東京封鎖、四日目。
悪魔という異界の軍勢に蹂躙され、法も秩序も麻痺した首都の夜は、ただただ冷たく、重苦しい静寂に支配されていた。
青山霊園の中にある「ひだまり広場」は、夕方の激戦――神の不死性を得たベルデルとの死闘の名残を留めるように、引き裂かれた木々や爆砕したコンクリートの破片が散乱している。辛うじて形を保っているベンチの周辺で、少年たちは満身創痍の身体を休めていた。
「……ねえ、なんか空気がおかしくない? 気のせいかな……」
ノートPCの画面を睨みつけていたアツロウが、ユズの不安げな声に顔を上げた。時刻は二十時を回ったところだ。
彼らの手に握られたスマートフォン『COMP』が、先ほどから妙な挙動を示している。画面の端で、怪しいノイズが絶え間なく走り、未来を告げる「ラプラスメール」の予報とも違う、不吉なエラーログが連続して吐き出されていた。空間そのものが内側から変質していくような、肌を刺すおぞましいプレッシャー。
「ああ、COMPが不安定になってるな。方角的には渋谷の方か?」
「何が起こってるんだろう……。すっごく冷たくてドロドロしたものが、あっちから流れてくる。悪魔じゃない?」
ミドリも不穏な気配を感じている。
カズヤは無言でCOMPの画面を立ち上げ、いつでも悪魔を召喚できるよう指をかけた。間違いない。昼間にベルデルという大きな絶望を打ち破ってなお、この東京の歪みは止まるどころか加速している。
その時だった。
夜の霊園の、墓石が立ち並ぶ闇の向こうから、軽やかな足音が近づいてきた。
それは、悪魔の這い回る音でも、暴徒と化した人間たちの足音でもない。場違いなほど凛とした、確固たる意志を持った人間の足音。
「おや、先客かい? こんな夜更けに、妙な玩具を携えてお留守番とはね。感心しないな、夜遊びにしては少しばかり場所が悪すぎる」
カズヤたちが一斉に身構える。
闇を割って現れたのは、長い白髪を編み込み、不敵な笑みを浮かべた女性――冥冥だった。その後ろには、弟の憂憂、そして、呪術高専の制服を着た、見慣れない少年が鋭い眼光を放っている。
「誰だ……!? 悪魔使いじゃ、ないな……?」
アツロウが身を乗り出し、警戒を露わにしながら鋭く問いかける。
カズヤのCOMPが持つ生体感知機能が、目の前の三人から発せられる、尋常ではない「負のエネルギー」を捉えていた。それは悪魔たちの構成物質であるマグネタイトではない。人間の精神から漏れ出る、禍々しいほどの負の質量――呪力。
「俺は虎杖悠仁! 呪術高専の一年だ。お前ら、一般人だろ!? なんでこんな危ないところにいるんだ。早くここから離れた方がいい、渋谷の方が今、とんでもねぇ大変なことになってて――」
「静かに、虎杖くん。彼らはただの迷子ではなさそうだ。その手に持つスマートフォン。ただの携帯電話にしては、随分と物騒な波形を放っている」
冥冥が手にした巨大な斧の柄をトントンと地面に打ち付ける。彼女の鋭い視線が、カズヤたちの持つCOMPへと注がれていた。
術師としての直感が、その小さな端末が持つ「世界の法則を書き換える力」を敏感に察知している。
「明治神宮前駅にも、渋谷と同等の『帳』が降りた。……さて、少年たち。
君たちのその奇妙な端末は、この空間の異常をどう映しているのかい?情報の価値次第では、少しばかりお喋りをしてあげてもいい」
アツロウはカズヤと視線を交わし、意を決してノートPCの画面を冥冥たちに向けた。
「……俺たちの情報か。まずこの東京封鎖についてだけど政府の命令で自衛隊が検問をしているが裏には天使の存在があるって話しだよ」
「天使?ほう……」
冥冥の目が、底知れない好奇心と共に面白そうに細められた。
「面白いね。他には何かあるかい?」
「さっき渋谷のこと言ってたけど……あそこはカイドー、二階堂って悪魔使いがダイモンズってチームを率いて勢力を作っている」
「悪魔使い?……どうやら本当に面倒な事になってるみたいだな」
虎杖がカズヤの前に一歩踏み出す。その瞳には、まっすぐな焦燥と、他人を命懸けで守ろうとする強い意志が宿っていた。その剥き出しの善性は、カズヤたちの胸に強く刺さる。
「俺たちは、これから明治神宮前の駅へ向かう。お前らは絶対にここにいろよ! 何が起きてるか分からねぇけど、ここはまだ安全なはずだから。これ以上、巻き込まれる人を増やしたくないんだ!」
「虎杖くん、移動するよ。時間の浪費は一銭の得にもならない」
冥冥が冷徹に翻り、闇の中へと歩き出す。憂憂がその後にぴたりと従った。
虎杖は、もう一度カズヤの目を強く見つめ、「絶対に死ぬなよ!」と言い残し、冥冥たちの後を追って原宿・明治神宮前方面へと夜の霊園を駆け抜けていった。
「行っちゃった……。なんなの、あいつら。でも、あの虎杖って男の子の目、嘘を言ってるようには見えなかったよね……」
ユズが呆然と呟き、去っていった闇を見つめる。しかし、情報交換としては十分すぎるものだった。渋谷で今、この封鎖された東京の命運を揺るがすような想像もできない事が起きようとしているらしい。
「カズヤ、どうする……? あの人たちの言う通り、ここで大人しく状況が分かるのを待つか、それとも――」
アツロウの言葉は、彼らの背後から響いた、場違いに軽い「拍手」によって遮られた。
「いやー、愉快愉快。面白くなってきたねえ!」
パチ、パチ、と気の抜けた、しかし心臓を掴まれるような音が響く。
ひだまり広場の古びたベンチに、いつの間にか、派手なシャツを着た遊び人風の男が腰掛けていた。
「うわっ、びっくりした……! あんた、いつからそこに!?」
アツロウが飛び退きながらCOMPを構える。ユズとミドリも、あまりに唐突な侵入者に息を呑んだ。
男は派手なシャツの襟元をいじりながら、クスクスと愉しげに笑っている。その佇まいには、悪魔のような血生臭さも、先ほどの呪術師たちのような張り詰めた呪力もない。だが、だからこそ不気味だった。
この封鎖された東京の夜に、あまりにも「普通」に馴染みすぎている。
「いやあ、お邪魔するよ。君たちのお喋り、横で聞かせてもらっちゃった。
天使だの呪術師だの、いやー、東京って本当に飽きないよねぇ。今夜の渋谷なんて、まさに最高のお祭り会場(カーニバル)じゃない?」
「カーニバル?何言ってんのよ、あそこは今、すっごく大変なことになってるって――」
ユズが非難の声を上げるが、男はそれをひらひらと手でいなした。
「そう、大変なんだよ。だから面白いんじゃないか。でもさぁ今の君たちじゃあ、何が起きるか分かってても絶対に手遅れになるよ? せっかく昼間にあのベルデルを退治して『資格』を手に入れたのに、このままここで眠って朝を待つわけ? さぁ、どうする?」
男の言葉に、カズヤは目を細めた。
彼は自分たちの戦いを知っている。それどころか、まるで世界をチェス盤か何かのように上から眺めているような、そんな傲慢な視線。
「あんた……何者なんだ? 何が目的だ」
アツロウが問い詰めると、男はベンチから立ち上がり、わざとらしく両手を広げて肩をすくめた。
「ボク? ボクは、ただの通りすがりの遊び人さ。チャラ男だとかホストとかいろいろ言われるけどまぁ好きに呼んでくれていいよ。
ボク自身の目的はどうでもいいんだけど……そうだなあ、ボクはそこの君――カズヤくんに、ちょっとだけ肩入れしてあげたい気分なんだよね」
男はそう言うと、懐から古いスマートフォンのような端末――いや、普通の人間が使っているものとは明らかに異なる異質なCOMPを取り出した。
彼が画面を軽くタップした瞬間、カズヤたちのCOMPが激しく電子音を鳴らし、勝手に起動した。
『――Warning.外部システムからの強制アクセスを検知しました――』
「な、なんだこれ!? COMPが!」
「うわ、待て、ハッキングされてる!? いや、違う、これは……暗号化された拡張コードの書き込みだ……!」
アツロウが悲鳴のような声を上げながらノートPCのキーを叩く。画面には、見たこともない複雑な幾何学模様の演算コードが目まぐるしく展開されていた。
「はい、プレゼント。その端末、ちょっとだけ機能を追加してあげたよ。これがあれば、渋谷の街がどんなに無茶苦茶に狂ってても、迷子にならずに済むでしょ?」
男が指をパチンと鳴らすと、カズヤたちのCOMPの画面が正常に戻った。
恐る恐る画面を覗き込んだアツロウが、目を見開いて絶句する。
「……マッピングシステム? 嘘だろ、渋谷周辺の『生体反応』と『空間の歪み』が、リアルタイムで視覚化されてる……!
自衛隊の検問の位置も、呪霊って奴らの配置も、全部丸見えだ!」
「ククククク……ね?面白いでしょ。
それじゃあボクはこれで。夜道は暗いから気をつけてね。カーニバルが、君たちを待ってるよ」
遊び人風の男はそう言い残すと、踊るような足取りで霊園の墓石の影へと歩き出し、まるで最初から存在しなかったかのように、ぬるりと闇に溶けて消え去った。
「消えちゃった……。本当に、何だったのよあいつ……」
ユズが青ざめた顔で自分のCOMPを抱きしめる。
本来なら休息の為に許されないはずの夜間行動。しかし、手元で怪しく光るマッピングシステムは、渋谷で何かが決定的に崩壊しようとしていることを冷酷な光点で示し続けていた。
「カズヤ……」
アツロウが、仲間の顔を見つめる。
彼らは知る由もなかった。遊び人風の男に背中を押されるようにして、これから自分たちが向かう渋谷の夜が、東京封鎖のタイムラインさえも狂わせる、果てしない神話の混沌へと繋がっていることを。