末は、この世界には用意されてないんだからね」
現代最強の呪術師・五条悟は、地下一階の人間たちによるモーセの十戒のように割れた人波を通り抜け、さらなる深淵――地下ホームへと向かうエスカレーターへと、静かに歩みを進めた。
重なり合う絶望のカウントダウンが、彼の足音と共に、いよいよゼロへと加速していく。