28話 高き館の主、顕現
「……嘘、でしょ……?」
首都高3号渋谷線、渋谷料金所の冷たく無機質なコンクリートの上。
渡辺梨月は、指先を強く震わせながらCOMPの液晶画面を食い入るように見つめていた。
画面の端に小さく表示されている数字は、確かに『3』を示している。
ほんの少し前まで、彼女の頭上に無情にも刻まれていた死のカウントダウン――『0』
死の恐怖に怯えながらも後方支援として戦い、七海建人や谷川柚子と共に怪我人を運び、ここ渋谷料金所の救護班へと合流。
家入硝子ら呪術師たちと協力し、ユズと共に回復魔法を惜しみなく注ぎ込んで瀕死の傷病者たちの命を繋ぎ止めたのだ。
己の役割を果たし、死線を乗り越えた末に勝ち取った、あまりにも重い奇跡。
COMPに表示された余命数値の『0』から『3』への更新は、梨月にとって自分が誰かを救い、そして自分自身も生き残る未来を掴み取ったという確かな証だったはずだった。
助かったのだと、安堵の息を漏らしたばかりだったはずだ。
だが――世界は、彼女に束の間の安息すら許してはくれなかった。
「リツキさん……? どうしたの? 顔色が……」
隣で魔法の行使による疲労に耐えながら身体を起こしたユズが、リツキの尋常ではない立ち尽くし方に異変を察知して声をかける。
「ユズちゃん……これ……」
リツキの声はかすれ、途切れ途切れだった。
命の猶予を得たはずだった。後方支援に尽力し、最悪の運命を回避したはずだった。
なのに――なぜ、全身の皮膚が泡立つようなこの凄惨な空気が、皮膚を、骨を、魂を刺すのか。
胸の奥を重い塊で直接圧迫されるような、胃の腑から絶え間なく吐き気を催すほどの圧迫感。
それは、先ほどまで救護所に運ばれてきた傷病者たちが感じていた呪霊の気配や、路上で徘徊していた悪魔たちの威圧感などとは、根底から次元が異なっていた。比較することすら生ぬるい、「存在の格」
「……みんな、下がれ! 今すぐに!」
鋭く、切迫した声が夜の料金所に響き渡った。
声を上げたのは、呪術高専東京校の学長、夜蛾正道だ。
普段の厳格な面持ちは、今や鬼気迫るものへと変貌し、自身の周囲に複数の呪骸を即座に展開させている。その後ろでは、怪我人の治療を終えたばかりの家入硝子が、咥えていた煙草をポロリと地面に落とし、不快そうに顔を歪めて夜空を見上げていた。
「これ、呪霊の気配じゃありませんよ……」
伊地知潔高が青ざめた顔で声を震わせる。
車内で待機していた新田明も、恐怖で硬直しながら後部座席から身を乗り出していた。
23時59分。
COMPやスマートフォンに表示された時計の数字が刻一刻と刻まれ、そして――「24:00」を告げた瞬間だった。
――ズ、ズズズズズ……ッ!
地鳴りではない。
大気が、空間そのものが耐えきれずに軋み、悲鳴を上げているような重低音が渋谷全体を激しく揺らした。
「あ……がっ……!?」
リツキは突如として全方位から襲いかかってきた重圧に耐えかね、呼吸を詰まらせてコンクリートの上に膝をついた。
空気が重い。まるで突き落とされたかのように、肺が酸素を拒絶する。
同時に、耳の奥を直接引っ掻くような、狂気を含んだ不快な残響が響き始めた。
羽音だ。
無数の蝿が、巨大な羽を絶え間なく撃ち鳴らしているかのような、禍々しく耳障りな音波。
「リツキさん、掴まって!」
ユズが叫び、必死に梨月の肩を抱き寄せる。だがユズ自身も、唇を噛み締めながらガタガタと全身を震わせていた。
料金所の高架上から見下ろす渋谷の東口――国道246号沿いに聳え立つ「渋谷クロスタワー」
その塔を中心に世界が、日常の風景が変貌していく。
それは「侵蝕」という概念すら生ぬるい、世界の再構築だった。
タワーの脚部から、漆黒の霧のような磁場――莫大なマグネタイトの濁流が奔流となって噴出し、周囲のビル群を呑み込んでいく。
近代的なガラス張りの高層建築が、まるで巨大な昆虫の巣、あるいは黒蟻が群がる巨木のように蠢き、歪み、漆黒の有機的な異形構造物へと塗り替えられていく。
街灯の光は黒い靄に吸い込まれて次々と消灯し、アスファルトの路面は脈打つ肉塊のような不気味な質感を帯びていった。
空間が折れ曲がり、異界の迷宮へと変貌していくその中心。
黒く変貌を遂げたクロスタワーの頂に、巨大な「何か」が降り立っていた。
背中に蠢く巨大な虫の羽と、触れるものすべてを瞬時に腐敗させ、死へと誘う絶対的な瘴気。
――『魔王ベルゼブブ』
「神話の災厄」そのものがそこに君臨していた。
「なんで……っ!」
リツキはコンクリートに指を立て、ボロボロと涙をこぼした。
「私……みんなを助けて……余命だって延びたのに! 助かったはずなのに! なんでこんな……こんなの、勝てるわけないじゃないっ!!」
リツキの頭の中はパニックで弾けそうだった。
生き残るためにできる限りの全力を尽くした。だからこそ『0』だった余命は『3』へと伸び、死の運命を回避できたはずだったのだ。
それなのに、目の前に現れたのは、人類の知恵も呪術も悪魔使いの力も全てを灰燼に帰すような大魔王の降臨だった。
(どうして……? 余命が増えたってことは、生き残れる未来に繋がったんじゃないの……!? なんで今、こんな化け物が目の前に出てくるの!? )
過呼吸気味に肩を激しく揺らすリツキの体を、夜蛾が力強く支えた。
「落ち着け!気をしっかり持て!呑まれるな!」
夜蛾の腹の底から響く厳格な声が、恐怖で凍りついた場をかろうじて繋ぎ止める。
「家入、伊地知! 傷病者を料金所の最奥へ下げろ! 結界術の術式を三重に重ねるんだ!」
「学長……あの規模の“何か”が本気でこっちに流れてきたら、防ぎきれませんよ」
家入硝子が冷や汗を拭い、煙草を踏みつけながら即座に指示に従う。
実際のところ、顕現したベルゼブブ自身が積極的に人間を狩るために動き出しているわけではなかった。
大魔王にとって、クロスタワー周辺を自らの絶対的領域として染め上げ、君臨することこそが目的であり、足元を逃げ惑う人間など視界にすら入っていないに等しい。
だが――そんな神話生物の考えなど、知る由もない。
ただ眼前に聳え立つ圧倒的な「死」の壁に、心を打ち砕かれそうになっていた。
「クロスタワーの方角から、溢れ出るマグネタイトに当てられた悪魔の群れが急接近しています!」
ユズがCOMPを見ながら悲鳴に近い声を上げる。
ベルゼブブの降臨に伴い爆発的に噴出したマグネタイトは、周囲にいた中・下位の悪魔や呪霊たちを凶暴化させ、狂乱状態へと陥らせていた。そしてその暴走した悪魔たちが、生身の人間の匂いを察知し、この渋谷料金所へと波のように押し寄せてきているのだ。
「チッ……来いッ! 呪骸ども、前へ出ろ! ここから先へは一歩も通すな!」
夜蛾が強い呪力を込め、大型の呪骸を料金所の階段付近へ展開させた。
「私……私だって! ネコマタ、ユキジョロウ……!」
リツキは涙を拭い、震える手でCOMPを構え直した。
恐怖で足がすくみ、心臓が痛いほど脈打っている。余命『3』という数字の持つ本当の意味も、この理不尽な状況の理由も分からない。
けれど――過酷な状況下でみんなと協力して掴み取ったこの命を、ただ恐怖に怯えて手放すことだけは、絶対に嫌だった。
「リツキさん……うん、諦めちゃダメだよ!」
ユズもまたCOMPを強く握りしめ、二人は夜蛾学長の後方へと陣を取る。
渋谷料金所を舞台に、大魔王の影の下で繰り広げられる防衛戦。
その最前線へ、異変を察知した新たな影たちが猛スピードで接近していた。
「おい……冗談だろ、ありゃあ……」
渋谷駅西口側のビル群屋上。
刀の柄に手をかけたまま、日下部篤也は絶句して東の空を見上げていた。
24時。
東口の「渋谷クロスタワー」を中心に噴き出した莫大な黒い靄と、全方位を圧迫する強烈なプレッシャー。それは、特級呪霊の領域展開などという次元すら遥かに通り越していた。
「日下部、のんびり眺めてる場合じゃない! あのプレッシャーのすぐ近くに!」
傍らに立つパンダが、白黒の体躯を緊迫させて首都高の高架上を指さした。
「……料金所だ」
黒髪の少年――伏黒恵が、険しい眼差しで言葉を継ぐ。
「夜蛾先生や家入さんが後方支援のために設置した救護拠点だ。あの黒い塔の目と鼻の先だぞ……!」
「ちっくしょう、なんで俺がこんな大災厄の真ん中に突っ込まなきゃならねえんだ! 離れたい、今すぐ東京から離れたい!」
日下部が頭を掻きむしりながら愚痴をぶち撒ける。だが、その足は既に凄まじい速度で手すりを蹴り、高速道路へと向かって跳躍していた。
「行くぞ! 日下部を一人で死なせるな」
「言われなくても!」
「そこの二人!俺は死ぬつもりなんてないぞ」
三人の影が、深夜の渋谷の屋根を駆け抜けていく。
「くッ……『氷の壁』、展開……ッ!」
渋谷料金所の最前線。
リツキはCOMPをかざし、召喚した仲魔『ユキジョロウ』とともに吹雪の障壁を発生させていた。
高架道路の階段やスロープを駆け上がってくるのは、マグネタイトの爆発的噴出によって正気を失い、極度の狂乱状態に陥った中・下位の悪魔と呪霊の群れだ。
「ガァァァッ!」
「肉だ……生き血だ……ッ!」
歪んだ容貌の悪魔たちが、氷の壁を顧みずにぶつかり、砕け散りながらも数を頼みに押し寄せてくる。
「リツキさん、引いちゃダメ!オルトロス 左!」
ユズが叫び、自身の召喚した『オルトロス』が鋭い爪で肉迫する悪魔の喉元を切り裂く。だが、どれだけ倒しても後続が途切れない。
ベルゼブブの降臨によって解き放たれた過剰な魔力が、周囲の異形どもを際限なく活性化させていた。
「ハァ……ハァ……っ!」
リツキは荒い呼吸を繰り返す。
余命の数値は『3』即死フラグは回避できたはずだ。だが、この大群に押し潰されれば、結局ここで命を落とす。
(嫌だっ! ここで倒れたら、今まで必死に生きて抜いてきた意味がない……!)
「渡辺! 谷川! 無茶をするな、下がれ!」
後方から夜蛾正道が大声を張り上げ、大型の呪骸を前線へ突撃させる。
丸太のような呪骸の腕が悪魔の群れを叩き潰すが、数多くの蝿の羽音が不気味な残響で空気を揺らすたび、異形どもの攻撃性は増していくようだった。
「結界の維持、もうギリギリです!」
伊地知潔高が青ざめた顔で叫び、家入硝子も怪我人を抱えながら眉をひそめる。
まさに、防衛線が力尽きかけ、悪魔の津波が料金所へと雪崩れ込もうとした――その時だった。
「――シン・陰流、『簡易領域』」
刹那、青白い刀身の軌跡が夜空を走った。
「ガアッ!?」
最前線に躍り出ていた三体の悪魔の首が、同時に空中に舞い上がる。
「はぁー……やっぱり地獄絵図じゃねえか。なんで俺の行く先々には化け物しかいねぇんだ」
刀の血を払いながら、溜め息混じりに姿を現したのは一級術師・日下部篤也だった。
「日下部……! パンダ、伏黒まで!」
夜蛾が安堵の胸をなでおろす。
「みんな! 無事か?」
パンダが巨体を活かした強烈なドロップキックで悪魔を突き落とし、伏黒恵は影から召喚した『玉犬・渾』と『鵺』を放って空中の怪異を散らしていく。
ユズが歓声を上げる。リツキもまた、思わず膝をつきそうになる体をユズに支えられながら、助っ人たちの背中を見つめた。
「よく耐えたな、任せろ!」
パンダが前衛に割り込み、巨躯で悪魔の爪撃を受け止めながら拳を叩き込む。
「ここからは俺たち呪術師の戦いだ! 伏黒、左を張れ!」
「了解!」
伏黒の式神『鵺』が電撃を撒き散らし、狂乱した悪魔たちの動きを麻痺させる。そこへ日下部が恐ろしい精度の居合いを叩き込み、一気に防衛線を押し戻していく。
そこに悪魔使い二人の魔法支援と、呪術師たちの卓越した近接戦闘が噛み合い、死の淵に立たされていた渋谷料金所の防衛線は見事に持ち直したのだった。
「……ふぅ。ひとまず、危機は去ったってところか」
激闘の末、押し寄せていた悪魔の波を散らし終え、日下部が刀を鞘に納めた。だが、誰一人として勝利の笑みを浮かべる者はいない。
全員の視線は、渋谷料金所の目と鼻の先――国道246号に聳え立つ「渋谷クロスタワー」へと向けられていた。
黒く侵蝕され、巨大な昆虫の巣のように変貌したそのタワーの頂。
そこに鎮座する『魔王ベルゼブブ』は、未だ動いてはいない。ただ静かに、全方位へ絶望的なまでの瘴気を撒き散らし続けている。
伏黒恵が、汗に濡れた前髪を払いながら冷ややかに告げた。
「あの化け物自体は、まだ俺たちを攻撃対象として認識していません。ですが、あれが撒き散らしている力の密度が高すぎる。
ここに留まり続ければ、敵が押し寄せてくるだけじゃなく、怪我人や一般人たちが危ない」
家入硝子が深く煙草の煙を吐き出した。
「反転術式や悪魔使いの回復魔法で傷を塞いでも、この毒のような空気の中に身を置いていてはな……ここを離れるべきだろう」
「でも、七海さん達はまだ渋谷駅に……ここを捨てれば合流の機会が……」
「いや、七海なら判断を誤らん」
伊地知が懸念を話すが夜蛾正道は重々しく首を振った。その眼光は、防衛線の先――東の空を見据えている。
「七海達もあの異形の顕現は察知しているはずだ。そして今の戦力で正面突破が不可能であることもな。
必ず安全な場所へ退避し、態勢を整えるだろう。……我々の役割は、ここで全滅することではない。戦力および後方拠点を維持することだ」
夜蛾は振り返り、全員を見渡す。
「これより、救護拠点を後方へ撤退させる!」
「後退するとして……どこまで下がりますか?」
日下部が尋ねる。
「ここから東の青山学院大学の青山キャンパスだ」
夜蛾の提示した目的地に、日下部や伏黒が即座に頷いた。
「大学のキャンパスか……! あそこなら敷地が広く、丈夫な校舎がある。門を封鎖すれば少数の手勢でも防衛線を構築しやすいな」
「距離もそれほど離れていないから移動も容易ですね」
「決まりね」
家入がパンパンと手を叩いた。
「みんな!動かせる車輌に傷病者を優先して乗せて!歩ける人は自力でついてきてもらうよ」
「はいっ!」
準備が慌ただしく始まる中、リツキはCOMPを握りしめたまま、静かに息を吐いた。
(青山学院大学……)
渋谷の渦中から一歩下がり、体制を立て直すための後退。
余命『3』という数字を得た自分が、今できることは何か。
ただ恐怖に慄くのではなく、仲間と傷病者たちを守り抜くことだ。
「リツキさん、行こう」
ユズが優しく肩を叩いてくる。
「うん……! 行こう、ユズちゃん!」
魔王ベルゼブブが放つ不気味な羽音と漆黒の圧力を背に受けながら、救護班は次なる防衛拠点――青山学院大学キャンパスを目指し、深夜の後退を開始した。