圧倒的な質量。それが、地下五階ホームを完全に圧殺していた。
術式を封じられ、数千の人質に囲まれているはずの男――五条悟から放たれる呪力圧は、空間の『限定規約』そのものをミシミシと歪ませている。
「花御――ッ!!」
漏瑚の絶叫が響く。
顔面の枝を引き抜かれ、黒い血を撒き散らして苦悶する花御。その肉体を庇うように、漏瑚は退路を断たれた覚悟で地を蹴った。全身の『領域展延』を極限まで濃縮し、五条の肉体を抉り取らんと、呪力の塊と化した拳を突き出す。
同時に、偽夏油が構築したシステムが漏瑚の危機を検知し、ホームの天井から無数の『ザン』の演算コードが、真空の刃の雨となって五条へと降り注いだ。ハーモナイザーの強制上書きによる、回避不能の範囲攻撃。
「しつこいね」
五条は一歩も動かない。
降り注ぐザンの真空刃は、彼の肌に触れる寸前――『無下限』の無限の壁に衝突し、ただの虚しい光の火花となって霧散していく。
漏瑚の展延によって部分的に中和されているとはいえ、五条が意識的に出力を高めた無下限の防壁は、プログラムごときでは突破できない。
「ガッ……あ……!?」
漏瑚が突き出した拳は、五条の左手によって容易く受け止められていた。
万力のように締め上げられる手首。骨が軋み、砕ける嫌な音がホームに響き渡る。
「展延を使えば僕の身体に触れる。それは正しい。けど、触れるからって僕に攻撃が通じるかどうかは別の話だろ?」
五条の蒼い瞳『六眼』が、至近距離で漏瑚の単眼を覗き込む。その瞳には、一筋の恐怖すら浮かんでいない。あるのは、精密機械のように冷徹な「処理」の意思だけだ。
「まず、君のそのオモチャ(COMP)のバックアップから潰そうか」
五条は漏瑚の手首を掴んだまま、強引にその巨体をホームの床へと叩きつけた。コンクリートが蜘蛛の巣状に爆ぜ、漏瑚が血を吐く。
五条はその背中に容赦なく足を乗せ、体重をかけた。
「システムで悪魔の耐久力を上乗せしたところで、ベースが僕より脆いんだよ」
五条はそのまま、漏瑚の右腕を根元から「ブチリ」と引き抜いた。
絶叫する漏瑚。だが、最強の男の手は止まらない。間髪入れず、床に這いつくばる花御の元へと歩を進める。花御は再生が追いつかない頭部を押さえながら、最後の障壁を展開しようとした。
「人間を盾にするなら、その人間が死ぬより早く、君たちを消せばいいだけの話」
五条の右拳に、超高密度に圧縮された「蒼」の呪力が、極小の輝きとなって収束する。
術式の広域展開ではない。ただの拳の一撃に、無限の引力を上乗せしただけの、極めて局所的な、しかし絶対的な破壊の質量。
「バイバイ、園芸担当」
――ド、ンッ!!!
空気が内側へと陥没するような奇妙な音の後、地下ホームの壁ごと、花御の肉体が「消失」した。
悪魔の融合コードも、呪霊としての強靭な肉体も関係ない。五条の拳が触れた部位から、分子レベルで空間ごと削り取られ、花御は悲鳴を上げる暇すらなく、塵の一粒も残さず完全消滅した。
「は……花御……?」
右腕を失い、床に転がっていた漏瑚の単眼に、初めて「本当の絶望」が宿る。
分かっていた。五条悟は最強だと。だが、これほどまでとは……
悪魔召喚アプリという、世界の法則を書き換える『システム』のバフを受けておきながら、ただの体術と部分的な術式操作だけで、特級呪霊がゴミのように掃除されていく。
線路の影で戦況を凝視していた脹相は、あまりの次元の違いに、指一本動かすことができずにいた。赤血操術の構えを取ることすら、自殺行為だと本能が告げている。
「さて、次は火山頭。君の番だ」
五条は、花御を消滅させた拳の汚れを払うように軽く振り、ゆっくりと漏瑚へと歩み寄る。
その歩調は、どこまでも静かで、容赦がなかった。
「……舐めるなよ、五条悟!!」
床に組み伏せられた漏瑚が、残された左腕で床を殴りつけた。
彼の体に組み込まれたハーモナイザーが、過負荷による電子的な悲鳴を上げる。
床の亀裂から、マグマのようにドロドロに溶けた呪力と、灼熱の炎の悪魔たちの残光が噴き出した。ホーム全体の気温が、一瞬で上がり地獄の窯へと変貌する。
「百年後の荒野で、我々が笑っていればそれでいい!!」
呪霊の矜持を賭けた、文字通りの自爆特攻
だが、五条悟の蒼い瞳は、その文字通りの死線すら、冷徹なバグの挙動としてしか見ていなかった。
「だから、君たちのその自信が、どこから来るのか分からないって言ってるんだよ」
五条の姿が、揺らめく炎の向こう側に掻き消えた。
次の瞬間には、漏瑚の背後に立っている。驚愕に単眼を動かす暇すら与えず、五条は漏瑚の頭頂部――煙を上げる火山の火口のような部位に、容赦なく右手を突き立てた。
「ガ、アッ……!?」
「術式は使わない。ただの呪力。それだけで、因果律ごと握り潰す」
五条の指先から、出力100%の純粋な呪力の波動が、漏瑚の脳内へ直接叩き込まれた。
システムによる補強も、領域展延による中和も、圧倒的な「絶対量」の前にその意味を失う。
漏瑚の頭部が、内側からの呪力圧によってミシミシとひび割れていく。
五条が手を引き抜くと同時に、漏瑚の全身が限界を迎えた。
――パン、と乾いた音がした。
炎も、マグマも、爆発することすら許されず。漏瑚の肉体は、五条の圧倒的な呪力によって細胞一つ残さず中和され、ただの灰となってホームの床にさらさらと崩れ落ちた。
特級呪霊、漏瑚。大いなる呪いが、ここに完全消滅した。
線路の影でそれを見ていた脹相は、戦慄を通り越し、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
勝てるわけがない。人間だの、呪霊だの、悪魔だのという次元ではない。あれは、世界の法則そのものが人の形をして歩いているようなものだ。
「あれ、まだ一人残ってたね。お次は――」
五条がゆっくりと脹相の方へ視線を向けようとした、その時だった。
ポトン、と。
誰もいないエスカレーターの影から、不気味な、肉の塊のような立方体が転がってきた。
その立方体の表面には、幾つもの『眼球』が埋め込まれており、五条の姿を捉えた瞬間、それらが一斉に見開かれた。
【警告:周辺空間の接続が『特異点』に指定されました】
【緊急規約:半径4メートル以内の対象を強制拘束します】
「……ッ!?」
五条の『六眼』が、その立方体――『獄門疆』から放出される、この世のどこのデータにも存在しない異質な呪力を感知した。
無下限の防壁を展開しようとするが、獄門疆の周囲の空間そのものが、システムごと「存在しない次元」へと反転していく。
「やあ、悟。久しいね」
エスカレーターの階段をゆっくりと降りてくる、一人の男がいた。
長い黒髪に特徴的な前髪を垂らし、細い目を細めて笑う、その姿。
その頭部には、不気味な『縫い目』が走っている。
「……」
五条の脳内に、一瞬にして、青い春の記憶がフラッシュバックした。
高専時代の日々。共に最強を目指した時間。そして、去年の十二月二十四日、自らの手で命を奪ったはずの、唯一無二の親友の姿。
「――ニセモノ?」
五条の口から、戸惑いが零れ落ちた。
六眼が告げている。目の前にある肉体も、呪力も、間違いなく本物の「夏油傑」であると。だが、彼の本能は、まったく別の「ナニカ」が、その肉体を乗っ取っていると叫んでいた。
最強の男の思考が、ほんの一瞬、あまりの衝撃に停止する。
偽夏油――が待ち望んでいた、脳内時間の「一分」
その隙を、獄門疆という忌み物が逃すはずはなかった。
獄門疆の眼球が血走り、空間を割って飛び出した無数の「肉の紐」が、五条悟の四肢を完全に捉えた。