鉄パイプを肩に担いだ男たちの視線は、獲物を値踏みする肉食獣のそれだった。
緊迫した空気が流れる。しかし、渡辺梨月の脳細胞は、恐怖にすくむどころか、冷徹な生存の数式を弾き出し始めていた。
(相手は三人。全員がCOMP持ち。まともに戦えば、ネコマタがいても私の消耗が大きすぎる……)
「おいおい、黙り込んじまって。カイドーさんの名前を聞いて腰が抜けたか?」
先頭の男が下卑た笑みを浮かべ、一歩間合いを詰めてくる。その瞬間、梨月はポケットの中の端末をタップし、ネコマタへ無言の指示を送った。
「しゃがんで、梨月!」
ネコマタの声と同時に、梨月は身を屈めた。男たちの足元の影から黒い閃光が飛び出し、先頭の男の顔面へ向けて鋭い爪が振るわれる。
「ぎゃあッ!? なんだこれ、猫──」
突如として視界を襲った漆黒の獣に、男たちが動揺する。だが、梨月の目的は彼らを倒すことではない。
「ネコマタ、走るよ!」
立ち上がると同時に、梨月は脱兎のごとく明治通りを渋谷駅方面へと駆け抜けた。背後から「クソッ、待ちやがれ!」という怒号が響くが、彼らが追ってこられないことは分かっていた。なぜなら、ここから先は『ダイモンズ』の本拠地──カイドーが絶対的なルールを敷く領域だからだ。末端の不埒者が勝手な略奪を働いていい場所ではない。
息を切らしながら宮下公園の脇を抜け、渋谷駅の東口ロータリーへと滑り込んだ時、梨月は思わずその光景に圧倒された。
そこは、高田馬場のような無秩序な混沌とは一線を画していた。
放置された車両は綺麗に整列されて防壁と化し、その内側では多くの一般市民が、怯えながらも一定の規律を保って身を寄せ合っている。そして何より、周囲のビルや歩道橋の上には、COMPを手に悪魔を従えた『ダイモンズ』の構成員たちが、周囲を厳重に警戒していた。
力による支配。しかしそれは同時に、この極限状態においては確実な『庇護』を意味していた。
「おい、見ない顔だな」
駅ビルの薄暗いエントランスへ足を進めようとした梨月を、一人の構成員が呼び止めた。だが、先ほどの掠奪者たちとは違い、その目は理性を保っている。
「高田馬場から歩いてきました。ダイモンズのルールに従います。中に入れてください」
梨月が迷いのない瞳でCOMPを提示すると、男は少し驚いたように鼻を鳴らした。
「腹が据わってるな。いいぜ、大人しくしてる限り、カイドーさんはお前らみたいな一般人を無駄に殺しゃしねえよ。ただし、揉め事を起こしたら即座に悪魔の餌だ。……奥へ行け」
許しを得て、梨月は駅構内の即席のシェルターへと足を踏み入れた。コンクリートの床に座り込み、リュックを抱きしめてようやく長い息を吐き出す。
上着のポケットから取り出したCOMPの画面を見る。
【 1 】
余命、一日。
十月三十日。封鎖三日目の夜が、静かに更けようとしていた。
明日には、このカウントはゼロになる。だが、これだけ悪魔の防衛線が強固な渋谷であれば、明日起きるはずの理不尽な死を回避できるかもしれない。梨月は、そう自分に言い聞かせた。
夜が深まるにつれ、シェルターの中は不気味な沈黙に包まれていった。
生き残った人間たちは疲れ果て、言葉を交わす気力もなく横たわっている。梨月も壁に背を預け、浅い眠りに落ちようとしていた。
──だが。
その静寂の底で、何かが脈打っていた。
「……ねえ、梨月。なんか、おかしいよ」
膝の上で丸くなっていたネコマタが、耳をぴんと立てて、暗闇の奥――ハチ公前広場や地下街へと続く通路の方向を睨みつけた。
「悪魔の気配じゃないの。もっとこう、人間の死体から立ち上る煙みたいな……すっごく、嫌な血の匂いがする」
梨月は目を開け、暗闇を見つめた。
確かに、空気の質が変わっていた。COMPの電子ノイズとは明らかに違う、肌にへばりつくような粘り気のある寒気。それは、この数日間で梨月が学習した「悪魔の出現コード」には存在しない、まったく未知の不快感だった。
東京を覆う神の檻(東京封鎖)
その檻の内側で、悪魔使いの縄張り争いとは全く別の次元の、ドロドロとした黒い質量が、じわじわと渋谷の街の底に溜まり始めている。
(気のせい……? いいえ、何かが、ここに集まってきてる……)
梨月は胸騒ぎに突き動かされ、COMPの画面を起動した。
日付が変わる。十月三十一日。
赤い余命の数字が【 1 】から【 0 】へと書き換わったその瞬間、端末が激しく震動し、血のように赤い文字で新たな『予報』を吐き出した。
【ラプラスメール:10月31日の予報】
本日、19時00分。渋谷駅周辺において、大規模な『帳』が降ろされます。
死亡者数:計測不能。
原因:呪術師、呪詛師、および特級呪霊の衝突による、不可避の霊的災害。
「……呪術師? 帳……?」
かつてない異常なラプラスメールの内容に、梨月の息が止まる。
生きるために選んだ安全地帯。
しかし彼女はまだ知らなかった。
自分がいるこの渋谷こそが、この後、この世の終わりのような劇薬――『渋谷事変』の爆心地になるということを。