丘の広場から足を踏み入れた雑木林の中は、昼間だというのに巨大な木々が密生して日光を遮り、まるで夜の闇がそのまま澱んで残っているかのような薄い暗闇に包まれていた。
鳥の囀りすら途絶え、足元でカサリと音を立てる落ち葉の感触だけが、ここが東京の只中であることをかろうじて教えてくれる。
地面からは、原宿の路上で感じたものに近い――冷たく湿り気のある、血の嫌な臭いがうっすらと漂っていた。
「……いたぞ、あそこだ!」
虎杖が息を呑み、前方の大きなケヤキの木の根元を指さした。
鬱蒼とした木陰の中に、ぽつんと佇む一人の女性の姿がある。
白衣姿で手元には一冊の小さな手帳を握りしめている。聞いていた情報と一致している。望月麻里だろう。
彼女は足元に残された目に見えない「惨劇の痕跡」を追うように、何度も地面に視線を落としながら、暗い雑木林の奥へと足を進めようとしていた。
「望月麻里さん!」
虎杖と釘崎は落ち葉を蹴り立てて走り寄り、彼女の前に立ちふさがった。
「なっ!? あなたたちは……?」
望月麻里は弾かれたように距離を取り、警戒と困惑の入り混じった眼光で二人を見つめた。急に目の前に現れた少年と少女。その衣服は少々擦り切れ、戦いの匂いを纏っている。
「よかった、無事だったんですね! あなたを探して追ってきたんです」
虎杖が安堵の息を漏らしながら声をかけると、マリは眉をひそめて首を横に振った。
「私を探して……? どうしてあなたたちのような子供がこんな危険な場所に……。ここはダメよ、早く戻りなさい! 」
「戻るのはアンタのほうよ、お姉さん」
釘崎が腰に手をつき呆れたように、マリを見据えた。
「カイドーやカズヤ、アツロウたちから聞いてんのよ。アンタが一人で危険な事件の犯人を追ってるってね。
原宿のコンクリートに残ってた血の引きずり痕……あの痕跡を追ってここまで来たんでしょ?」
「あの子たちから?」
マリの瞳に動揺が走る。だが、次の瞬間にはその瞳の奥に、悲壮感に満ちた強い拒絶の光が宿った。
「だとしても……引き返すわけにはいかないわ。
私には、やらなきゃいけないことがあるの。
あの人を……私の大切な人を無惨に殺した、犯人を……人を襲い、血を吸い尽くす凶悪な存在――邪鬼『クドラク』を、私がこの手で倒さなきゃならないのよ!」
マリの声は激しく震えていた。
その手に持つ手帳には、亡くなった恋人との思い出や、彼を奪った怪物の情報が痛々しいほど詰まっているのだろう。
「はぁ!? 何言ってんのよアンタ!」
釘崎が我慢ならないと言わんばかりに声を張り上げる。
「一般市民が何無茶言ってんのよ! 相手は人を引きずり込んで殺すようなバケモノなんでしょ? 呪術師でも悪魔使いでもない普通の人間が、一人で挑んで勝てる相手だと思ってんの!?」
「そう……いろいろと知ってるみたいね。でも私の事は知らないでしょう?」
マリも譲らずに言い返す。
「分かってるわ。私が、ただの人間だってことくらい! でも、私には協力してくれる存在がいる……私の意思に共鳴してくれたクルースニクさんよ!」
マリの言葉と共に、彼女の背後の空間が歪み、純白の眩い光が暗い雑木林を照らし出した。
冷たく湿っていた空気が一変し、清廉で神聖な気が満ち溢れる。
光の中から静かに姿を現したのは、真っ白な装束を纏い、威風堂々とした体躯を誇る異形の存在だった。その手に携えられているのは、眩い光を放つ特殊な『杭』と、研ぎ澄まされた一振りの剣。
神聖にして圧倒的な威圧感――ただの悪魔とは一線を画すその存在感に、虎杖も釘崎も思わず息を呑んで身構えた。
「私に……力を貸してくれているの。邪悪なクドラクを討ち果たすために!」
マリの背後から浮かび上がるように立ち、静かな眼光を放つその存在を、虎杖は目を丸くして見上げた。
「悪魔!? いや、でも……今まで見てきた奴らとは全然違うぞ。なんか、すげえ清らかな感じがする……邪悪さを感じない」
「ええ……禍々しさが微塵もないわ。これが『悪魔』なわけ?
それにCOMPを使っていなかったような……」
釘崎も眉をひそめ、金槌を握る手からわずかに力を抜いた。
二人が戸惑っていると、その白い装束の悪魔は深みのある重厚な声を響かせ、静かに二人に向かって言葉を紡ぐ。
「若き戦士たちよ、警戒を解くがよい。
我はマリ殿の力となり、目的を共に歩む者である」
悪魔の言葉に、虎杖は頭をかきながらマリと悪魔の顔を交互に見比べる。
「いや、力になっているんだろうなってのは見れば分かるんだけどさ……マリさん。一人で直接戦わなきゃいけないのか?
そのすごい悪魔が手伝ってくれるんなら、俺達や、後から来る仲間と協力したっていいだろ?
カイドーは身内みたいなもんだろうしアツロウだって先生って言って心配してたぜ」
虎杖の至極真っ当な疑問。悪魔や異界の存在に関する細かい知識を持たない虎杖と釘崎からすれば分からない事だらけであった。
それに応えたのは、マリではなく、彼女の後ろに浮かび上がる白い悪魔自身である。
「……無理もない。我が名は『クルースニク』。
呪いの力を持つ戦士たちよ、我が宿命と我が討つべき『クドラク』について語ろう」
クルースニクは手に携えた光を帯びた杭を静かに持ち上げ、二人に向かって示しながら朗々と語り始めた。
「我はスラブに伝わる吸血鬼ハンター幻魔クルースニク。
生まれながらに白き羊膜に包まれてこの世に生を受け、森の妖精ヴィラより魔術を学びし者。
我らは人や家畜の傷を癒す術を持ち、生命の庇護者として存在する。……だが、我が存在の根底にある至上命題はただ一つ。闇より生まれし悪しき吸血鬼『クドラク』を滅ぼすことにある」
「吸血鬼……ハンター」
釘崎がその言葉を噛み締めるように呟く。
「然り。クドラクと我らは、光と影、表と裏の存在。
宿命によって互いに戦うことを義務付けられた永遠の宿敵なのだ。……そして何より重要なのは、あのクドラクという邪鬼の持つ『呪われし特性』にある」
クルースニクの眼光が、鋭く研ぎ澄まされる。
「クドラクは、我の持つこの『光の杭』と、我と契約せし者の力によって滅ぼさぬ限り……たとえいかなる強力な攻撃や、他の者が持つ術によって息の根を止めたとしても、死を逃れてより強力な怪物となり、何度でも蘇ってしまうのだ」
「なっ!? 倒したら、もっと強くなって復活するってことか!?」
虎杖は思わず大声を上げた。
「左様。他の者が手を貸し、クドラクを討ち倒せば……かえって奴に新たな力を与え、より深き惨劇を招くことになる。ゆえに、クドラクに正しく引導を渡し、永遠の眠りにつかせる為には、我と契約せしマリ殿の手でトドメを刺さねばならぬのだ。これが、我らがここに立つ理由であり、宿命なのだよ」
「そんな……じゃあ、他の人間が倒しちゃ絶対にダメってことなのね」
釘崎が不満そうに歯噛みする。
クルースニクという悪魔の存在感は圧倒的だ。
強靭な肉体は通常の物理攻撃に対する耐性を備え、破魔の力を無効化する護りを持つ。
手にした剣による技を主体としながらも、邪悪を滅する光の力をも放つその格は、悪魔の中でも高い領域に達していた。
それほどの強力な存在が憑依・協力しているとはいえ、マリ自身は普通の人間なのだ。
一瞬の油断が命取りになる戦場で、彼女を一人で戦わせることの危険さは計り知れない。
虎杖は、うーんと唸りながら頭を抱えていたが、やがて顔を上げると、まっすぐな瞳でマリとクルースニクを見つめた。
「……よし、分かった!」
「……?」
マリが首を傾げる。
「クドラクの最後のトドメを刺すのが、マリさんとクルースニクじゃなきゃダメだってんなら、そこは絶対に譲るよ。
俺たちはクドラクのトドメには手を出さねえ!」
虎杖は自分の胸をドンと力強く叩いた。
「だけどさ! マリさんを一人で戦わせるわけにはいかない!
クドラクがどれだけ強いか知らないけど、周りに取り巻きの雑魚がいたり、マリさんが狙われたりしたら危ねえだろ?」
「……でも、あなたたちまで巻き込むわけには……」
「巻き込むもクソもないわよ!」
釘崎が割って入り、武器の金槌を威勢よく掲げて見せた。
「言ったでしょ! 私たちは仲間と約束してんの!
この代々木公園には、カイドーやカズヤとアツロウも来ている。みんな貴女の知り合いでしょ?
あいつらも直にこっちに向かって来るわ!」
「あの子たちが私を追いかけて……」
マリの瞳に不意に温かい光が宿り、表情も穏やかになる。
「そうよ」
釘崎は不敵に口元を上げた。
「あいつらが到着して合流するまでの間、アンタの戦いは私たちが全力でフォローしてあげる!
雑魚の露払いや、貴女を守るガードなら、私達にだって十分できるんだから!
トドメはアンタとクルースニクで刺しなさい!」
「二人とも……」
一切の迷いのない言葉と、まっすぐな温かさに触れ、マリの強張っていた肩の力がふっと抜けた。
復讐の執念と孤独な恐怖に押し潰されそうになっていた彼女の心に確かな希望の灯がともる。
「ありがとう、二人とも……」
マリが静かに感謝を口にすると、背後に浮かび上がるクルースニクが首を縦に振った。
「見事な覚悟だ、戦士たちよ。お主達の申し出、ありがたく受け入れよう」
クルースニクが光の杭を構え直し、雑木林のさらに深い暗がりへと視線を向ける。
「我が宿敵クドラクは、この雑木林の最も深き場所に潜み、血に飢えている。
……共に向かい、陣を構えるとしよう」
「おう! 任せとけ!」
虎杖が拳を握り締め、釘崎も不敵な笑みを浮かべて頷いた。
遠く上空では、冥冥の放った一羽のカラスが静かに旋回し、雑木林の中に固まる四人の姿をその瞳に映している。
死の気配が満ちる雑木林の深部へ向かって、虎杖悠仁、釘崎野薔薇、望月麻里、そしてクルースニクの四人は、足音を忍ばせながら歩みを進めていった。