カズヤたちと別れた虎杖悠仁と釘崎野薔薇は、案内図に従って園内を右回りに巡るべく、南側の「パノラマ広場」から「バラの園」、そして歩道橋を渡った先にある「野外ステージ」周辺へと足を進めていた。
頭上を覆う木々たちの葉がそよ風に揺れ、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。
都会の喧騒や、原宿で目にした凄惨な光景が嘘のように静まり返った空間だ。
「……にしてもさ、釘崎」
虎杖が頭の後ろで両手を組みながら、どこか呑気な声を漏らした。
「なんか不思議な感じだな。代々木公園でこうやってぶらつくのって」
「こんな時に何言ってんのよ」
釘崎が呆れ気味で返す。
「ひでぇ! 呪術高専も自然はいっぱいあるけどなんかここは違うんだよなー
まぁ伏黒なら『遊んでる暇があったら足動かせ』とか言ってきそうだけどな」
「目に浮かぶようね。で、アンタが『へいへい』って適当に流して、私が『もっとシャキッとしなさいよ!』って上からキレるパターン」
「ギャハハ、目に浮かぶわ!」
二人は顔を見合わせてケラケラと笑い合った。
命をかけた「渋谷」の戦いがあり、さらには悪魔が入り混じる異常事態。それでも、呪術高専東京校の同期として過ごしてきた二人の空気感は、極限状態の中にあっても揺らぐことはなかった。
互いに軽口を叩き合うことで、無意識のうちに互いの緊張をほぐし、正気を保ち合っているのだ。
「……でもさ」
虎杖が不意に笑みを収め、視線を前方の木陰へと向けた。
パノラマ広場から野外ステージにかけての物陰にも、カズヤたちが向かった中央広場ほどではないものの、避難民たちの簡易テントやビニールシートが点々と立ち並んでいた。
人々は身を寄せ合い、息を潜めるようにして過ごしている。
「伏黒の奴……今は何してんだろうな。昨日の夜別行動してから会ってないんだよ」
「……あいつの心配より、まず自分の心配しなさいよ」
釘崎は短く言い放ったが、その声にはいつもの強さはなく、どこか静かな気遣いが籠もっていた。
「伏黒なら、どうせどこかで生真面目に索敵でもしてるわよ。
あいつ、案外タフだし大丈夫でしょ。
五条先生だって……封印されたってあの人が簡単にどうにかなるわけないじゃない。
今は私たちができることをやるの。……まずは、ここをちゃっちゃと探索するわよ」
「おう、そうだな!」
虎杖は力強く頷くと、集まる避難民たちに意識を向けた。
二人はベンチに腰掛ける老夫婦や、小さな子供をあやす父親などに声をかけ、先程教えてもらった望月麻里の特徴を伝えて情報がないか尋ねて回った。しかし、この場に避難している人々からは、「そんな人は見ていない」「ここは人が多すぎて全員の顔なんて覚えていない」という答えしか返ってこなかった。
「うーん、こっちには来てないのかな……」
虎杖が首を捻りながら歩を進めている、その時だった。
「……ん?」
虎杖の足がピタリと止まる。
「どうしたのよ、急に立ち止まって」
釘崎が不審そうに虎杖の顔を覗き込む。
虎杖の表情からいつもの軽快さが消え、呪術師としての鋭い眼光がその瞳に宿っていた。
「……釘崎。なんか変なんだ」
「変って何がよ?」
「呪力とはちょっと違うかもしれないけど……なんか『見覚えのある感じ』がする」
虎杖は鼻をひくつかせるようにし、代々木公園の奥――丘の広場方面にある深い雑木林から漂ってくる微かな気配に意識を集中させた。
「見覚えのある気配? 原宿にいた時から言ってたやつ? 」
「ああ。もっと……こう、ドロッとしてて、冷たくて、湿っぽいやつだ。
昨日の混乱の最中か……どこかですれ違ったことがあるような……」
虎杖は記憶の引き出しを必死に引っ張り出そうと眉間にシワを寄せた。
昨日、自分は数多くの呪詛師や呪霊、そして未知の存在と遭遇してきた。その膨大な記憶の断片の中に今、公園の奥から漂ってくる「嫌な気配」の正体が眠っているはずなのだ。
「……思い出せねえ。でも、絶対にろくでもない奴の気配だ。しかも、この代々木公園全体を包んでる清々しい空気の陰に隠れて、コソコソと蠢いてやがる」
「チッ……やっぱり『聖域』なんて言っても、裏で何か良からぬことが起きてるってワケね」
釘崎は武器である金槌と釘の感触を確かめ、口元を不敵に歪めた。
「『中央広場北のかまどベンチで落ち合おう』って言ってたわね。
私達の予定ルートに近いから調査してから合流するわよ!」
「そうだな……全員揃ってフルボッコにしてやろうぜ!」
「強面のカイドーは突進しそうだけどね。私達が援護してあげましょ」
釘崎は腕を捲り上げると、予定ルートを走り出した。
「おーい、待てよ釘崎! 置いてくなよー」
虎杖もその後を追いかけ、二人は代々木公園の南側を駆け抜けていく。
不気味な存在の微かな残滓、そして追いかけている「望月麻里」の足取り。
バラバラに見えた糸が、公園の深い緑の奥で、一本の線となって繋がりつつあった。
中央広場から西へ向かって緩やかな坂を登っていくと、そこには公園の賑わいや避難民の狂騒から離れた「丘の広場」が広がっていた。
緑豊かな芝生が広がり、整然と並ぶ高い木々が陽光を遮るこの場所は、過剰な人の熱気が届かない静寂に包まれている。
人間が集まる場所特有の喧騒は、ここでは木々の揺れる爽やかな風の音にかき消されていた。
「……ここ、ずいぶんと落ち着いた雰囲気だな」
虎杖が思わず胸の空気を吐き出し、周りを見回す。
「ここまで通って来た場所とは違う感じで、人もまばらだし余計なイライラがなくていいわ」
釘崎がリラックスしながら頷いた、その時だった。
広場の一箇所、大きなケヤキの木陰に置かれたベンチで優雅に脚を組み、手に持った巨大な大斧を芝生に立てかけている一人の女性の姿が目に入った。その傍らには少年が、従順な態度で控えている。
白色の長髪を三つ編みにして前に垂らした、存在感を放つ女性。
「冥さん!? 」
虎杖の目が限界まで見開かれた。
「あら、虎杖君。それに釘崎さんかい」
冥冥がゆっくりと顔を上げ、細められた瞳に艶やかな笑みを浮かべる。
「二人とも無事だったのですね」
憂憂が冥冥の前へ一歩進み出て、誇らしげに二人を迎え入れた。
「冥さん! 憂憂! こんなところで何してんです?ともかく、無事で良かった!」
虎杖はパッと表情を明るくさせ、一気に距離を詰める。
明治神宮前駅で二手に分かれるまで行動を共にしていた仲間なので無事の再会は、ホッと胸を撫で下ろすものだった。
「ふふ、虎杖君とは明治神宮前駅の地下以来だね」
冥冥は斧の柄を手で撫でながら、喉の奥でくすくすと笑った。
「私はあの後、特級呪霊を倒して渋谷へと向かっていたんだが……異変を感じてね。
明治神宮前駅に戻り代々木公園に退避したってわけさ。例の『東京封鎖』で出れないしね」
憂憂が視線を虎杖に向け、姉を絶賛する。
「姉様の卓越したリスク管理は称賛に値します。ハイ!パチパチパチー」
「はいはい、相変わらずねぇ」
釘崎が呆れ顔で言うと、憂憂はムッと口を結んだ。
「で……状況の共有といこうか」
冥冥の瞳からふっと笑みが消え、一級呪術師としての底知れない冷徹な光が宿った。
「虎杖君、君と別れた後の混乱……そして現状についてだ」
「ああ。……冥さんは、どこまで知ってるんだ?」
「五条くんが封印されたってところまでは一緒だったね。
あれから夏油くんの偽者と会敵して、特級呪霊を差し向けられてから倒したら相手をすると言われたんだが……あちらも想定外が起こったようだ」
冥冥の言葉に、釘崎が小さく息を呑む。
夏油傑の偽者……それは自分たちの知らない情報であった。
「あの『最強』が封印され、挙句に敵の手で持ち去られたとなれば、呪術界の均衡は完全に崩壊だ」
冥冥は淡々と語る。
「さらに問題は、この東京封鎖に呪力とは異なる気配を纏った『化け物』だよ」
「……『悪魔』だ」
虎杖が表情を引き締め、語り始める。
「五条先生が封印された後、渋谷の街は呪霊たちで地獄絵図になった。だけど東京には封鎖の影響で悪魔の存在と悪魔召喚アプリで悪魔を使役する悪魔使いがいたんだ。
すでに封鎖内は混乱状態だったのに、さらにめちゃくちゃになっちまった……」
「COMPかい?」
「ああ。俺たちは今、カイドー、カズヤ、アツロウっていう悪魔使いと一緒に動いてる。
あいつらは呪術師じゃないけど、COMPを使って悪魔を召喚して、この封鎖を解除する方法を探してるんだ。……さっきまで一緒だったんだけど、この代々木公園に『望月麻里』っていう先生を探しに来て、二手に分かれて探索中ってわけ。
渋谷に現れた化け物は『ベルゼブブ』っていう魔王らしい。あのプレッシャーは呪力じゃなくてマグネタイトっていうらしいぜ」
「なるほどね」
冥冥は納得したように顎を引いた。
「呪力とは異なるエネルギー……それが『マグネタイト』と呼ばれるものだね。
実はね、虎杖君。君たちが公園内を動き回っている間、私はずっと『これ』で園内を観察していたんだよ」
冥冥が指を鳴らすと、頭上の大木の枝から、一羽の漆黒のカラスが滑空し、冥冥の肩へと静かに舞い降りる。
「私の術式――『黒鳥操術』さ。
カラスたちの視界を共有し、この代々木公園全体を監視していた」
「カラスで公園全体を……」
「ええ。この代々木公園は、呪霊や悪魔の侵入が抑えられてるようで避難民が集まり、表面上は穏やかだ。……だがね、空からの視界は誤魔化せないよ」
冥冥は肩のカラスの頭を優しく撫でながら、冷ややかな声で続けた。
「水はあっても食料はなく、いつ終わるとも知れない封鎖に怯える人間たちの『絶望』と『猜疑心』。そしてCOMPを手に入れた力ある悪魔使いたちの増長。それらの負の感情が、この何らかの結界に目に見えない『綻び』を作っている。
……そして、その綻びを目ざとく見つけ、外から忍び込んだ『何か』がいる」
「忍び込んだ!?」
虎杖が身を乗り出して聞く。
「そうさ。黒鳥の視界を通じて見えたよ。
ここの『丘の広場』から見える――あそこに広がる深い雑木林の暗がりにね」
冥冥が斧の刃先で指し示したのは、鬱蒼と木々が立ち込み、日光すら届かない不気味な雑木林の深部だった。
「あそこへ引きずり込まれた人間がいるみたい。
冷たく湿った惨劇の匂いが、カラスの視界越しにでも伝わってくるほどだよ」
「……っ! 俺が原宿の時から感じてた『見覚えのある嫌な気配』……それと、原宿の路上に残されてた血の引きずり痕!」
虎杖の拳にぎゅっと力がこもる。
「マリさんも……その引きずり痕を追ってるんだ! 放置したら、他の公園の人達も危ない!」
「そういうことさ」
冥冥は静かに頷いた。
「行方不明者、結界を蝕む異物……放置しておくにはリスクが大きいね」
「冥さん、一緒に行ってくれるか!?」
虎杖が期待を込めて尋ねる。
しかし、冥冥はふっと艶やかな笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいや。私はこの『丘の広場』に残るよ」
「えっ……なんでだよ!?」
「虎杖君、戦場において全体を俯瞰する『目』を失うことほど愚かなことはないよ」
冥冥は空を見上げた。頭上では、何羽ものカラスが円を描いて静かに旋回している。
「私はここで黒鳥操術を維持して、公園全体の監視を続ける。
カラスの視界を通じて、君たちの進む雑木林の状況、そして公園の北側にいる君達の仲間の動向をリアルタイムで見させてもらう。
何か大きな動きがあれば、上空からカラスを通じて合図を送るか、憂憂を向かわせる」
「姉様の仰る通りです」
憂憂が同調する。
「姉様の視界と采配こそが、この混乱下における最大の武器。
現場の露払いは、お二人で十分でしょう」
「けっ、相変わらず偉そうね」
釘崎が、ふんと鼻を鳴らしたが、その表情には納得の色があった。
「まあいいわ。バックアップがあるなら心強いじゃないの。……カズヤたちと合流する手筈は分かってるし、あいつらも私達が遅ければこっちの方に向かって来るはずだしね」
「そうだな!」
虎杖が力強く頷き、雑木林の方へと視線を向けた。
「よし……釘崎、俺たちで先に雑木林を調査しよう!
マリさんがまだ無事なら、一刻も早く助け出さなきゃならねえ!」
「言われなくても! バケモンだか何だか知らないけど、私の釘で蜂の巣にしてやるわ!」
二人は気合を入れ直すと、冥冥と憂憂に短く手を振り、丘の広場から程近い暗い雑木林の入口へと向かって足早に駆け出していった。
残された丘の広場で、風が静かに冥冥の白髪を揺らす。
「……虎杖君も良い顔をするようになった」
冥冥はカラスの視界に映る二人の背中、そして公園北側で動いている悪魔使い達の反応を脳内で重ね合わせながら呟く。
「五条悟という巨大な庇護者を失い、異界の法則に呑み込まれたこの東京で、彼らがどう抗い、どう生きるのか……。
ふふふ、呪術総監部からの報酬以上に見返りの大きそうな『投資先』じゃないか」
「姉様、あのような悪魔を使う者達にそこまでの価値が?」
「あるとも、憂憂。混沌の時代にこそ、規格外の芽は大きく育つものさ」
冥冥は優雅に腰を下ろして、カラスたちの視界を研ぎ澄ませた。
薄暗い雑木林の奥で蠢く「冷たく湿った邪悪な影」――そして、そこへ向かって異なる道からひた走る若い少年たち。
代々木公園という偽りの聖域で、惨劇と再会の糸が、静かに絡み合っていた。