遊び人風の男が闇に消え去った後も、ひだまり広場には不気味な電子ノイズだけが響き渡っていた。
アツロウのノートPCの画面にも、彼が残していった『マッピングシステム』が映し出されている。
渋谷駅を中心に、赤や紫の不吉な光点が無数に蠢き、空間の歪みを示す等高線が異常な密度で同心円を描いていた。
「……ねえ、本当にこれ、信じていいの?」
静寂を破ったのは、ユズの掠れた声だった。彼女は自分のCOMPを両手で強く握りしめ、怯えた目で画面を見つめている。
「あのふざけたチャラ男の言うことだよ? それにさっきの呪術師って人たちだって、何者なのか全然わからないじゃない!
明治神宮前にも渋谷にも変な『帳』が降りてるとか……そんなの、どう考えてもまともな人間のやる事じゃないよ!」
ユズの言い分は至極まともだった。
東京封鎖が始まってから四日間、彼らは生き延びるためにただ必死で戦ってきた。
夕方には神の不死性を持つベルデルという絶望を辛うじて退けたばかりだ。身体の芯には、まだ消えない疲労と痛みがべっとりと張り付いている。
「私は反対。夜に動くなんて……
今はここで大人しく状況を見るべきだよ。これ以上危険なところに首を突っ込んだら、今度こそ本当に死んじゃうよ……!」
「だけどさ、ユズ」
アツロウが真剣な眼差しでユズを見た。
「このマッピングシステム、悔しいけど本物だ。
自衛隊の検問の暗号化された配置データまで完璧にトレースしてる。……それに、俺はあいつの『何が起きるか分かってても絶対に手遅れになる』って言葉が引っかかるんだ。もし、あの虎杖って奴らの言う通りの事が起こっていて、渋谷の歪みが東京中に広がったら……ここにいたって結局は同じなんじゃないか?」
アツロウの技術者としての知的好奇心、そして最悪の予測を放置できないという合理性が、彼を突き動かしていた。
「あそこにはカイドーのダイモンズもいるんだろ? あいつらは悪魔とも呪霊だかともやり合ってるなら、渋谷は相当ゴチャついてるはずだ。
状況を把握するだけでも、行く価値はあると思うんだよな」
「私もアツロウさんに賛成ー!」
それまで大人しくしていたミドリが、元気よく手を挙げた。その瞳には、恐怖を塗りつぶすような強い決意が宿っている。
「さっきの虎杖って人、すっごく必死だった。私にはわかるよ、あの人は悪い悪魔や呪いから、みんなを守るために戦おうとしてるんだって! 『天罰てきめ~ん!』って叫んで、悪い奴らをやっつけるのが魔法少女ドリーの役目だもん。困ってる人がいるなら、ミドリはいきたい!」
「ミドリちゃんまでそんな……!」
ユズが頭を抱えて、助けを求めるようにカズヤへと視線を向けた。
「カズヤ、あんたはどう思ってるの? このまま渋谷に行くなんて、やっぱり無茶だよね……?」
アツロウとミドリ、そしてユズの視線が同時にカズヤに集まる。
カズヤは無言のまま、自分のCOMPの画面を見つめていた。
遊び人風の男に付与されたマッピングの光点は、まるで生き物のように不気味に明滅している。
行くべきか、留まるべきか。
確かにユズの言う通り、これ以上の深追いは命取りになるかもしれない。しかし、アツロウの言うように、このまま朝を待てば取り返しのつかない崩壊が東京を飲み込む可能性も高い。
冥冥たの言葉、虎杖のまっすぐな目、そしてチャラ男の嘲笑。あらゆる情報が頭の中で交錯し、天秤はどちらにも傾かなかった。
「……カズヤも迷ってる、か」
アツロウが小さく息を吐いた。
「無理もないよな。情報が少なすぎる。……でもさ、ユズ。俺たちはただ自殺しにいくわけじゃない。チャラ男のくれたこのマッピングがあれば、危険な戦闘を避けて『境界線』ギリギリまで近づくことができるんだ。本当にヤバそうなら、その時はすぐに引き返そう。な?」
アツロウの妥協案に、ユズは唇を噛み締め、カズヤとアツロウの顔を交互に見つめた。二人の決意が揺るがないことを察した彼女は、やがて諦めたように深い溜息をついた。
「……わかったよ。行くよ、行けばいいんでしょ! その代わり、本当に危なくなったら絶対にすぐ逃げるからね! カズヤ、あんたがちゃんとブレーキ役になってよ?」
カズヤは静かに頷き、COMPをポケットに収めた。
話し合いはまとまった。ベルデル戦の余韻が残る4人は、それぞれの想いを胸に、夜の青山霊園を後にした。目指すは、おぞましい光点が渦巻く混沌の街――渋谷。
青山霊園を後にしたカズヤたちは、街灯の消えた青山通りを影のように駆け抜け、渋谷の東の境界である宮益坂上へと辿り着いていた。
アツロウが持つノートPCの画面に映るマッピングシステムは、坂の下――渋谷駅周辺が完全に異界のルールに呑まれていることを示していた。
「酷いな……。空気の匂いからして、青山霊園とはまるで違う。悪魔の気配も混ざってるけど、それ以上に、人間の悪意を濃縮したような嫌な気配が充満してるぞ」
アツロウが顔をしかめて呟く。
宮益坂を下り始めたその時、カズヤのCOMPの生体感知アラートが激しく鳴り響いた。
『――Warning.前方に複数の強力な個体反応を検知。接近中――』
「みんな、隠れて!」
ユズの鋭い囁きと同時に、4人は引き裂かれたビルの壁の死角へと身を隠した。その直後、宮益坂の暗闇から、カズヤたちの目にもはっきりと見えるほど巨大な「負の塊」――醜悪な形をした呪霊が三体、這い出してきた。それだけではない。その背後からは、封鎖後に野生化した下級悪魔の群れも、呪霊の気配に引き寄せられるようにして姿を現す。
戦闘を覚悟してカズヤがCOMPに指をかけた、その瞬間だった。
「――猪野くん、左を。伏黒くんは一般人の警戒を怠らないように」
闇を切り裂くように、極めて冷静で、事務的な男の声が響いた。
声の主である男――七海建人が、鉈のような刃物の呪具を手に、迷いのない足取りで呪霊の群れへと踏み込んだ。
一閃。
七海の放った一撃は、呪霊の胴体に完璧な「弱点」を作り出し、一撃でそれを爆散させた。背後からは、ニット帽をかぶった猪野琢真が霊を降ろし、悪魔の群れを殴り飛ばす。さらに、伏黒恵は、周囲を鋭く睨みつけていた。
「すごい……。悪魔使いじゃないのに、あんなに手際よく……!」
ミドリが息を呑む。
ものの数十秒でその場の脅威を排除した七海は、ふぅ、と静かに息を吐くと、ネクタイの位置を直しながら、カズヤたちが潜む壁の死角へと正確に視線を向けた。
「そこにいるのは分かっています。出てきなさい。一般人が夜間にうろつくような状況ではありませんよ」
カズヤはアツロウたちを促し、ゆっくりと姿を現した。
七海はカズヤたちの顔ぶれ、そしてその手に握られたCOMPを一瞥し、わずかに眉をひそめた。
「……。失礼、君たちは噂に聞く『悪魔使い』と呼ばれる少年たちですね」
「あんたたちは……さっきの虎杖って奴の仲間か? 呪術師、なんだろ」
アツロウがCOMPを向けたまま問いかけると、七海は感情の起伏のない声で応じた。
「ええ、一級呪術師の七海です。虎杖くんの名を知っているということは、どこかで接触しましたか。……話を聞きましょう。私たちも状況を把握しなければならないのでね。
現在、五条さんが一人で突入していますが、連絡が途絶えており状況が判然としないのです」
「……渋谷がどうなってるか、これを見てくれ」
アツロウがノートPCの画面を七海に向けた。そこには、遊び人風の男から与えられたマッピングシステムが、渋谷駅周辺の異常な空間の歪みを克明に描き出している。
「これ、俺たちのシステムが捉えた渋谷駅の構造だ。地下を中心に空間の因果律そのものが歪められてる。それだけじゃない……このさらに地下深くから、呪霊とも悪魔とも違う、桁外れにヤバい生体反応が這い上がってこようとしてるんだ。あんたたちの言う『五条』って人が無事かどうかも分からない」
七海はアツロウのPC画面をじっと見つめ、その精密なデータにわずかに目を見開いた。
彼は顎に手を当て、現実的な状況分析を開始する。
「なるほど……。渋谷の結界の負荷によって、東京封鎖を引き起こしている『別の歪み』まで地下に引き寄せられている、ということですか。非常に論理的であり、かつ最悪の予測です」
七海は時計を確認し、カズヤたちの目をまっすぐに見据えた。
「そうですね。君たちの持つその情報と、空間を正確に把握する能力は、現在の我々にとって非常に有益です。ですが、大人の戦いに子供を巻き込むわけにはいかない。……と言いたいところですが、今の渋谷はそんな綺麗事が通じる盤面ではないようですね」
七海は現実的な判断を下すように、自身の呪具を握り直した。
「君たちが生き延びるため、そしてこの世界の崩壊を止めるため、情報の一致を見た。
これより私達に同行し、渋谷駅の様子を把握するルートを探って下さい」
真っ当な大人の、理性的で確かな言葉。
カズヤは静かに頷き、COMPの召喚システムを起動した。
七海班という心強い先導者を得て、未知なる混沌の街――渋谷駅へと歩みを進める。