絶望の花咲く東京で   作:ベイベ後藤

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2話 摩耗する境界線

 

 十月二十九日。東京封鎖、二日目。

昨日までそこにあった便利で、優しくて、退屈だったはずの日常の「骨組み」が、音を立ててきしんでいた。

 

 明治通りを南下する渡辺梨月の足は、否応なしに重くなる。

アスファルトの脇には、昨日衝突したのだろう、フロントガラスの砕けた乗用車がそのまま放置されていた。

 

 信号機の消えた交差点では、クラクションの代わりに、苛立った人間たちの罵声が響いている。

電波の消えた世界で、人々はただ自衛隊の装甲車が吐き出す不確かなアナウンスに耳を澄まし、あるいは配給を巡って見ず知らずの他人に鋭い視線をぶつけ合っていた。

 

「……ねえ、梨月。本当に、あっちにいくの?」

 

 耳元で鈴を転がすような、しかしひどく不気味な声がした。

梨月の視線の先、足元の影から這い出るようにして、四足歩行の黒猫──ネコマタが、しなやかな尾を揺らしながら歩いている。その姿は、普通の人間には見えていないようだった。すれ違う人々は、ただリュックを背負って一人で歩く梨月を、警戒と猜疑の目で見送るだけだ。

 

「ここにいても、配給の列で争いに巻き込まれるだけだよ。それに、これ」

 

 梨月は歩みを止めず、上着のポケットの中でスマートフォン――否、悪魔召喚プログラム『COMP』と化した端末の画面を盗み見た。

 

【 2 】

 

 赤いデジタル数字は、昨日から綺麗に一つ減っている。

余命、二日。

 

 高田馬場を出る前、もう一件の『ラプラスメール』が届いていた。それは高田馬場の一角で起きる、暴徒化した住民による放火事件の予報だった。

梨月は、その予報を読み、合理的かつ即座にその場を捨てる決断をした。この数字がゼロになった時、自分にどんな運命が訪れるのか、確かめるつもりは毛頭ない。

生き延びる。そのためには、確実な力を持ったコミュニティに身を寄せるのが最善の戦略だ。

 

 新宿を迂回し、代々木へと差し掛かった頃、街の空気はさらに険しさを増していった。

ビル街の狭い路地裏から、パチパチと電子ノイズに似た音が響く。

梨月がそちらへ目を向けると、数人の男たちが、自分と同じようにスマートフォンを凝視していた。彼らの前には、奇妙な形をした半透明の異形たちが蠢いている。

 

「おい、いけ! 妖精ピクシー、あのチビ悪魔をぶっ殺せ!」

 

「ははっ、マジで命令通りに動くじゃねえか! これがあれば、自衛隊の検問だって怖くねえ!」

 

 男たちの顔には、文明を失った恐怖ではなく、法も警察も機能しない檻の中で、強大な暴力を手に入れたことへの「全能感」が歪に浮かんでいた。

彼らは悪魔を使って、近くのコンビニのシャッターを力ずくでこじ開け、中の食料を貪り始めている。

 

 境界線が、摩耗している。

善良だったはずの市民が、COMPという狂気の道具を手に入れた瞬間に、容易く獣へと堕ちていく。その光景を、梨月は感情を殺した瞳で見つめていた。

 

(……。そんなことをしていれば、すぐに悪魔によって逆に喰われるか、余命を失って死ぬのに)

 

 梨月はネコマタに気配を隠させ、男たちの視界に入らないよう、静かに足早にその場を去った。

彼女が恐怖したのは男たちの暴力ではない。あの男たちが浮かべている狂気が、いつか自分の中にも芽生えるのではないかという、自身の内面への戦慄だった。

 

 夕刻。代々木の跨線橋を渡り、いよいよ渋谷の境界へと近づいた時、逢魔が時というのだろうか、空は不気味なほど赤黒く染まっていた。

山手線を囲う光の壁は、夜が近づくにつれてその輝きを増し、まるで東京という巨大な墓標を照らす蝋燭のように見えた。

 

「梨月、あそこ。変なのがいるよ」

 

 ネコマタが低く唸るような声を上げ、前方を示した。

明治通り沿い、渋谷区に入ったあたりの路上。そこに、奇妙な二人組が立っていた。

一人は、丈の長い奇妙な衣服を纏った、浅黒い肌の男。もう一人は、どこかおっとりとした雰囲気を崩さない、和装の女性。彼らは、逃げ惑う一般市民の群れとは完全に逆の方向――渋谷の奥地を見つめていた。

 

「困ったわね。渋谷の結界の密度が、昨日から異常に上がっているわ。悪魔のマグネタイトとは違う……人間のドロドロした執念のようなものが、街の底に溜まり始めている」

 

「何らかの仕込みだろう。だが、俺たちの任務はあくまで『ベルの王』の監視だ。呪術師どもの内輪揉めに巻き込まれるのは御免被るよ」

 

 二人の会話が、風に乗って梨月の耳に届いた。

聞き覚えのない単語が混じっていたが彼らの周囲には、悪魔とは明らかに異なる、何か「ドロリとした不快な気配」が陽炎のように揺らめいている。

 

(悪魔使い、ではない……? あの人たち、何を見てるの?)

 

 梨月は本能的な危険を察知し、物陰に身を潜めた。

彼らが口にした『渋谷』という言葉。ダイモンズがいるはずのその場所は、悪魔の縄張り争いとは別の、もっと底の知れない「何か」が動き始めている。そんな予感が、梨月の胸を不吉に締め付けた。

 

「おい、そこの女。何コソコソ隠れてやがる」

 

 突然、背後からドスの利いた声が響いた。

振り返ると、そこには革ジャンを羽織り、鉄パイプを肩に担いだ、鋭い眼光の男たちが数人立っていた。

彼らの手元には、はっきりと電子の光を放つCOMPが握られている。

 

「……ダイモンズ、ですか?」

 

 梨月は努めて冷静に、声を震わせずに尋ねた。

男の一人が、ニヤリと下品に笑う。

 

「だったらどうする? 命が惜しけりゃ、そのリュックの中身、全部置いていきな。カイドーさんのルールじゃ、力のない奴は従うしかねえんだよ」

 

 生きるための戦略として選んだ目的地。その門番たちの洗礼を前に、梨月はポケットの中のCOMPを、そっと強く握り締めた。

 

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