――東京封鎖、四日目の夜。
渋谷の東の境界、宮益坂を下りきった交差点周辺は、現世のルールが完全に瓦解した「地獄の縮図」と化していた。
頭上を覆う重苦しい『帳』が月光を遮断し、街灯の消えたアスファルトの上には、ヘドロのような負の質量を持つ呪霊たちと、封鎖によって狂暴化した中・下級悪魔の群れがひしめき合っている。
異形同士が互いの肉を喰らい合い、耳を劈く絶叫をあげる空間。しかし、その混沌を引き裂くように、圧倒的な暴力の嵐が吹き荒れていた。
「ハハッ! なんだよ、この化け物どもはよぉ! 悪魔の出来損ないか!? 退屈させねえじゃねえか!」
戦闘の爆音が鳴り響く中、カイドーこと二階堂征志が凶悪な笑みを浮かべていた。
彼のCOMPから召喚された強力な悪魔――邪神や邪鬼といった仲魔の個性を活かし、群がる呪霊の肉体を拘束しながら容赦なく爆砕し、周囲のビル風を血生臭い暴風へと変えていく。
カイドー自身もまた、常人離れした身体能力で瓦礫を蹴り、敵の懐へ踏み込んでは鉄パイプを叩きつけて打撃を繰り出していた。
彼が率いる武闘派チーム「ダイモンズ」の悪魔使いたちもそれに続き、圧倒的な戦闘力で周囲を掃討していく。
彼らにとって、この渋谷の混乱は恐怖の対象ではなく、自らの「力」を誇示するための格好の舞台に過ぎなかった。だが、その血湧き肉躍る蹂躙劇の影で、必死に彼らの背中を追いかけている少女が一人。
渡辺梨月――リツキは、血の匂いと内臓の焼けるような臭気が立ち込める戦場の中で、完全に精神的な限界を迎えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
彼女の手に握られたCOMPは、絶え間なく赤く点滅し、周囲の危険を警告音とともに報せている。
カイドーたちの背後を追い、後方から回復魔法による支援や、逃げ遅れた一般人の誘導を行ってはいるが、地上の狂気はリツキの許容量をとうに超えていた。
目の前で悪魔に貪り喰われ、あるいは呪霊に呪い殺されていく人々の断末魔。それを一切意に介さず、ただ己の力を試すように笑うダイモンズの仲間たち。
彼女の瞳は恐怖と過呼吸で激しく揺れ、膝の震えは止まらない。COMPを握る指先は、自分の汗と他人の血でヌルヌルと滑っていた。
「これ以上は、もう……私はどうすれば……」
その時だった。
背後の闇から、無秩序な悪魔の足音とも、おぞましい呪霊の這いずる音とも違う、統率された足音が近づいてきた。
カイドーが「あぁ?」と不機嫌そうに、獰猛な肉食獣のような鋭さでそちらを睨みつける。だが、瓦礫の影から姿を現したカズヤ、アツロウ、ユズ、そしてミドリの姿を認めた瞬間、彼の口元が、ニィと不敵に吊り上がった。
「おうオマエら無事か? こんな時に渋谷にいるなんて運が無かったな」
「カイドー! やっぱり、あんたの仕業か。このあたりでド派手なマグネタイトの反応が出てると思ったら」
アツロウが呆れたように、しかし安堵を滲ませて息を吐く。
これまでの四日間、対立をしたり、時には協力をして死線をくぐり抜けてきた間柄だ。
カイドーの凶暴性の裏にある、一本筋の通った「力への信念」と、それに違わぬ実力を、カズヤたちは理解し、互いに認めていた。
「カズヤくん、彼らは君たちの知り合いですか?」
彼らの背後から、鉈のような呪具を静かに携えた七海が歩み出る。
一級呪術師としての隙のない立ち振る舞い、そしてその身体から静かに立ち上る、重厚で洗練された呪力。
カイドーは「ほう」と、獲物を見つけたかのように面白そうに目を細めた。
「そこのスーツの旦那……ただの一般人じゃねえな。いい面構えをしてるじゃねえか。悪魔使いでもねえのに、随分と骨のありそうな力を隠してやがる」
「一級呪術師の七海です。……カイドーくん、と言いましたね。この混乱極まる事態において、これだけの悪魔を統率し、戦線を維持している君の腕前は敬服します」
七海の理性的で落ち着いた大人の物言いに、カイドーはフンと鼻を鳴らした。
「挨拶はそれまでだ。見ての通り、俺たちはこれからこの渋谷駅の奥に乗り込んで、のさばってる化け物どもを全部叩き潰して、この街の『王(キング)』が誰かを教えてやるつもりだ。カズヤ、オマエらも来るだろ? この『お祭り』、参加しねぇ手はないぞ!」
カイドーの凶暴な誘いに、アツロウとミドリがカズヤの顔を見る。
カズヤは無言のまま、だが迷いのない力強い視線でカイドーを見返した。
渋谷の歪みを止めなければ、この東京の封鎖も、自分達の生存戦略の崩壊も止まらない。カズヤたちの意志は、すでに決まっていた。
「ところで。カイドーのやる気は十分みたいだけどさそっちの仲間に、もう限界が近い奴がいるみたいだぜ」
アツロウが少し視線を落とし、ダイモンズの戦闘員たちの後ろで、剥がれかけたビルの壁に手をついて肩で激しく息をしている渡辺梨月(リツキ)を指差した。
リツキの顔色は完全に血の気が引き、膝は小刻みに震えている。
戦闘の爆音や異形の絶叫が響くたび、彼女の身体がビクッと強張るのを、ユズは見逃さなかった。
あの子は、もう限界だ――ユズは直感的にそう察した。これ以上の苛烈な戦い、渋谷の混沌へと突き進む渋谷駅の攻略に彼女を連れて行くのは、あまりにも残酷すぎる。
そして同時に、それはユズ自身の心の裏返しでもあった。ベルデルという神の不死性を前に必死で抗い、辛うじて生き延びたばかりの今、ユズ自身もまた、これ以上の命の削り合いからは一歩引きたい、誰も死なない安全な場所にいたいという切実な本音を抱えていたのだ。だからこそ、目の前の少女の恐怖が、痛いほど自分のことのように分かった。
ユズはいち早く駆け寄り、リツキの細い肩をそっと抱き寄せた。
「大丈夫……? 息、すっごく荒いよ。もう無理しないで、ここに座って」
「私、平気、ですから……カイドーさん達の、足手まといに、なりたくなくて……」
リツキの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。ユズは、その震える小さな手をぎゅっと握りしめ、優しく微笑みかけた。
「うん、分かってる。頑張ったよ、十分頑張った。……カズヤ、私は今回渋谷の戦いには行けないよ」
ユズはリツキを支えたまま、振り返ってカズヤをまっすぐに見つめた。
「地上にはまだ逃げ遅れて傷ついてる人がたくさんいる。私は……この子に寄り添ってあげたい。これ以上、目の前で誰かが壊れていくのを見たくないの。だから、私は残る」
「ユズ……」
アツロウが声を漏らすが、カズヤはただ静かに、深い信頼を込めて頷いた。ユズのその優しさと、命を守りたいという強い執念こそが、これまでチームを何度も救ってきたのだから。
「わかった。その子のこと、頼んだよ、ユズ」
「うん、カズヤたちも……絶対に、絶対に死なないでよね!」
その様子を静かに観察していた七海が、眼鏡の奥の目をわずかに和らげ、一級呪術師としての的確な判断を下すように歩み出た。
「カイドーくん、そしてカズヤくん。先ほども言った通り、私はこれより伊地知さんと合流し、後方連絡網の確立に動きます。……ユズさん、そして渡辺さん。君たちは私に同行しなさい。ひとまず伊地知さんの待機場所へ向かい、そこで今後の指示を待ちます。
時間が経てば高専の医療スタッフが到着するはずですから、彼女をそこへ送り届けるのが最善でしょう。大人の仕事を、少し手伝ってもらいます」
「チッ、お優しいこった、スーツの旦那。だが、そいつは賢い判断だな。戦えねえ奴が足手まといにならねえのは、俺たちにとっても都合がいい」
カイドーは鉄パイプを肩に担ぎ直してフンと鼻を鳴らしたが、その言葉にはどこかリツキを戦火から遠ざけるための、彼なりの不器用な気遣いが含まれていた。
「カズヤくん、アツロウくん、ミドリさん。君たちはカイドーくんたちと共に、これより渋谷駅の攻略へと向かうのですね」
七海が残る三人の目をまっずぐに見据える。その表情には、大人として少年たちを危険な最前線へ送り出すことへの、微かな葛藤が滲んでいた。しかし、カズヤたちのCOMPに宿る力と、これまでの覚悟の重さを理解しているからこそ、彼はその選択を尊重した。
「はい。渋谷の歪みを止めないと、東京全体の崩壊は止まらない。俺たちにしかできない役割です」
カズヤの揺るぎない言葉に七海は、ふっと息を吐き、自身の呪具を握り直した。
「わかりました。……君たちは、真っ当な目をした少年少女です。だからこそ言っておきます。……いいですか、死に急ぐことだけは絶対に許しませんよ。必ず生きて、再び合流しましょう。これは、一人の大人としての『命令』です」
話しが通じる、心から頼れる大人の言葉。アツロウが強く頷き、ミドリも真剣な顔で応じる。
「はい! 七海さんも、絶対に無事で!」
七海は小さく頷くと、リツキを優しく支えるユズを先導するように、静かに踵を返した。
「行きますよ、ユズさん、渡辺さん。我々の職務を全うしましょう」
「はい! 気をつけてね、みんな!」
ユズは何度も後ろを振り返りながら、七海、そしてリツキと共に、美竹通りに繋がる暗がりの向こう――伊地知の待つ後方エリアへと駆けていった。
「――よし。見送りは終わりだ」
カイドーが凶悪な笑みをカズヤたちに向け、渋谷駅へと続く道を鉄パイプで指し示した。
「行くぞ、オマエら!この渋谷でコソコソやってる化け物どもを、一匹残らずブチのめしにな!」
「うん!悪いやつはマジカルドリーが絶対に許さない!いっくよー」
ミドリが元気よくCOMPを構え、カズヤもまた、召喚システムを起動した。
七海たち後方班との一時的な別れ。だがその確かな絆を胸に、カズヤ、アツロウ、ミドリを加えたカイドー率いる渋谷ダイモンズの一団は、呪霊と悪魔が渦巻く渋谷駅の深淵へと、一気になだれ込んでいく。