「――七海さん! COMPが……警告を吐き続けてます!」
地下での凄惨な激戦を制し、地上――渋谷駅東口付近の路上へと這い出てきた直後だった。
息を吐く虎杖悠仁の隣で、アツロウが手にした端末の画面を血相変えて七海建人に突きつける。そこに表示されていたのは、これまでに見たこともない「GP」の異常な急上昇と、画面全体を真っ赤に染め上げる波形の警告表示だった。
「なんなんだよ、これ……磁場が、マグネタイトの密度が跳ね上がってる! こんな数値、これまで見たことがないぞ!」
アツロウの声に応じるかのように、夜空が低く、重く震えた。
「24:00」を刻んだ瞬間、渋谷の街を包み込んだのは地鳴りなどという生易しいものではなかった。
大気が、空間そのものが耐えきれずに軋みを上げ、全方位から肉体を直接押し潰すような苛烈な重圧が押し寄せる。
その直後、耳奥を直接刺す不快な残響――無数の蝿が巨大な羽を絶え間なく打ち鳴らすような不気味な音波が、夜の空気を完全に支配した。
「……ッ! 全員、身を隠せ!」
七海建人が瞬時に腕を伸ばし、虎杖悠仁と釘崎野薔薇の首根っこを掴んで路地裏の影へと強引に押し込む。カズヤ、アツロウ、ミドリたち悪魔使いの面々も、本能的な死の恐怖に突き動かされるようにアスファルトへ身を伏せた。
国道246号に面した「渋谷クロスタワー」
その高層ビルを中心に、漆黒の磁場が奔流となって噴出し、一瞬にして周囲の街並みを呑み込んでいった。
近代的な建築が、まるで肉塊のように蠢き、巨大な昆虫の巣のような異彩の有機的ダンジョンへと塗り替えられていく。
そして、黒く変貌したタワーの頂に降り立った、圧倒的な異形。
――『魔王ベルゼブブ』
「……な……んだよ、あれ……」
虎杖が冷や汗をたらたらと滴らせながら、息を殺してその巨大な影を見つめる。
「呪霊……じゃない。でも、なんだよあのプレッシャー!」
「近づいてはなりません! 視線を向けることすら危険です!」
七海の切迫した声が路地裏に低く響いた。
呪術師として社会人として数々の死線を潜り抜けてきた七海の眼が、冷徹なまでに「死」の壁を映し出していた。
(――勝てるわけがない)
論理的な思考すら不要な、絶対的な格の差。
自分たちがこれまでに戦ってきた相手とは、次元そのものが異なっている。
「全員、静かに撤退します。気配を殺して、私の後に続いてください」
「おいおい! あんなバケモンの目と鼻の先でウロウロできるかよ」
影から身を乗り出したのは、渋谷ダイモンズのリーダー・カイドーだった。その獰猛な面構えにも、流石に隠しきれない戦慄が走っている。
「撤退するにしてもどこへ行く!? 東口側は完全にヤバい気配に染まってるぞ!」
「カイドー、渋谷はアンタの縄張りだろ?何処か逃げ込める場所に心当たりないのか?」
カイドーは不機嫌そうに舌打ちを一つ鳴らすと、ギロリと七海を見た。
「……チッ、ついて来い! 西側の宇田川町の方に俺たちがよく知ってるライブハウスがある。『CLUB QUATTRO(クラブクアトロ)』だ。
防音も効いてるし、シャッターを降ろせば外の不快な羽音も少しは遮れる!」
七海の無言の頷きを受け、呪術師と悪魔使いの混成チーム一行は闇に紛れ、身をかがめながら渋谷駅前を大きく迂回し、西側の宇田川町へと走った。
渋谷クロスタワーから噴き出す凄惨な気配を背に受けながら、カイドーの案内でビルの上層階に位置するライブハウス「CLUB QUATTRO」に辿り着くと重厚な防音扉を閉め、内側から施錠とシャッターを下ろすと、外界を支配していたあの禍々しい蝿の羽音が、嘘のように遠のいた。
防音壁に囲まれた暗い店内には、ステージ周りの非常灯だけがほの明るく灯っている。
「ふぅ……ふぅ……っ! た、助かったんすか……?」
床に座り込んだ新田新が、膝をガタガタと震わせながら荒い息を吐く。
釘崎やミドリの女性陣も限界を超えた連戦の疲労と過度の緊張から解き放たれ、重い体をフロアのソファや壁際に投げ出している。
「七海の旦那」
入口の扉の前に立っていたカイドーが、革ジャンを軽く叩きながら七海を呼ぶ。
「俺とダイモンズの連中は、一旦ここを出る」
「カイドー? こんな夜中にどこ行くんだよ!」
アツロウが驚いて顔を上げる。
「決まってんだろ。俺たちの縄張りがどうなってんのか見てこなくちゃならねえ。仲間も残ってる。……お前らはここで夜を明かせ。明日、日が出たらまた合流してやる」
カイドーはそれだけ吐き捨てると、ダイモンズの面々に目配せをし、闇の中へと静かに消えていった。
「……さて」
カイドーたちを見送った後、重い扉の鍵を確実に掛け終えた七海は、深く呼吸を整え、疲弊しきった若者たちを見渡した。
「皆さん、今夜はここで休息をとります。明日の行動に向けて、少しでも体を休めてください」
「見張りは? 交代でやろうか?」
虎杖が重い体を強引に起こそうとするが、七海は静かに手をかざしてそれを制した。
「不要です。あなたがたは全員、今すぐ寝てください。最初の見張りは私がやります」
「でも、七海さんだって限界でしょう! 私たちだって……」
釘崎が不服そうに抗議しようとしたが、七海はその鋭い眼光で静かに、だが決定的に言葉を遮った。
「これは大人の務めですよ。……今は明日に備えて眠るのが仕事です。さあ、休みなさい」
七海の毅然とした声には、一切の反論を許さない絶対的な拒絶と、深い慈悲が込められていた。
カズヤとアツロウは顔を見合わせ、やがて静かに頷くと、横になる虎杖たちの隣で目をつむる。
過酷な連戦を経た彼らの身体は、すでに限界を迎えていた。間もなく、暗闇の中に規則正しい寝息が重なり始めていく。
七海建人は一人、静まり返ったバーカウンターへと目を向ける。
虎杖悠仁、釘崎野薔薇、東堂葵、新田新。そしてカズヤ、アツロウ、ミドリ。
疲れ果てて眠りに落ちた若者たちの姿を確認すると、七海は静かに足音を消し、バーカウンターの奥へと足を進めた。
グラスをひとつ手に取り、置かれていたミネラルウォーターを注ぐ。
氷の浮かんでいない常温の水を、ゆっくりと喉へ流し込んだ。
無機質な水分が胸に染み渡る。
七海は眼鏡を少しずらし、疲労の溜まった目元を指先で強く揉んだ。
「……ハァ」
口から漏れたのは、重く、果てしない溜め息だった。
渋谷に到着してからは呪詛師や呪霊、異形の悪魔どもとの終わりの見えない連戦。
渋谷駅地下で虎杖達との合流を果たし、満身創痍で這い上がってきた地上で待っていたのは、安堵などではなかった。
「24:00」を告げると同時に顕現した、あの災厄――「魔王ベルゼブブ」
(……あれは、一体何なんです?)
七海はグラスの底に残った水面に視線を落とし、自問自答を始める。
呪術師という職種は、社会の裏側で負の感情を処理する「労働」だ。
七海自身、呪術高専を卒業した後は一度この業界を去り、一般社会で働いた経歴を持つ。
日々膨大なリスク数値を弾き出し、論理と市場原理、そして人間社会の「現実」と向き合ってきた。
だからこそ、一般的な社会人の視点、倫理観、そしてリスク管理の概念から見て――あの「ベルゼブブ」という存在は、あまりにも常軌を逸しているのだ。
呪術の世界において、呪霊とは人間の負の感情から生まれる。
「痛い」「苦しい」「死にたくない」――そうした誰もが抱く感情が漏れ出し、澱み、形を成したものが呪霊だ。それゆえに、呪霊の発生には因果関係が存在する。怪談や都市伝説、特定の土地に対する畏怖や憎悪が、呪霊という概念を形作るのだ。
だが、あの存在は違う。
カズヤたち悪魔使いは、あの凄惨な異形を当然のように「魔王」と呼んだ。
何故あんな神話や宗教の教典に刻まれるような絶対的な破壊の権化が今、この日本の首都・東京の渋谷に根を張っているのか。
(人間の感情の漏れ出し程度で、あんなものが形を成すはずがない)
世の中に流通する悪意や負の感情をすべて集め、圧縮したところで、あれほどの「絶対的な存在」が算出できるわけがないのだ。まるで、最初から世界そのものの物理法則や理(ことわり)の裏側に、あのレベルの悪意が「元から存在していた」とでも言うかのように。
神話の時代から横たわる、人類の歴史すら遥かに超越した巨大な理不尽。そこには、人間が積み上げてきた倫理も、努力も、正義すら関係ない。日常が一瞬にして踏み躙られる。
(呪術師の不条理すら生ぬるく見えるほどの、世界の破綻……)
七海は深く目を閉じた。
さらに状況を絶望的にさせているのは、絶対的な「柱」の欠落だ。
五条悟の封印。
あの男がそこに立っているだけで、世界のバランスは保たれていた。規格外の強さが、あらゆる理不尽に対する抑止力となっていたのだ。
だが、その柱は折れた。
柱を失った途端に露呈したのが、呪詛師たちの暴走であり、そしてこの「魔王顕現」という世界の破綻だ。
(今の私たちに、あの魔王を正面から撃破する手段はありません。論理的に考えて、勝ち目はゼロだ)
あのクロスタワーに鎮座するベルゼブブは、まだこちらを認識すらしていない。だが、撒き散らされる瘴気だけで、一般人はおろか術師の肉体すら苛む。
あの存在と対峙するには、あまりにも戦力が足りなさすぎる。
(後方に待機してくれているはずの救護班にいる面々。彼らもあの異常事態には気づいているはずだ。もし無事であれば、駅周辺から後退し、どこかで態勢を整えているはず……)
夜蛾学長や家入硝子なら無理な交戦を避け、安全な場所へ拠点を移しているはずだ。
明日、夜が明けたらまずは情報収集と合流模索。そして、この崩壊した渋谷から、人々を一人でも多く生存させて逃がすこと。
(……まったく、とんだ残業になりそうだ)
七海はグラスを握りしめ、自嘲気味に息を吐いた。
視線の先では、まだ子供と言うべき仲間たちが、疲弊した身体を丸めて眠っている。
彼らは本来、こんな争い、企みに巻き込まれるべきではない。
「大人」が機能していない社会は、子供に代償を払わせる。
五条悟という天才一人に頼り切り、システムを怠惰に維持してきた呪術界の歪みが、今、こうして彼らの肩に重くのしかかっているのだ。
七海は動いている時間を確認した。
時計の針はゆっくりと、だが確実に過酷な「明日」へと向かって進んでいる。
「……私が生きている限り、彼らをこれ以上の理不尽に晒すわけにはいかない。それが……大人の務めです」
静まり返ったバーカウンターの中、七海建人は一人、グラスの水に映る己の眼差しを見つめていた。
それは、誰に誇るでもない。感謝を求めるでもない。
ただ「大人」として、この狂った夜の先へ子供たちを届けるという、静かで孤高の決意だった。