渋谷駅地下1階、改札外コンコース。
瓦礫と静寂が支配する空間で、階段の上と下から近づく足音が交差した。
上から降りてきたのは、返り血と煤にまみれながらも眼光を衰えさせていない七海建人と、金槌を握りしめた釘崎野薔薇。
下から上がってきたのは、カズヤ、アツロウ、ミドリ、カイドーの悪魔使いたち、そして虎杖悠仁、東堂葵、新田新の面々であった。
「――ナナミン!釘崎!」
階段の踊り場で真っ先に声を張り上げたのは虎杖だった。その顔には、死線を潜り抜けてきた極度の緊張から解放された安堵の色が浮かぶ。
「虎杖君……!無事でしたか」
「ピンピンしてるじゃないの!心配させやがってこのバカ!」
悪態をつきながらも、釘崎の目元には確かな安堵が滲んでいた。七海もまた、深く息を吐き出しながら緊張を緩める。お互いに無傷とは言えないまでも、生きて再会できた喜びが束の間、その場の空気を和らげた。だが、その安堵の余韻は長くは続かない。七海の表情が即座に一級呪術師の険しさを取り戻す。
「無事の確認が取れたところで……五条さんの件です。どうでしたか?……地下の状況はどうなっていましたか?」
七海の問いかけに、地下から上がってきた全員の表情が固まった。
突入の目的――「五条悟の奪還」その核心に触れられたことで、場の空気は一瞬にして凍りつく。
「……ダメだった」
重く口を開いたのは虎杖だった。拳を痛いほどに強く握りしめ、悔しさに唇を噛みしめる。
「五条先生は……本当に『獄門疆』って呪物に封印されてた。……けど、俺たちが地下5階のホームに辿り着いた時には、もう五条先生を封印した獄門疆は影も形もなかったんだ。敵の首謀者に、持ち去られた後だった……」
「持ち去られた!?」
釘崎が息を呑む。七海もまた、静かに目を見開いた。
「これまでの情報によると地下5階には特級呪霊や相当数の敵が待ち構えていたはずでした。ですが、いざ到達した時にはもぬけの殻。……おそらく五条さんが封印される前にたった一人で返り討ちにし、討伐したのだと思われます」
東堂が腕を組み、重々しく補足する。
「五条悟という絶対的な個が敗れたわけではない。だが、おそらく何らかの隙を突かれて封印され、その『箱』ごと敵の手に渡ってしまった……それが地下5階で起きた最悪の現実だ」
「そんな……じゃあ、五条先生は……」
釘崎の声が震える。五条悟の奪還失敗。それは、この渋谷で戦うすべての呪術師にとって、最大の希望が途絶えたことを意味していた。
七海は溢れそうになる感情を抑え込むように、深く長い溜め息をついた。
「……そうですか。五条さんの奪還は叶わなかった。ですが、首謀者を追い、獄門疆を奪還するという次の目的のために、まずは戦果と現状の情報を整理しましょう」
七海は冷静さを保って、地下の戦況を尋ねた。答えたのはミドリだった。
「はい……。五条さんを追う過程で遭遇した特級呪霊の『真人』は、完全に消滅させました。
私の魔法『天罰』の光で、魂ごと跡形もなく消し去りましたので、もう二度と蘇ることはありません」
「……あの厄介な呪霊を完全消滅ですか。それは快挙です。彼が地上へ放たれていれば被害は計り知れなかった。……よくやってくれました」
七海は心底胸を撫で下ろした。続いて釘崎が、自分たちの地上での戦果と後方支援の状況を伝える。
「地上側も一区切りついたわ。襲撃してきた呪詛師の重面って奴は七海さんが叩きのめした。それから……伊地知さんと新田明さんを無事に保護したわよ」
「刺された伊地知さんは危険な状態でしたが、ユズさんとリツキさんの『ディア』という回復魔法のおかげで治癒しました。
現在、二人と伊地知さん、新田さんの4人は、首都高3号渋谷線の渋谷料金所に設置された家入先生と夜蛾学長の救護拠点へ向かっています。地上側の防衛と後方支援体制は、これで概ね整いました」
地上の安全確保と特級呪霊・真人の撃破。重苦しい状況の中に差し込んだ小さな希望に、虎杖たちも「良かった……」と胸を撫で下ろした。
しかし――その安堵を叩き潰すように、不吉な電子アラートが鳴り響く。
悪魔使いの持つCOMPからだった。画面には真っ赤な警告文字と、常識を遥かに逸脱した高エネルギーの波形が跳ね上がっている。
「……おいおい、冗談だろ。なんだよこの数値……!?」
アツロウの顔から血の気が引いていく。
「これ一体どうなってるの?」
ミドリが覗き込むと、アツロウは引きつった表情でCOMPの画面を全員に見せるように掲げた。
「……五条さんの封印だけでも大問題だってのに、もっとヤバい異変が起きてるぞ」
「これは……呪力ですか?いや、あまりにも異質だ……」
七海が眉をひそめる。呪術師である彼らの皮膚にも、ビリビリとした気味の悪い圧迫感が伝わり始めていた。
「マグネタイトだ」
カズヤが静かに、だがズシリと重い声で呟く。
「悪魔の肉体を構成し、現世に繋ぎ止める高エネルギー体……それが、地下深く――渋谷駅の地下5階よりもさらに深い底から、爆発的に噴き出してきている」
「マグネタイトの高エネルギー反応だと!?まさか、悪魔の反応だって言うのか!?」
カイドーが鋭い眼光で階段の先――地下の闇を睨みつける。
「ああ。しかも桁が違いすぎる。今まで相手にしてきた悪魔なんて比じゃない……。それ以上の『何か』が、地下で目を覚まそうとしてるんだ」
アツロウの指がかすかに震えていた。COMPのアラート音は次第に高くなり、歪んだ電子音へと変わっていく。
五条悟の封印という呪術師たちの混乱の裏で、この高エネルギー反応は、この瞬間も上がり続けてる。このままでは渋谷全体が飲み込まれる恐れすらある。
五条悟の奪還失敗という絶望。そして、それをあざ笑うかのように地下深層から迫りくる、未知なる存在による圧倒的な産声。
渋谷駅地下1階の改札口周辺に、不気味な地鳴りのような振動が、遠く地下の底から重く響き渡り始めていた。
渋谷の闇に包まれたビルの屋上。
無数に蠢く呪霊たちの気配を背に受けながら、額に縫い目を持つ男――偽夏油は、手の中にあるサイコロ状の特級呪物『獄門疆』を不機嫌そうに見つめていた。
(……計算が狂ったな。五条悟の封印までは完璧だったというのに)
彼は深く舌打ちを噛み殺した。
本来の予定であれば、五条悟を封印した後、傷つき弱り果てた特級呪霊・『真人』を回収するはずだった。
真人を自らの『呪霊操術』に取り込み、その極致である『極ノ番・うずまき』によって『無為転変』の術式を抽出する。それこそが、日本全国の非術師たちを強制的に術師へと変貌させ、『死滅回游』という混沌の時代を開幕させるためのプロセスだったのだ。だが、その目論見は土壇場で脆くも崩れ去った。
原因は、地下へ向かおうとした彼の前に突如として現れた、「呪霊」でも「呪術師」でもない異質な存在――降霊術と死霊術を司る地獄の少将、魔王ネビロスであった。
『ふん……。その手に抱えている玩具、昔見た「脇見の壺」に酷似しているな。空間と時空を歪めて個を繋ぎ留める程度の代物か。実につまらん』
漆黒の外套を纏った紳士の如き悪魔は、事もなげに『獄門疆』の本質と構造を見破ってみせた。さらにネビロスの傍らには、フリルのついたドレスを着た幼い少女が佇んでいる。可憐で愛らしい容姿だ。しかし、偽夏油の超人的な観察眼は、その少女の愛らしさの裏側に潜む、あまりにも底知れない禍々しい死の気配と絶望的な魔力を瞬時に感じ取っていた。
(あの少女……触れれば即座に『死』を強制される呪いと同等の存在……。)
どうにか撤退することはできたが、あの悪魔と少女に牽制されている間に、地下の真人は呪術師と悪魔使いのチームに魂ごと消滅させられてしまった。
真人を失ったことは、偽夏油の計画においてあまりにも巨大な損失だった。だが、事態はそれだけに留まらない。
彼らの背後で蠢く大物の気配を察知し、偽夏油は不快そうに目を細める。
(魔王ネビロスに、渋谷の奥深くで胎動している不気味で底知れない気配。奴らの目的は何だ……?)
そして今、それらの悪魔たちの蠢動と、東京封鎖、さらには渋谷事変という未曾有の惨劇によって、渋谷のGP(ゲートパワー)は垂直立ち上げで跳ね上がっている。
魔界と現世を繋ぐ穴が開いたのだ。
(……ハハ、私の描いた『呪力の変革』のシナリオに、これほど巨大なノイズが混ざるとはね。人間自体もどうなるか分からんな)
偽夏油は『獄門疆』を懐に収めると、暗い笑みを浮かべながら闇の中へと姿を消した。
千年の企ては予期せぬ悪魔の介入によって歪み始めたが、この混沌すらも楽しむかのように。
――同時刻。首都高速3号渋谷線、渋谷料金所。
仮設のテントや街灯の明かりが灯る救護拠点は、異様なまでの静けさと、救われた人々の安息に包まれていた。
「……信じられないな。一瞬で内臓の損傷まで治癒しただと……?」
白衣を着た医師・家入硝子は、煙草を指に挟んだまま、目の前の患者の経過観察モニターとユズの手元を交互に見つめて絶句していた。
傍らに立つ呪術高専東京校学長・夜蛾正道も、厳格な表情の中に驚愕を隠しきれずにいる。
「これが『ディア』と『メディア』……私たちの使う回復魔法です。呪力ではなく、悪魔使いや仲魔の魔力を消費して傷を治すんです」
ユズがCOMPを操作しながら説明すると、家入はハッと息を吐き、タバコの煙を夜空に燻らせた。
「反転術式は体力の消費も激しいし、他人の治癒には高度な呪力操作がいる。だが君たちの『魔法』は、効率も即効性もこちらの常識を超えているよ。助かった……君たちが来てくれなければ、ここはいずれパンクしていた」
「伊地知も新田も、助かった。二人とも感謝しているぞ」
夜蛾が静かに謝意を示すと、待機していたリツキが微笑んだ。
「お役に立てて良かったです。……私たちも、ただ守られているだけじゃ嫌ですから」
そう言って、ふとリツキは自分のCOMPの画面を見つめた。
悪魔召喚プログラムの付加機能である『ラプラスの魔』そこに表示されるのは、この東京封鎖下における人間の「余命」を示す不吉なカウントダウン数値である。
死の運命に囚われていたリツキの画面には、封鎖四日目になり『0』という絶対的な死の数字が刻まれていたのだが……
(えっ……?)
リツキは息を呑み、COMPの表示画面を食い入るように二度見した。
自分の名前の横に浮かび上がる数値。それは、もはや『0』ではなかった。
『 3 』
この隔離された東京封鎖内で観測できる数値としては「最長」で当面の死の回避を意味する数字だった。
過酷な戦いを潜り抜け、後方での救助活動という己の役割を果たしたことで、リツキはついに自らの手で死線の運命を打ち破ったのだ。
「……ユズちゃん、見て!」
「えっ……?『3』!?リツキさんの余命が……!」
画面を覗き込んだユズが、目を見開いて声を震わせる。
リツキは安堵と込み上げる感動から涙ぐみ、ユズの手を強く握りしめた。
ユズもまた、溢れる涙を拭いながらリツキを強く抱きしめた。
――だが、その温かな安堵の時間は、突然の「異変」によって引き裂かれる。
ドズゥン……ッ!!
渋谷料金所の地面全体が、まるで巨大な巨人が踏みつけたかのように大きく跳ね上がった。
空を見上げれば、夜空を覆う帳の隙間から、青黒い禍々しい歪みが渦を巻いて広がっていく。そして――耳を刺すような羽音が、渋谷全体を包み込む暴風となって吹き荒れ始めた。
「な、なに……!?この圧力……!?」
家入硝子が顔色を変え、夜蛾学長が即座に戦闘体勢をとる。
ユズとリツキのCOMPは、けたたましい警告音を鳴らし続けていた。
地下から噴き出す莫大なマグネタイト。爆発的に上昇したGP(ゲートパワー)
極限の混沌の中心に大いなる闇の右腕が、ついにその圧倒的な姿を現そうとしている。
次回からは第3章。更新の間があくかもしれません