長いエスカレーターを降りるにつれ、湿った熱気と、鉄錆のような血の匂いが階下から這い上がってきた。
地下三階、地下四階と降りるごとに、一般人の密度は増していく。誰もがスマートフォンの画面に映る『余命カウント』の明滅に顔を青ざめさせ、限界の精神状態でCOMPを起動し、低級悪魔を盾のように周囲に浮かべていた。
だが、五条悟がその場を通り過ぎるだけで、無下限の呪力圧によって空間の同期が強制遮断され、悪魔たちは無残にリターンされていく。
モーセの十戒のように割れる絶望の人波を抜け、五条はついに最深部――地下五階、東横線ホームへと足を踏み入れた。
「……なるほど。これはまた、ずいぶんと集めたね」
五条の目隠しの奥の『六眼』が、広大な地下ホームの全景を瞬時にデジタルデータのように処理する。
ホームを埋め尽くす、数千の人間。
そのすべての頭上に浮かぶ、血のような赤色をした『0』の数字。
そして何より異質だったのは、ホームの線路、壁、天井の至る所に、COMPの通信光(悪魔の召喚エフェクト)の残光が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていることだった。
「意外と早かったじゃないか。五条悟」
線路の上にぽつんと佇む、頭頂部から煙を上げる単眼の呪霊――漏瑚が、醜悪な笑みを浮かべて五条を見上げた。その隣には、両目から木の枝を生やした精霊のような呪霊・花御、そして赤血操術の構えを取る脹相が静かに並んでいる。
「夏油の計画通り、お前をここに閉じ込めるための『檻』は完成している。この人間の数を見ろ。そして、この空間の『ルール』を見ろ」
漏瑚が自身のCOMP――呪力によってドロドロに呪物質化された、歪な端末を掲げた。
その瞬間、地下五階ホームの全域に、電子的なビープ音が一斉に鳴り響いた。
【警告:バトルフィールド限定規約が発動しました】
【規約1:人間による悪魔召喚・スキル使用の禁止】
【規約2:術師による『領域展開』の発動時、周囲のCOMP保有者の脳を強制焼き切り(即死)とする】
「……へぇ」
五条の眉が、目隠しの奥で僅かにピクリと動いた。
六眼が、その『規約(システム)』の因果律を読み解く。これは嘘ではない。偽夏油がハーモナイザーのバグを悪用し、この地下ホームの空間そのものを「特異点」として再定義したのだ。
五条悟がもし、呪霊たちを一網打尽にするために『無量空処』を展開すれば、その超高密度な呪力の指向性とハーモナイザーの電子同期がコンマ数秒で拒絶反応を起こす。その結果、この場にいる数千人の一般人の脳内に、悪魔召喚アプリを経由して致命的な過電流(バグ)が流れ込み、全員の脳が物理的に爆発して即死する。
「お前は『最強』だが、同時に『呪術師』だ。非術師を守るのが、お前のくだらない大義だろう?」
漏瑚がニヤリと裂けた口を歪め、一歩前に出る。
「領域は使えん。広範囲の術式も、人間を巻き込むから使えん。さらに、こいつらの頭上の『余命カウント』は、我々が殺すごとに死へと収束していく。さあ、どうする? 五条悟。その手足を縛られた状態で、我々を一人残らず祓ってみせるか?」
その言葉を合図に、漏瑚の背後から、ハーモナイザーのシステムによって「呪力の肉体」を強化された異形の悪魔たちが、次々と線路から這い上がってきた。
地獄の猟犬、蠢く泥の塊、鋭い鎌を持つ死神――。
完全に退路を断たれ、強力な手駒と『人質』という名のシステムに囲まれた、絶対的なチェックメイトの盤面。
しかし、五条悟は、ただため息を一つ吐き出しただけだった。
「ねえ。君たち、何か大きな勘違いをしてるよ」
五条は自身の黒い目隠しを、ゆっくりと人差し指で引き下げた。
露わになったのは、世界のすべてを見透かす、吸い込まれるような蒼い瞳――『六眼』
「傑から僕の情報を聞いて、ずいぶんと勉強してきたみたいだけどさ。……僕がいつ、人道的な理由で君たちを手加減してあげるなんて言った?」
その蒼い瞳が漏瑚を捉えた瞬間、地下五階の空気が、凍りつくような絶対的な『重圧』によって完全に支配された。
「言ったはずだよ。どんなにチェス盤をひっくり返そうが、無駄だって。――始めるよ、バグ潰し(デバッグ)を」
現代最強の男の瞳が、静かに、そして冷徹に、呪いと悪魔の軍勢を射抜いた。
空気が爆ぜる。
誰も五条悟の「初動」を視認できなかった。
線路から這い上がってきたばかりの、鋭い鎌を持つ死神の悪魔。その無機質な演算コードで構成された肉体が、次の瞬間には、ホームのコンクリート壁に音を立てて叩きつけられ、光の粒子となって霧散していた。
五条がただ、右足を一歩踏み出し、その身に纏う呪力の質量だけで空間を「圧」した結果だった。
「ガッ……!?」
漏瑚が単眼を見開いた時には、すでに五条は眼前にいた。
『無下限呪術』による空間の引き寄せも、増幅も使っていない。ただ純粋な呪力操作と、天賦の身体能力――それだけで、現代最強の男は音速の壁を軽々と跨ぎ越えてみせる。
「まずは君からだ、園芸担当」
五条の視線が、漏瑚の隣にいた花御へと向く。
花御は本能的な恐怖に突き動かされ、瞬時に呪力と悪魔のコードを混成させた巨大な木の根の壁を周囲に張り巡らせた。さらにハーモナイザーの出力調整により、その木々の耐久力は通常の術式を遥かに超える、データ上の『絶対障壁』へと引き上げられていた。
だが、五条は速度を緩めない。
呪力を込めた拳を、ただ真っ直ぐに突き出す。
――ドォン!!
鼓膜を揺らす重低音と共に、絶対障壁であるはずの巨木が、まるでお菓子のウエハースのように粉々に粉砕された。
飛び散る木屑の隙間から、五条の細い指先が、花御の顔面から生えた「木の枝」へと正確に伸びる。
「展延を使え!漏瑚!!」
花御の念話がホームに響くのと同時に、漏瑚が自身のCOMPを投げ捨て、全身に『領域展延』の膜を纏って五条へと飛びかかった。
己の周囲に独自の薄い領域を流動させ、五条の『無下限』を中和して肉体に直接打撃を叩き込もうという、呪い側の決死の対抗策。
「グルアアアッ!」
地獄の猟犬の悪魔たちが、漏瑚の動きに同期して五条の死角から牙を剥く。
周囲の一般人からは悲鳴が上がり、彼らの頭上の『余命カウント』が、恐怖の脳波に連動して激しく明滅した。いつ誰が巻き添えで死んでもおかしくない、極限の混戦。しかし、五条悟は笑っていた。
「へぇ、展延ね。僕の無下限を薄めるのが目的なら、確かに正解だよ。……でもさ」
五条は、死角から迫る猟犬の悪魔たちの首を、振り返りもせず素手で掴み取った。そのまま凄まじい腕力で二頭の悪魔の頭部を互いに衝突させ、データごと圧殺する。
「展延を纏っている間は、君たち自身の固有の術式は使えない。そして、僕の無下限を中和するために、君たちの領域の出力はそっちに割かれっぱなしだ。……つまりさ、今の君たち、ただ呪力を纏っただけの『ちょっと硬い肉の塊』に過ぎないんだよね」
五条の蒼い瞳が、冷徹に漏瑚と花御を射抜く。
中和されるなら、それでいい。無下限の防壁など、今の自分には必要ない。
五条は花御の顔面に掴みかかっていた手を、さらに深く、その眼球の根元へと食い込ませた。
「あ、ぎ……ッ!?」
「呪霊特有の、呪力による自己再生。それが追いつかないくらいの『物理的な質量』で引きちぎったら、どうなるっけ?」
「花御――!!」
漏瑚が叫び、展延を込めた拳を五条の顔面へと叩き込もうとする。だが、五条は最小限の首の動きだけでそれを完璧に見切り、避けた勢いのまま、花御の頭部から生えた二本の枝を、力任せに根元から「ブチリ」と引き抜いた。
黒い血がホームの床に飛び散る。花御が声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
悪魔の強化システムがどれほど肉体を補強しようが、それを遥かに凌駕する「最強」の暴力。
「まず一本。次はそっちの火山頭だ」
五条は引き抜いた枝をゴミのように放り捨て、返り血を拭うこともせず、漏瑚へと向き直った。
その背後、地下ホームのさらに奥深く、小刻みに震えるエスカレーターの向こう側から、この舞台を仕掛けた元凶である『夏油傑』の呪力の残滓が、よりいっそう強く拍動を強めていく。
「術式が使えなくても、人質がどれだけいようが、僕のデバッグ作業は終わらないよ」
現代最強の男は、怯える数千人の人間たちの真ん中で、ただ一人、世界の歪みを完全に支配していた。