クラブクアトロの薄暗いフロアに、静かな足音が響いた。
バーカウンターでグラスを手に一人佇んでいた七海建人の背中に、足音が近づいてくる。
振り返ると、そこには虎杖悠仁が立っていた。まだ目元には疲労の色が色濃く残っているが、その瞳には力強い光が戻っている。
「……見張り、交代するよ」
「虎杖くん。まだ4時を回ったところですよ」
七海は腕時計に視線を落とし、静かに首を振る。だが、虎杖は譲らなかった。頭の後ろで両手を組み、少し照れくさそうに笑いながらバーカウンターの隣に並ぶ。
「七海さんこそ、ずっと起きてただろ? ぶっ倒れられたら一番困るんだよ。それに……俺、もう目が冴えちゃってさ」
「……相変わらず聞き分けが悪いですね」
七海は小さな溜め息をついたが、それ以上追及することはしなかった。グラスに残った最後の一滴を飲み干すと、静かに立ち上がる。
「では、お言葉に甘えて少し横になります。何か異変があれば、躊躇わずに私を起こしなさい」
「おう、任せとけって」
七海がフロアの奥にあるソファへと向かうのを見送り、虎杖は一人、暗い店内の壁に背を預ける。
重厚な防音扉の向こうからは、相変わらず無数の蝿が羽を打ち鳴らすような不気味な残響が微かに聞こえてきていた。
(……魔王、ベルゼブブ)
あの黒く変貌したクロスタワーの頂に君臨していた圧倒的な存在。
七海が言っていた「絶対に勝てない」という言葉の意味は、肌で理解していた。
両面宿儺という巨大な悪意を体内に宿している自分だからこそ、あの異形が放つ気配の異常さが痛いほど分かる。
「……寝付けないのは、一緒か」
低い声が聞こえ、虎杖が顔を上げると、4階から上がって来たらしいカズヤとアツロウが歩み寄ってくるところだった。
「二人とも起こしちゃったか?」
「いや、俺たちもずっと浅い眠りしかできてないよ。あんな事があってぐっすり眠れるわけないだろ」
アツロウが自嘲気味に苦笑しながら、手にしたCOMPの画面を軽くタップする。
青白い液晶の光が、朝方の薄闇の中で彼らの顔をぼんやりと照らし出した。
「虎杖……俺たち同じ高校生だけどさ、お前ずっと戦ってきたんだろう?呪術師として。
こっちは東京が封鎖されて四日間ただ必死に生き抜いてきたんだ」
アツロウがふと、真面目な顔で尋ねた。
虎杖は自分の両拳をギュッと握りしめて自身の想いを吐露する。
「俺は、人を助けたいんだ。じいちゃんが死ぬ時に言ったんだよ。『大勢助けて、感謝されて死ね』ってさ。
俺にできることがあるなら、目の前で誰かが死にそうになってるなら、足を止めるわけにはいかねぇんだ」
その言葉には、一切の飾りのない真っ直ぐな純粋さが宿っていた。
呪術師としての義務でもなく、功名心でもない。ただ目の前の命を救いたいという、虎杖悠仁という人間の根源的な衝動。
カズヤは黙ってその拳を見つめ、静かに口を開いた。
「……僕たちも、似たようなものかもしれない」
「カズヤ……?」
「最初は、ただこの封鎖された東京から生きて出たかっただけなんだ。
普通のスマホが悪魔召喚プログラムによってCOMPとなって、訳も分からないまま悪魔と戦わされて……。だけど、仲間と一緒に戦っていくうちに分かったんだ。誰も死なせたくない。僕たちの手で、この不条理な世界から全員で生きて帰るんだって」
「仲間と共に生き残る……か。いいなそれ、すごく響くわ」
虎杖が口元を緩めると、アツロウがどこか重苦しい表情でCOMPの画面を見せた。
「……だけどさ、状況は悪いんだ。これを見てくれ」
画面に表示されていたのは、封鎖内にいる人間たちの頭上に浮かぶという『余命数値』のデータだった。
「この封鎖が始まってから、色んな悪魔使いや一般人の余命数値を見てきたけど……今のところ、一番長い数字でも『3』なんだ」
「『3』……ってことは、あと3日ってことか?」虎杖が首を傾げる。
「そうだ。つまり封鎖から一週間、七日目に何かが起こるってことだな。
ちなみに俺たちの数字は今『2』……送られてきたラプラスメールによると封鎖六日目に聖なる邪炎と対峙するらしい」
アツロウの声が、わずかに震えていた。
「7日目の次が存在しないんだ。封鎖初日からそれ以上の数字は、どこを探しても見つからない。……7日目に封鎖内全員の命が潰えるとラプラスの魔は言っている。
あのベルゼブブの顕現は、そのカウントダウンの始まりなんじゃないかって……嫌な予感がしてたまらないんだ」
重い静寂が、3人の間に落ちた。
7日目に訪れる、回避不能の終焉。
神話の災厄が降り立ったこの街で、刻一刻と迫るタイムリミット。
だが、虎杖は逃げ出すような顔はしなかった。むしろ、アツロウの肩をぽんと強く叩いた。
「大丈夫だろ。だって、俺たちがここにいる」
「……え?」
「お前ら悪魔使いも、俺たち呪術師も、こうやって諦めずに立ってんじゃんか。7日目に何が起きようが関係ねぇ。俺たちが全部叩き潰して、全員で生きてここを出る。……絶対に、誰も死なせない」
虎杖の屈託のない笑顔と、力強い言葉。
アツロウは一瞬目を見開き、やがて呆れたように笑いを漏らした。
「ハハ……強いな、お前。だけど……不思議と、いける気がしてくるよ」
「僕も同感だ虎杖。絶対に、みんなで生き残ろう」
カズヤが差し出した手に、虎杖が自分の手を重ねる。そこへアツロウも手を重ね、3人は互いに強い視線を交わした。
十代の少年たちが、理不尽な運命に対して固い絆の誓いを立てた、その瞬間――
「――ブラザーーーーーーッッ!!!!」
「「「うわああああっ!?」」」
突如として暗闇から響き渡った大絶叫とともに、巨体が突風のような勢いで躍り出てきた。
ボロボロと大粒の涙を流しながら東堂葵が、凄まじい速度で虎杖へと猛タックルをかます。
「東堂!? なんだお前、起きてたのかよ!?」
「見事だ……いいぞブラザーァァッ!
若き戦士たちが垣根を越え、魂の誓いを交わす美しい瞬間! この東堂葵、感動のあまり心が震えて止まらんッ!」
「重い重い重い! 抱きつくな暑苦しい!!」
東堂の丸太のような腕で締め上げられ、虎杖が目を白黒させて暴れる。
「フッ……君たちも良い顔をしているな。
俺達が生きている限り真に敗北する事は無い!」
「はははっ!」
カズヤはアツロウと思わず顔を見合わせ、笑い声をあげる。
先ほどまでの重苦しい絶望感は、東堂の嵐のような乱入によって綺麗に吹き飛ばされていた。
シャッターの隙間から、うっすらと青白い朝の光が差し込んでくる。
狂気と死に彩られた渋谷の街に、過酷な封鎖「五日目」の朝が訪れようとしていた。
渋谷の街を南北に分断する国道246号線。その南側に聳え立つ超高層ビル、セルリアンタワー。
その最上階、冷たい早朝の風が吹き抜ける高所から、一人の男が静かに下界を見下ろしていた。
ナオヤ――COMPという名の悪魔召喚アプリの開発者であり、悪魔を閉じ込めようとする東京封鎖を利用して惨劇の引き金を引いた張本人である。
その視線の先にあるのは、246号線を挟んだ対角線上――漆黒の異界へと変貌を遂げた「渋谷クロスタワー」だった。
有機的な触手のように蠢く巨大な外壁、天を突き刺す無数の柱、そしてその頂点に君臨する、黒い蝿の羽を広げた魔王ベルゼブブ。
漂ってくるマグネタイトの気配は、この高さにまで届き、大気を歪ませている。
「ククク……悪趣味な造形だな」
ナオヤは薄く不敵な笑みを浮かべ、腕を組んだ。
ベルの王位争いに積極的に関わってくるとも思えないが明日予定されているという大物による「東京見物」の影響だろう。
この段階でベルゼブブのような魔王が顕現するなど少々早すぎる展開ではあるが不利を被ることはない。
それは「呪術」と呼ばれる、この世界における異物が介入したことによる歪みも同じことだ。
最強と謳われる五条悟の封印、そして呪詛師、呪霊たちの乱入。街は狂気と混沌の極みに達しているがナオヤの瞳に、焦りや動揺の色は微塵もなかった。
「自衛隊を動かし、東京を物理的にも、結界でも丸ごと包み込む……表向きは『日本政府による危機管理』だが、裏で糸を引いているのは『奴ら』。どこまでも傲慢な『神』の使いどもめ」
ナオヤは冷徹に事態の本質を見抜いていた。
この「東京封鎖」という壮大な檻を創り出し、人間たちを閉じ込めた裏に存在する「天使」たちの思惑。そして、それに踊らされる政府の愚かさ。
神の作った理不尽な箱庭で、人間たちが悪魔に食い散らかされ、あるいは呪い殺されていく惨状。
だが、ナオヤにとってそれらはすべて、舞台の背景に過ぎなかった。
彼にとって、この世界で意味を持つ存在は、ただ一人しかいない。
「……さぁ見せてみろ、カズヤ」
ナオヤの脳裏に浮かぶのは、仲間達と共にクラブクアトロへと退避した従兄弟の姿だった。
この時代においては従兄弟。だが、その魂の深淵に刻まれているのは、太古の神話においてカインによって殺され、神の歪んだ愛に翻弄された弟――『アベル』。
(あの時……俺たちは神の不条理と言っていい気まぐれによって引き裂かれた。神の理由の無い理不尽によって、俺はお前を殺さざるを得なかったのだから……)
世界で最初の殺人を犯した――『カイン』の魂。遠い神話の記憶。
カインとアベルは、元より仲睦まじい兄弟だった。神という絶対的な支配者の道理に合わない介入がなければ……. 「さすらう者」として延々と魂の転生を繰り返すことなどなかったのだ。
だからこそ、ナオヤは神を許さない。
そして、弟であるアベルの再来たるカズヤが、このベルの王位争いを勝ち抜き、魔王の頂点に立つことを何よりも確信していた。
「どんな異物が混ざろうと、どんな悪魔が立ち塞がろうと関係ない。お前は勝ち残る……そして俺と共に、あの歪んだ神の首を刎ねるんだ」
朝靄の中、クロスタワーの影を見下ろしながら、ナオヤは心底愛おしそうに、そして獰猛に唇を吊り上げた。
時を同じくして、渋谷駅から少し離れた「代々木公園」。
朝の冷気が漂う樹木に囲まれた敷地内で、二つの影が佇んでいる。
一級呪術師・冥冥と、その弟である憂憂であった。
二人は、明治神宮前駅から渋谷駅へと向かい、進軍していた。しかし、日付けを跨いでベルゼブブ顕現に伴う異常な磁場の拡散と、街全体の異変を察知し、一旦後退してこの代々木公園で待機・静観を選んでいた。
「……おかしいね」
冥冥は、優雅に髪をかき上げながら、ポツリと呟いた。
その隣で、憂憂が申し訳なさそうに、小さく頭を下げている。
「ごめんなさい、姉様……僕の力不足です」
「いいんだよ、憂憂。君のせいじゃない」
冥冥の視線は、上空――東京全体を覆い尽くしている不可視の巨大な壁へと注がれていた。
憂憂の術式は、あらかじめ術式を刻んだ場所や人へ、一瞬で空間を飛び越えて移動することができる空間移動術式である。
本来であれば渋谷の混乱が危険域に達した時には憂憂の術式を使ってあらかじめ仕込んでおいた海外へ脱出をするつもりであった。
だが――それは不可能だった。
憂憂がどれほど術式を発動しようとしても、東京の境界線に張り巡らされた「結界」に遮られ、空間移動そのものが完全に無効化されてしまっている。
「僕の術式が……この東京の『外』へ繋がらない。まるで、空間そのものがこの封鎖線で切り取られて、別の世界に浮いているみたいです……」
「政府主導の自衛隊による物理的な封鎖、とアナウンスされていたけれど……これはどう見ても、呪術の領域すら超えているね」
冥冥の眉が、わずかにひそめられる。
五条悟という「絶対的な抑止力」という名のメガバンクが破綻した今、この案件の危険度は天井知らずに跳ね上がっていた。本来なら一刻も早くこの市場(東京)から撤退し、安全に利益を確定させるのが冥冥の鉄則である。
しかし、逃げ道である「憂憂の空間移動」すら封じられた。
それはつまり、この東京という閉ざされた檻の中で、事態が収束するか、あるいは全滅するかという二者択一を強制されていることを意味している。
(東京封鎖……どう考えてもこの状態は普通じゃない。……もっと根深い『何か』が裏にいるね)
数々の修羅場を潜り抜けてきた一級呪術師としての直感が、この状況の圧倒的な異質さを告げていた。
「姉様……これからどうしますか? 渋谷の中心部は、怪物によって完全に悪魔の巣窟と化しています」
「急いで突っ込む必要はないよ。タダで仕事をするのは、私の主義に反するからね」
冥冥はフッと笑みを浮かべると、黒鳥操術を発動させた。
明け方の空へ飛び立った数羽のカラスと視界を共有する。
カラスたちの目を通して、冥冥の視界に渋谷の情勢がリアルタイムで流れ込んでくる。
黒く変貌したクロスタワーの頂に座すベルゼブブの異様さが際立つ。
「出口が塞がれている以上、私たちはこの檻の『ルール』を見極める必要がある。……投資をするなら、一番リターンの大きいタイミングでね」
冥冥は代々木公園のベンチに腰を下ろし、冷ややかな瞳で朝靄の向こうを見つめる。
常軌を逸した結界に退路を断たれながらも落ち着いて機会を伺う冥冥。
封鎖「五日目」を迎えた渋谷でそれぞれの思惑を乗せて、東京封鎖の過酷な一日が、また始まろうとしていた。