昨夜、渋谷クロスタワーに君臨する魔王ベルゼブブの圧倒的な脅威に直面し、死線と絶望の淵を潜り抜けた少年たち。
虎杖、カズヤ、アツロウ、そして突如として乱入し暑苦しい熱量を振りまいた東堂の間で交わされた熱い誓いと笑い声は、静かに過酷な現実の音へと溶けていった。
「……ん。ふわぁ……朝、か」
フロアの奥、ソファや並べられたパイプ椅子で身体を休めていた面々が、ゆっくりと目を覚まし始める。
最初に身を起こしたのは釘崎野薔薇だった。重い瞼を開け、関節を確かめるように肩を大きく回す。
「おはよう、釘崎さん。体調はどうスか?」
ソファから起き上がった新田新が、声をかける。
「悪くないわ。こんな状況だから元気いっぱいってわけにはいかないけどね」
少し離れた場所では、休んでいた七海建人が静かに眼を開けていた。
腕時計に視線を落とす。文字盤の針は、ちょうど午前九時を指そうとしていた。
七海は少し乱れた髪を指で整え、いつもの冷静な表情を取り戻すと、立ち上がってスラックスの皺を払う。
「皆さん、目を覚ましましたか」
「七海さん! 大丈夫なんですか?もう少しゆっくりしていても……」
楽屋スペースから出てきたミドリが、心配そうに七海を見上げる。
彼女自身も連日の疲労と緊張感で消耗していたはずだったが、その瞳には昨日までの迷いはなく、自分の足で立ち、戦い抜こうとする確固たる意思が宿っていた。
「ええ、休めましたよ。見張り、ご苦労様でした」
早朝からの見張りを終えた四人が、七海たちの元へと歩み寄ってくる。
「おう! 見張りって言っても喋ってただけなんだけどな」
虎杖が屈託のない笑みを浮かべる。その隣では東堂が胸を張り、相変わらず力強い視線を放っていた。
「フッ、覚醒の時だな。みんな休息を経て、全員の牙が研ぎ澄まされたようだ!」
「朝から声が大きいわよ……頭に響く」
釘崎が眉を顰めて苦情を言うが、その表情にはどこか安堵の色が混じっていた。
カズヤとアツロウも、疲れを滲ませつつも柔らかな笑みを浮かべて仲間たちと合流する。
「……これで、全員揃ったね」
カズヤの言葉に、全員が深く頷く。極限状態の東京封鎖、そのただ中でこうして信頼できる仲間と朝を迎えられたことは、それだけで奇跡に近いことだった。
しかし――その穏やかな空気は、唐突に引き裂かれる。
――ピキーン、ピキーン。
不気味で硬い電子音が、COMPから響き渡った。
悪魔使いの端末であるCOMPに届く、その日の行動の指針になる未来を教えてくれる予言メール。
「……ラプラスメールだ」
カズヤとアツロウの顔から一瞬で余裕が消え去る。引き締まった緊張感が、クラブクアトロのフロアを一瞬で包み込んだ。
アツロウはCOMPの画面をタップして、青白い液晶の光を全員に見えるようにかざした。
朝の光が差し込む店内の中で、その人工的な発光が不気味に浮き上がっている。
「なるほど。毎日届いていたわけですか……確認しましょう」
七海の促しに応じ、アツロウが画面に表示されたテキストをゆっくりと、噛みしめるように読み上げた。
From: 時の観測者
subject: ラプラスメール
おはようございます。
本日のニュースをお伝えします
・血を吸われ、抜け殻となった死体が転がる街
・奪い合い、傷つけ合う悪魔使い同士の不毛な争い
・本日、東京各所にて群衆による暴動が激化
・聖なる邪炎を纏いし魔王ベルイアル(ベリアル)の胎動
メールを読み上げ終えたアツロウの声が途切れ、重苦しい静寂が室内を支配した。
誰もが液晶画面に刻まれた不吉な文字列を直視し、そこに込められた意図を反芻している。
「……ハッ、胸糞悪いポエムね」
静寂を破ったのは、釘崎の吐き捨てるような声だった。
「『血を吸われ、抜け殻となった死体』……なにこれ、吸血鬼でも出たって言いたいの? 悪魔の仕業か、それとも頭のおかしい呪霊の類?」
「ただの怪異ならまだいいけど……」
ミドリが不安そうに自分の腕を抱きしめた。
「二行目と三行目を見て。
『悪魔使い同士の不毛な争い』に『群衆による暴動』。……封鎖が始まって今日で五日目よ? 水も食料も少なくてみんな限界なの。いつパニックが起きてもおかしくない状態だった……それが、今日ついに爆発するってこと?」
ミドリの言葉は、その場にいる全員が薄々感じていた最悪のシナリオだった。
悪魔や呪霊という外敵だけでなく、極限状態に置かれた人間同士が欲望と恐怖のために争い始める。封鎖内の治安と秩序が完全に崩壊することを示唆していた。
「そして……最後の一行です」
七海の指摘を虎杖が引き継ぐ。
「さっき話していた『六日目に邪炎と対峙する』っていうのと、繋がっているわけか」
「『聖なる邪炎を纏いし魔王ベルイアルの胎動』……。昨日、我々が遭遇したベルゼブブに続き、新たな魔王の存在が明示されました」
「ベルイアル……ベリアルか」
カズヤがCOMPのデータベースを検索しながら呟く。
「『ゴエティア』によると、序列68番の強大な魔王。強力な火炎を操る。か……」
アツロウが歯噛みする。血を吸う殺人、悪魔使い同士の殺し合い、群衆の暴動、そして魔王ベリアル……。一気に危険要素が押し寄せてきやがった」
「おいおい、冗談じゃねえぞ!」
虎杖が頭をかきむしりながら声を張り上げた。
「ただでさえ飯も余裕ねぇし、外は呪霊に変な悪魔だらけだってのに、人間同士で喧嘩して暴動だぁ? おまけに今度は火を噴く魔王かよ! 盛り込みすぎだろ!」
「ふむ……だが見方を変えれば、これは極めて親切な『挑戦状』とも言える」
東堂が腕を組み、不敵な笑みを口元に浮かべた。その言葉に虎杖が「は?」と首を傾げる。
「この『時の観測者』とやらは、これから我々の前に立ちはだかる困難の目録を事前に提示してくれているのだ。未知の脅威に怯える必要はない。現れた敵を、片っ端から我々の絆と力で粉砕すれば済む話だ!」
「東堂さんの言う通りだ」
カズヤが強く頷き、虎杖の顔を見つめる。
「ラプラスメールは確かに『未来』を予言してくる。でも、僕たちはこれまで何度も、その予言された最悪の未来を自分たちの行動で書き換えてきた。今回だって、絶対に阻止できるはずだ」
「カズヤ……。ああ、そうだったな!」
アツロウが力強く笑い返し、COMPを固く握りしめた。
「予言された惨劇は、俺たちが立ち向かうべき標的だ。絶対に指をくわえて見てなんかいないぞ!」
二人の強い意志に、呪術師側の面々も頼もしそうな視線を送る。
しかし、七海だけは冷静な面持ちのまま、顎に手を当てて思考を巡らせていた。
「気持ちは分かりますし、希望を持つことは重要です。……ですが、現実的な問題として、提示されたリスクがあまりにも多岐にわたっています。それと……昨日のベルゼブブについては何も触れられていませんね」
七海は全員を見渡し、指を一本ずつ立てながら論理的に状況を整理し始める。
「第一に『群衆の暴動と悪魔使いの抗争』。
これは封鎖内の治安の破綻を意味し、我々の移動や情報収集に大きな支障をきたします。
第二に『吸血事件』。単なる都市伝説や悪魔の奇行で済めば良いですが、放置すれば被害が拡大するでしょう。
そして第三に『魔王ベリアル』。これがカズヤくん達にとっての最大の脅威であることは疑いようがありません」
「つまり……同時にいろいろなことが起きすぎて、全員でぞろぞろと動いてちゃ対応しきれないってこと?」
釘崎が意図を察して尋ねる。
「その通りです」と七海は深く頷いた。
「我々の戦力は充実してきましたが、それでも限度がある。
情報が不足している現状では、むやみやたらに街へ飛び出すのは悪手です。まずは情報を集め、優先順位をつけなければなりません」
「情報、か……」
カズヤが呟く。
「ダイモンズの縄張りへ見回りに行ったカイドーが戻れば、外の正確な状況が分かるかもしれない……合流するって別れる前に言ってたし」
午前九時。
クラブクアトロの暗いフロアに、重々しくも緊張感に満ちた時間が流れる。
ラプラスメールの「時の観測者」が提示した東京封鎖「五日目」の予言――狂気に彩られた惨劇の未来を前に、少年たちは自分たちが果たすべき役割と、これから踏み出すべき一歩を模索していた。