原宿の路地に残されていた焦げ臭い硝煙と、踏みにじられた生活用品の散乱する惨状を抜け、カズヤたち五人は代々木公園通りから公園の敷地へと足を踏み入れる。
原宿門の前に立った瞬間、一同の肌を撫でたのは、それまでに至る街が放っていた不快な空気感や血の匂いとは明らかに異なる一筋の風だった。
「……うわ、なにこれ。急に風が変わった?」
釘崎野薔薇が足を止め、自分の顔にかかる髪を整えながら驚きを目に浮かべる。
それまで鼻腔を刺していたプラスチックの焦げる匂いや、路地裏の溝から立ち上る腐敗臭が、境界線を一本踏み越えた途端に消え去っていた。代わりに漂ってきたのは、生い茂る樹木が吐き出す濃密な葉の匂いと、冷ややかな土の気配だ。
頭上を見上げれば、どんよりと濁った灰色の空の下、広大な公園を覆う巨木たちの枝葉が、静かな音を立てて風に揺れている。
渋谷や原宿の街並みが、人間の理性が剥ぎ取られていく地獄絵図と化していたのに対し、目の前に広がる代々木公園は、まるで東京の狂気から切り離された別世界のような静寂を保っていた。
「すっげえ……落ち着いた雰囲気だ。ここホントに封鎖された東京の中なのか?」
虎杖悠仁が目を丸くし、原宿門から伺える広大な敷地を見回した。
「油断するなよ、虎杖」
カイドーが鉄パイプを肩に担ぎ直し、鋭い視線で公園の奥を見つめる。
「静かだからって安全とは限らねえ。……だが、街中みたいに悪魔どもが蜂の巣をつついたみたいに湧いて出てこねえのは確かだ」
「ああ、カイドーの言う通りだ」
アツロウがCOMPの画面を見ながら、信じられないといった様子でいる。
画面には公園を中心としたマップが展開されていたが、その色彩は先ほどまで通過してきた原宿エリアとは劇的に異なっていた。
「すごいなこれ……。原宿や渋谷のマップは、どこも悪魔の反応や過激化した人間のマグネタイトで真っ赤に染まってただろ? でも、この代々木公園の敷地内に入った途端、レーダーの赤い点が一気に消えた。まるで公園の境界線に目に見えない壁があって、凶暴な悪魔たちが中に立ち入れないで弾かれてるみたいだ」
「目に見えない壁……結界みたいなものか?」
カズヤが尋ねる。
「科学的な結界ってよりは、強力な磁場というか『神聖なエリア』特有の拒絶反応だな」
アツロウはCOMPの数値を分析しながら説明を続けた。
「COMPのプログラムが悪魔の干渉を感知する数値が、ここでは極端に下がってる。だからといって悪魔召喚アプリが使えないわけじゃないけどな」
「ふん、悪魔のバケモノ共が嫌がる場所ってわけね。居心地が良くて結構じゃない」
釘崎はそう言いつつも、その瞳には依然として警戒の色は消えない。
呪術師として、あまりにも異様な「静けさ」は、時に強大な呪術や結界が展開されている前兆でもあると知っているからだ。
「だが、人間の方はとんでもない数が押し寄せてるぞ」
カイドーが指さした先、パノラマ広場や桜の園へと続く広い歩道の木陰には、無数のビニールシートや簡易テント、ダンボールの家がどこまでも立ち並んでいた。
食料や水を求めて生き残るために彷徨っていた人々にとって、悪魔が寄り付かないこの代々木公園は、まさに東京封鎖内における「希望」であり「安全地帯」だったのだ。
身を寄せ合う家族連れ、疲れ果てて木の根元で座り込んでいるサラリーマン、COMPを握りしめながら周囲を伺う悪魔使いたち――多様な人間たちが、この広い緑の地に文字通り縋りついていた。
「人が……こんなに集まってたのか」
カズヤは広場を埋め尽くす避難民たちの姿を見つめ、ため息をついた。
これほどまでの群衆が、一つの公園に集中している。水や食料の供給、治安の維持、そして人間同士の感情の衝突――ここで一度トラブルが起これば、その混乱は街の比ではないだろう。
「街中で命からがら逃げてきた連中が、ここに避難してるんだな」
虎杖が少し表情を和らげ、避難民たちの様子を気遣うように眺める。
「良かった……少なくとも、ここなら呪霊や悪魔にいきなり襲われて死ぬ心配は低そうだし」
「甘いわね、虎杖」
釘崎が厳しい声で虎杖の甘さを指摘する。
「これだけの人間が一箇所に固まってるのよ? 食料だって限られてるはずだし、何かのきっかけで追い詰められた人間が何をしでかすか分かったもんじゃないわ。
それに――私たちが追ってる『マリさん』も、この広い公園のどこかにいる可能性が高いでしょ」
「そうだな」
カズヤが頷き、全員に向かって言った。
「まずは落ち着いて情報を集めよう。
マリ先生の足取り、そしてこの公園がどういう状態なのかを調べる必要がある」
「よし、それじゃあ広いし二手に分かれて探索を開始しようぜ」
アツロウがCOMPの画面に公園の地図を表示させ、ピンを二箇所に打ち込んだ。
広大すぎる代々木公園の敷地。
緑の木々が覆い尽くすその美しい「聖域」の影で、一行は二つのルートに分かれて足を踏み出す事を決めるのだった。
「それじゃあ、俺たち(カズヤ、アツロウ、カイドー)は公園の中心部――中央広場やケツァルコアトル像、震災対策用の給水施設、噴水池の周辺をあたってみる」
アツロウがピンを打ち込んだ画面を指差しながら告げると、カイドーが鉄パイプを肩に担ぎ直して応答する。
「おう、そこら辺は人が溜まってるはずだ。
聞き込みをするならうってつけだが……気をつけて進むぞ。人が多けりゃ、それだけ腐った奴も混ざってやがる」
「分かった。俺と釘崎は、パノラマ広場や野外ステージの方から左回りに公園を巡ってみるよ。
中央広場北のかまどベンチ辺りで落ち合おうぜ!」
虎杖と釘崎が頷き、二人はパノラマ広場方面へと足早に走り去っていった。
残されたカズヤ、アツロウ、カイドーの三人は、緑の樹木が立ち並ぶメインストリートを抜け、園内の中心部へと向かって歩を進める。
歩きながら、アツロウがCOMPの画面から目を離さずに隣を歩くカイドーへ視線を向けた。
「さっき『代々木公園は特殊な状態だ』って言ってたけど、ケツァルコアトルの伝承なんてよく知ってたな」
「あぁ?」
カイドーが不機嫌そうに反応する。
「……図書館だよ。時間がある時に本を引っ張り出して読んでおいたんだ。
封鎖が始まって街の構造やら悪魔に関係しそうな資料をな。
ダイモンズのヘッドとして、縄張り周辺の地理や避難場所の候補を頭に入れておくのは当然だろ」
カズヤは意外そうな、それでいて納得したような表情でカイドーを見た。
粗暴に見えて、カイドーは仲間の生存や縄張りの維持に関して極めて綿密で現実的な観察眼を持っている。
「へぇ……カイドーが図書館で勉強ねぇ。イメージに無いけど、さすがだな」
「うるせぇよアツロウ。余計な口叩いてねぇで足動かせ」
悪態をつくカイドーだったが、すぐに表情を引き締め、オリーブ広場を通り抜け前方に見えてきたケツァルコアトルの像を顎でしゃくった。
「話の続きだ。さっきも言ったが、あのケツァルコアトル像はメキシコ政府から東京に寄贈された代物だ。
神話や伝承におけるケツァルコアトルって神様がどういう存在か、お前ら知ってるか?」
「アステカ神話の神だろ?」
カズヤが応える。
「人間寄りの良い神様ってイメージかな」
「そうだ」
カイドーが頷く。
「一番重要なのは、あいつが『人身御供を嫌った神』だってことだ。
アステカの他の神……例えばテスカトリポカなんかは、人間の生贄を求めた。だがケツァルコアトルはそれを拒否し、やめさせた。
要するに、無駄な殺戮や人の血を求めるなんて行為を忌み嫌う神なんだ」
「なるほど……」
アツロウが感心したように頷く。
「だから、この代々木公園には凶暴な悪魔や、人を無差別に害しようとする悪意が立ち入りにくいのか。
封鎖以降、東京中のGP(ゲートパワー)が上昇したことで、その像が触媒になって神の性質そのものが公園全体に『結界』として展開された……ってわけか」
「そういうことだ」
カイドーの目が鋭くなる。
「ここが『聖域』と呼ばれる理由がそこにある。……だがな、世の中そう都合よく神様が守ってくれるわけじゃねえ」
三人が給水活動スペースに足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
震災対策用応急給水施設の大掛かりな蛇口が設置されており、そこから途切れることなく清涼な水が噴き出している。
給水施設の前には整然と長蛇の列が作られており、ポリタンクやペットボトルを持った避難民たちが大人しく順番を待っていた。
「水には困らない……か。渋谷や原宿じゃ、店や自販機の飲み物を奪い合って血みどろの喧嘩が起きてたってのにな」
アツロウが安堵の息を漏らす。
しかし、カズヤの観察眼は、その穏やかな表面の下に潜む「歪み」を見逃さなかった。
列に並ぶ人々は、確かに水を手に入れて命を繋いでいる。だが、その瞳には一切の生気がなく、虚ろな光が宿っていた。
誰一人として互いに会話を交わさず、ただ機械的に足を前に出すだけ。少しでも誰かの肩が触れ合えば、ビクリと体を強張らせ、互いに殺気立った視線を交わす。
「……静かすぎる」
カズヤが低く呟く。
「水があって、悪魔が来ない安全な場所なのに……みんな、心が擦り切れてる」
「当然だ」
カイドーが冷ややかに言い放つ。
「水はあっても食料は無限じゃねえ。
いつまでこの封鎖が続くのかも分からない。おまけに、ここには一般人だけじゃなく、COMPを持った『悪魔使い』も大量に流れ込んできてる」
カイドーの視線の先――公園の隅、ベンチやテントの周りには、COMPを持った怪しげな人間たちがいる。
彼らは、一般の避難民を見下すような視線を向け、時には手持ちのCOMPをチラつかせて無言の威圧をかけている。
「悪魔使いたちは、自分が生き残るために一般人の物資を巻き上げたい。だが、このケツァルコアトルの影響下で露骨な暴力や殺人を犯せば神の威、反動か何かで自分たちの身に何が起こるか分からない……だから今は互いに牽制し合い、ギリギリのところで理性を保ってるフリをしてるだけだ」
「理性の摩耗……」
アツロウがCOMPのパラメータ画面を表示させ、思わず言葉を詰まらせた。
「……本当だ。COMPの精神波・マグネタイト測定値が、ヤバい反応を示してる。
悪魔の波形じゃない。ここにいる多くの人間たちの『絶望』『恐怖』『猜疑心』といった負の感情が、マグネタイトの歪みとなって不気味に渦巻いてるんだ。まるで、爆発寸前の圧力がかかってるみたいに……」
「神の力による結界があるからって、人間の心まで清らかになるわけじゃねえからな」
カイドーは苦々しく吐き捨てる。
三人は聞き込みを開始するため、給水施設近くのベンチで怯えるように身を小さくしていた中年男性と、幼い少女を抱えた母親に声をかけた。
「すみません、少し話を聞かせてください」
カズヤが意識して穏やかなトーンで話しかける。
男性は弾かれたように跳び起き、恐怖に引きつった顔でカズヤたちのCOMPを見た。
「ひっ……あ、悪魔使いか!? な、何も持ってないぞ! 食料も、昨日食べちまった!
水ならあそこで汲めるだろ、頼むからあっちへ行ってくれ!」
「落ち着いてください。俺たちは人を探しているんです。物を奪いに来たんじゃない」
カズヤは手を挙げて敵意がないことを示し、スマートフォンの画面に映した望月麻里の写真を見せた。
「この女性を探しています。学校の教師で、名前は望月麻里。この近くで見かけませんでしたか?」
男性は激しく鼓動する胸を押さえながら、おそるおそる写真を見つめた。
「女の……先生? い、いや……見てない。
ここでは毎日、多くの人間が行き交ってるんだ。誰が誰かなんて覚えてられないよ」
「そうですか……突然驚かせてすみませんでした」
カズヤがその場を去ろうとすると、隣にいた親子連れが、怯えた声でポツリと口を開いた。
「……あ、あの……」
母親は抱きしめた子供の頭を撫でながら、震える指先でフラワーランドや公園の北側にあるサイクリングコースへと続く木々の奥を指さした。
「その人……合ってるか分からないけど向こうの方向で歩いているのを見かけました……」
「本当ですか!?」
アツロウが身を乗り出す。
「一人でしたか? 誰かと一緒でしたか!?」
「ひ、一人だったと思います。でも、すごく思いつめたような顔をしていて……何かを追っているようでした。
手帳のようなものを握りしめて、何度も足元を見ながら……」
「足元を……」
カズヤの脳裏に、裏原宿のコンクリートに残されていた「引きずられた痕跡」が蘇る。
「マリ先生は、やっぱりあの痕跡を追って代々木公園に入ったんだ……!」
「教えてくれてありがとう」
カズヤが優しく礼を言うと、母親は不安そうに顔を曇らせた。
「あの……お兄さんたち、気を付けてくださいね。この公園、最近おかしいんです……」
「おかしい?」
カイドーが眉をひそめる。
「はい……。夜になると、ここから西の方……丘の広場辺りの雑木林から、変な音が聞こえるんです。
冷たい風と一緒に、腐った血みたいな嫌な匂いが漂ってきて……。
ここで一緒に避難していた人たちが、何人か行方不明になっているみたいなんです。
みんな『悪魔が出ないから安全だ』って言っていたのに……」
「行方不明!?」
三人が思わず顔を見合わせる。
ケツァルコアトルの神威によって、凶暴な悪魔は弾かれているはずだ。それなのに、人が消えている。
「悪魔使いの外道が裏で引きずり込んで殺してるのか、それとも……」
カイドーが凶悪な笑みを浮かべ、鉄パイプをぎゅっと握り締めた。
「結界の隙間を突いて、別の『ナニカ』が潜り込んでやがるのか……」
「血の匂い、そして行方不明者……原宿で検出された冷たく湿った反応と、一致する」
アツロウの顔から血の気が引いていく。
「マリ先生が、その『ナニカ』がいる危険なエリアへ進んでいったら危ない!」
カズヤは深く息を吐き出し、胸の内で焦燥感を抑え込みながらCOMPのマップを再確認した。
ケツァルコアトル像が与える「安息」。
水が満ち、悪魔が来ない聖域でありながら、極限状態に置かれた人間たちの理性が摩耗し、マグネタイトの歪みが結界に綻びを生み出している……。そしてその綻びから、血を吸う邪悪な影が静かに公園を侵食し始めていた。
「アツロウ、虎杖たちの位置は分かるか?」
「ああ、COMPのローカルマップで簡易的な位置共有はできてる。
虎杖たちは、パノラマ広場から南のイベント野外ステージ付近へ移動してるみたいだ……おそらく予定通り左回りでこちらに向かって来るだろうな。
クソッ、COMPのメールやメッセージは一日の終わりにまとめて同期される仕様だし、というか虎杖も釘崎もスマホはあってもCOMPは無いから今すぐ『危険だ』って知らせることができない……直接会って伝えるしかないぞ!」
「急ごう。入れ違いにならないように俺たちはマリ先生を見かけたっていう北の方から右回りで追いつこう!」
カズヤは二人に力強く告げた。
「マリ先生が追っている相手は、ただの悪魔じゃないかもしれない。これ以上、手遅れになる前に合流して見つけ出すんだ!」
三人は避難民たちの悲痛な視線と、暴徒と化した悪魔使いたちの陰湿な視線を背に受けながら、フラワーランド、サイクリングコース方面へと足音を響かせて駆け出していった。