雑木林の深部へ進むにつれ、空気の温度は急激に下がり、肌を刺すような冷気が立ち込め始めている。
足元を覆う枯れ葉の湿り気は増し、鼻をつくのは腐肉と固まりかけた血の混ざり合った強烈な死臭。そこは昼間の日光など一切届かない、漆黒の闇と怨念が澱む異形の処刑場であった。
広場の中心、一本の枯れ果てた大木の根元。そこに「それ」はいた。
闇よりも深い漆黒の身体に、鋭く伸びた鉤爪。落ち窪んだ眼の奥で赤く不気味に明滅する眼光。口元からは、血の雫が滴り落ちている。
邪鬼『クドラク』。
その周囲には、不気味な羽音を立てている異形の蛾『モスマン』、下半身が馬の姿をした異形の悪魔『オロバス』、そして幾つもの人間の生首が蠢き合わさった醜悪な異形『レギオン』が、死肉の匂いに群がるように身を潜めていた。
「ヒヒ……ヒヒヒヒッ! 臭うぞぉ、臭うなぁ! 逃げ惑うニンゲンどもの絶望の匂いと、甘く熟した血の匂いだァ!」
クドラクが粘つきのある声を響かせ、鉤爪を鳴らす。そして、虎杖たちの背後――マリの全身から放たれる清廉な純白の光を捉えた瞬間、その赤黒い瞳が歓喜と憎悪で大きく見開かれた。
「ハハハハッ! ニンゲン引き連れてどうしたんだァァ、クルースニクゥゥゥ!!」
クドラクの咆哮が雑木林を激しく揺らす。その声には、幾年も繰り返されてきた宿敵への歪んだ執着が渦巻いていた。
「このオレ様がやられると思うかぁぁ?
ニンゲンを食い殺した時と同じようにその白衣の女も、血を吸い尽くして干からびさせてやるぞぉッ!」
「黙れ、クドラクめ!!」
マリの口から出たのは、彼女自身の声ではなく、重厚で厳かなクルースニクの声だった。
マリの身体は白い光の粒子に包まれ、その背後には光の杭と一振りの剣を携えたクルースニクの幻影が重なるように脈動している。
悪魔召喚アプリによる実体化ではなく、望月麻里という人間の肉体と精神に同化・憑依した状態――それが、この現世においてクルースニクが全力を振るうための唯一無二の姿であった。
「我が宿敵クドラクよ。お前の悪行もここまでだ!
幾度、闇より這い出ようとも、我が光がお前を永久の眠りへと追いやる」
「ハッ! 眠るだとォ!? 眠るわけがなかろうがァ!」
クドラクは狂ったように高笑いしながら、地を蹴って身を乗り出した。
「オレ達は光と影! お前が存在する限り、オレ様もまた闇より生まれ出る!
その女の細い首を食いちぎり、血を飲み干した後に、お前をじっくりと引き裂いてやるわぁッ!」
「ならば……私がお前を葬って見せよう。
覚悟しろクドラク!」
マリの身体を借りたクルースニクが、手にした剣を構え光の杭が眩く輝く。
永遠の宿敵同士による因縁の対峙。
雑木林の最深部は、一触即発の極限状態へと達している。
「死ねぇぇぇ、クルースニクゥゥッ!!」
クドラクの咆哮とともに、圧倒的な波状攻撃が繰り出された。
クドラクが影のように蠢く黒い両腕を掲げると、その周囲に立ち込める死の匂いと怨念が、ドス黒い波紋となって狂暴に渦巻き始める。
「――『マハムドオン』ッ!!」
空間そのものが腐食するかのような、濃密な呪殺の圧力が薄暗い雑木林を押し潰す。それは呪術師たちの扱う「呪力」とは根本から異なっていた。
呪霊が撒き散らす呪いの類いではなく、この世界の理(ことわり)そのものを歪め、触れた生命の概念をダイレクトに「死」へと書き換える絶対的な死の呪法。
「な……ッ!?」
後ろに控えていた釘崎が、その凄まじい波紋を感じ取った瞬間、全身の毛髪が逆立つような悪寒に襲われた。
「なにアレ!? 呪力じゃない……呪術の術式とも全然違う!? なのに……触れたら一瞬で命ごと削り取られそうな『死』の気配……!」
「ダメだ釘崎、近づくなッ!!」
虎杖が叫び、釘崎の肩を掴んで咄嗟に大きく跳び退いた。
二人が先ほどまで立っていた地面の枯れ葉や樹皮が、黒い波動に触れた瞬間に細かい砂の灰すら残さず、真っ黒く壊死するように腐敗し消滅していく。
呪力を防壁として纏うような通常の防御策すら無効化しかねない、致命的な魔力の脅威。
「ハハハハッ! 怯えろ、絶望しろニンゲンどもォ!」
しかし、その死の波動の渦中へ、一切の躊躇なく突き進む白き光があった。
「その程度の闇で、我が光を遮ることはできん!」
マリの肉体に宿るクルースニクが、刃を閃かせて死の波紋を真正面から切り裂き、白い粒子を撒き散らしながら一気にクドラクの懐へと肉薄する。
「『ブレイブザッパー』ッ!!」
閃光のごとき一閃。
白き剣先が空間を物理的に切り裂き、鋭い斬撃がクドラクの胸元を深く切り裂いた。
漆黒の肉体から黒い血が飛び散る。
「ガァァッ!? ぬううっ、生意気なァッ!」
クドラクも黙ってはいない。血を吐き出しながらも即座に牙を剥き、凍てつく冷気の嵐を巻き起こす。
「凍えちまいな!『氷の乱舞』ッ!!」
無数の鋭利な氷柱が突風とともに噴出し、クルースニク――そしてマリの身体へと容赦なく襲いかかる。
氷柱が打ち付けられ、マリの白衣がズタズタに引き裂かれ、肌に痛々しい裂傷が刻まれる。だが、クルースニクの持つ強靭な『物理耐性』と『氷結耐性』が、致命的な破壊を食い止めていた。
「くっ……この程度!」
クルースニクは血を流しながらも踏み込み、左手に抱いた光の杭を構え直すと、聖なる光をその刃に凝縮させた。
「砕けよ、邪悪の躯――『白龍撃』ッ!!」
光の龍を模した神聖な衝撃波が、クドラクの至近距離で爆発する。
破魔の光と物理的な破壊力が同時に襲いかかり、クドラクの体が枯れ木を何本もなぎ倒しながら後方へと激しく吹き飛んだ。
「グアァァァッ! 痛ぇ、痛ぇぞぉぉクルースニクゥゥ!」
地を転がりながらも、クドラクは立ち上がる。
高位悪魔同士という互いに極限に達した力と肉体。傷を負えば負うほど、その邪悪な生命力は狂暴さを増し、両悪魔の激突はまさに同レベル帯の拮抗した死闘を呈していた。
「あいつら……スゲえ!」
虎杖は息を呑み、息の詰まるような攻防を見つめていた。
両者の放つ一撃一撃が、周囲の空間を歪めるほどの威力を秘めている。
互いに物理耐性を持ち、破魔と呪殺という相反する属性の極致をぶつけ合う戦い。そこに軽々しく足を踏み入れれば、二人の激闘の余波だけで肉体が吹き飛びかねない。
「間合いを詰めるのは危険よ! 今の私達じゃ邪魔になっちゃうわ。
それにクドラクの魔法……威力がヤバい!」
「ああ……分かってる! だけど、周りの奴らを野放しにはできねえ!」
クドラクとクルースニクが互いに間合いを測り直し、再び激突しようとしたその瞬間、周囲に潜んでいた悪魔たちが、血の匂いに誘われ狂ったように動き出した。
「キシャァァァッ!」
不気味な羽音を爆音のように響かせ、空中の『モスマン』が急降下してくる。
同時に、下半身が馬の『オロバス』が炎を纏った蹄で地を蹴り、幾つもの生首が蠢く『レギオン』が、マリとクルースニクの死角へ向かって地を這うように肉薄する。
「マリさんの背後は渡さねえよッ!!」
虎杖が地面を爆発させるような踏み込みを見せて先陣を切って飛び出した。
渋谷事変という地獄、そしてあの真人との死闘を経て、虎杖悠仁の打撃は次元の違う領域へと昇華されようとしていた。
呪力と肉体の調和。一度解き放てば空間すら歪める『黒閃』の感触が、今もその拳の奥底に鮮明に刻み込まれている。
「ハッ!!」
鋭く踏み込んだ虎杖の拳が、肉薄してきた『オロバス』の馬の顔面に正確に叩き込まれる。
ボンッ!! と重低音が響き渡り、呪力を凝縮させた直撃を受け、オロバスの巨体が真横の木々がもぎ取られるように吹き飛んでいく。
「舐めるんじゃないわよ、バケモノ!」
後方から、釘崎の鋭い声が飛ぶ。
彼女は間合いを保ちながら、釘を取り出し金槌を使ってそれを飛ばしていく。
「そこを動くなッ! 」
シュッ、シュッと空を裂く音を立てて放たれた数本の釘が、空中から襲いかかろうとしていた『モスマン』の巨大な羽と胴体に深々と突き刺さる。
「芻霊呪法――『簪(かんざし)』!!」
釘崎は、釘が刺さったモスマンに呪力を流し込み破壊する。
ガンッ! という打撃音とともに、モスマンの体内に打ち込まれた釘から巨大な呪力の黒い針が爆発的に噴出し、その不気味な体を内側から木端微塵に粉砕した。
「キエェェェッ!?」
空中から散る虫の残骸。しかし、地面からはさらに不気味な呻き声をあげながら、『レギオン』の生首群が地を這い、マリの元へと迫る。
「させねえって言ったろ!」
虎杖が瞬時に身を翻して、レギオンの生首の群れへと着地。
呪力を乗せた強烈な蹴り足が不気味な頭部の群れを次々と蹴り飛ばしていく。
「虎杖、右! 炎が来るわ!」
オロバスが倒れ際、口から放った『アギダイン』の火柱が虎杖を襲うが、虎杖は超人的な反応速度でそれを寸前で回避。そのまま地を滑るように距離を詰め、オロバスの頭部へ追い討ちの膝蹴りを叩き込んだ。
「よし……! 雑魚どもは俺たちで引きはがす!」
虎杖は拳を構え、呼吸を整える。
身体能力を生かした接近戦で敵の意識を引きつけ、遠距離からは釘崎の刺しこむ釘から流れる呪力が敵を破壊する。
呪術師二人の息の合った連携により、周囲の取り巻き悪魔たちは着実にその数を減らしていく。
だが――前線で繰り広げられる戦いのプレッシャーは、依然として周囲の空気を重く押し潰していた。
「ヒヒヒッ! 雑魚などどうでもいいわ!」
クドラクが血を流しながら狂ったように笑い、その黒い瞳を激闘の渦中にいるマリの肉体へと向けた。
「クルースニクよぉ! お前がどれほど強かろうが、その肉体はただの脆いニンゲンなんだよなぁ!!」
「くっ……!」
クドラクの狙いが自分ではなく、契約者であるマリの生身の肉体そのものに向けられていることを悟り、クルースニクの眼光に緊張が走る。
レベル60を誇る悪魔による互角の激闘。
一瞬の隙が命取りとなる極限状態の中、クドラクの狡猾な爪が、さらなる惨劇を引き起こそうとしていた。