「ヒヒ……ヒヒヒヒッ! 痛ぇなぁ、胸が抉れるほど痛ぇぞクルースニクぅ! だがなぁ……お前、自分の足元を忘れてんじゃねぇのかァ!?」
大地を転がりながらも、地表に爪を深く突き立てて立ち上がったクドラクの口元が、歪に吊り上がる。
漆黒の肉体から黒い血を滴らせながら、その全身から吐き出される殺気は衰えるどころか、より一層の狂気と陰湿さを増していた。
「……何を企んでいる、クドラク!」
クルースニクが剣を握り直し、警戒を強くする。だが、クドラクの狙いは正面突破による純粋な打ち合いではなかった。
「クルースニクよぉ! お前がどれほど強かろうが、その肉体はただの脆いニンゲンなんだよなぁ!!」
クドラクの体から発せられたドス黒い瘴気が、雑木林の地表を一瞬にして這い回る。
その黒い波紋に紛れ、クドラクの黒い腕が蠢いた。
「凍えて固まっちまいな!『氷の乱舞』ッ!!」
突風とともに、無数の鋭利な氷柱が豪雨のごとく噴出する。しかし、その狙いは正面のクルースニクだけではない。
砕け散る氷柱の死角を作り出しながら、クドラクは氷結の嵐の影へとその躯を滑り込ませた。
「なっ……姿が見えない!?」
「気をつけろ、奴の狙いは――!」
クルースニクの警告が響き渡るのと同時に、死角となった背後から、凍てつく風を切り裂いて黒い影が跳び出してくる。
クドラクが狙ったのは、クルースニクの意識の隙間から覗く、望月麻里という「生身の肉体」そのものだった。
「ハハハァ! お前がどれだけ硬かろうが、その足元の『器』はどうだァ! 壊れちまえば終わりだろぉがッ!!」
いくらクルースニクが耐性を持った高位の悪魔であろうと、その憑依を受けているマリ自身は、何ら特別な戦闘訓練を積んでいないただの女性に過ぎない。
氷結の激突による振動とショックで、一瞬だけマリの意識が揺らぎかけた――その致命的な隙を、狡猾な吸血鬼は見逃さなかった。
死の気配を纏わせた、クドラクの鋭利な爪が襲いかかる。
「『虚空爪撃』!!」
「しまっ――!?」
クドラクの鉤爪が、マリの無防備な首筋から胸元を容赦なく切り裂こうと迫る。
「死ねぇぇ! まずはお前から血を吸い尽くしてやるぞ白衣の女ぁぁッ!!」
「マリさんッ!!」
破擦音とともに、横合いから一つの影が飛び出す。
「させるかぁぁぁッ!!」
それは虎杖悠仁だった。
超人的な身体能力で大地を爆破するように蹴り飛ばし、鋭い反応速度で乱入してきた虎杖が、絶体絶命のタイミングでマリとクドラクの間に自らの肉体を割り込ませる。
ガシャァァンッ!!
歪んだ音を響かせてクドラクの鋭利な鉤爪が、虎杖の交差させた両腕に突き刺さった。
呪力を両腕に集中させてガードを固めた虎杖だったが、高位悪魔の凶暴な膂力による攻撃は容赦なく虎杖の皮膚を切り裂き、鮮血が周囲の草むらに舞い散る。
「ガっ……く、そっ! 硬ぇな、オイ……ッ! それに……この爪、嫌な感じが……」
「ヒヒッ!? クソガキが割り込んできやがったなぁ! 邪魔だァッ!」
クドラクは狂暴な叫びを上げると、刺さった鉤爪にさらに力を込め、虎杖の肉体ごとマリをまとめて叩き潰そうと腕を振り抜く。
「虎杖!!」
間髪入れずに割り込んだのは釘崎だった。
「『芻霊呪法』――簪!!」
釘崎は腕の傷から血を流しながら耐える虎杖の背後へと滑り込み、取り出した大量の釘を、クドラクの伸び切った腕へと呪力を帯びた状態で突き立てる。
「吹き飛べッ!!」
ガンッ! と金槌を振り下ろし、至近距離から呪力を一気に爆発させた。
腕の関節部分で弾けた呪力の衝撃に、クドラクが一瞬だけ体勢を崩す。その隙を見逃さず、虎杖は両腕の激痛を無視してマリの腰を抱え込み、大きく後方へと跳び退いてクドラクの間合いから離脱した。
「ハァ……ハァ……大丈夫か!」
「あぁ虎杖君……腕が! 」
マリの瞳が動揺で大きく揺れる。
虎杖の抱えてくれた腕からは、毒を含んだ痛々しい赤黒い血がダラダラと垂れ落ち、白衣の裾を濡らしていた。
生身の人間を守るために、虎杖は躊躇なく自らの肉体を楯にしたのだ。
「これくらい、平気だ……俺は呪術師だから人を助けるための戦いは慣れてる!」
虎杖が前方を鋭く睨みつける。
散らばった氷の欠片が溶けゆく中、クドラクの体がゆらりと揺れていた。
「ヒヒ……ヒヒヒッ! 戦いの最中に庇うのか、美しいねぇ……! だがなぁ、ニンゲン!
お前たちのその温かい血……実に美味そうだなぁッ!」
クドラクの落ち窪んだ瞳に、さらなる狂暴な血の飢えが灯る。
虎杖たちがマリを守る位置に固まったことで、クドラクは明確な付け入る隙を見出していた。正面突破でクルースニクを倒す必要などない。守りに入った呪術師たちを執拗に狙い続ければ、クルースニクは防戦一方にならざるを得ないのだ。
「卑劣な……! どこまでも浅ましい邪鬼め!」
マリに憑依するクルースニクの声に、激しい憤怒が混じる。しかし、傷ついた虎杖と釘崎、そして消耗し始めているマリの身体に憑依している状態では、先程のように躊躇なく前に打って出ることはできない。
「ハハハッ! どうしたクルースニクゥ! 攻めてこないのかぁ!? ならばこちらから噛み千切ってやるぜぇぇッ!!」
闇の瘴気と怨念を乱舞させ、クドラクが再び前傾姿勢をとる。
防戦一方に追い込まれた四人。
雑木林の最深部に、圧倒的な絶望の影が押し寄せていく。
「ハハハハハッ! 護るべき『重荷』を背負った気分はどうだ、クルースニクゥ!
お前の白き光も、ニンゲンを庇いながらじゃ濁って薄まるばかりだなぁッ!!」
クドラクの獰猛な嘲笑が、死の匂いが立ち込める雑木林に重く響き渡る。
地表を這うドス黒い瘴気がうねりを上げ、周囲の空間から光を奪うように濃度を増していく。
正面からクルースニクを破る必要などない――そう確信した邪鬼の攻勢は、苛烈さと狡猾さを極めていた。
「くっ……!」
クルースニクの白き刃が、目前に迫る黒い波紋を間一髪で弾き返す。だが、攻撃を受け止めるたび、その衝撃の余波が望月麻里の生身の肉体を苛む。
先ほど虎杖が庇ったとはいえ、クドラクの放った攻撃は、マリの身体に確実に蓄積していた。
意識の深層でクルースニクとリンクしているマリの呼吸は浅く荒くなり、膝がガクガクと震えている。
「大丈夫か、しっかりしろ!」
虎杖が声を張るが、麻里の視線は定まらない。
虎杖自身の両腕からも、赤黒い血が絶え間なく滴り落ちている。
両腕の皮膚は紫黒く腫れ上がり、呪力で無理やり毒の侵食を塞ぎ止めているものの、超人的な肉体を持つ彼でさえ痛みに顔を歪めていた。
「虎杖、アンタその腕……! 毒が回ってんじゃないの!?」
「平気だ……ッ! 呪力で抑え込めてる! それより釘崎、来るぞッ!!」
「ちっ……! チョロチョロと湧き出てきやがって!」
クドラクが放つ圧倒的な「死」の気配に呼応するように、周囲の暗闇から更なる配下の悪魔たちが這い出してきた。
空中を旋回するモスマンの不気味な羽音が大気を揺らし、地表からはレギオンが不気味な蠢動とともにじわじわと距離を詰めてくる。
クドラクという巨大な脅威を前にして、悪魔たちの数が致命的な死への誘いに変貌していく。
「ヒヒッ! 喰らい尽くせ! ニンゲンの肉も、器も、一片も残さず噛み千切って残飯すら残らないようにしてやれぇぇッ!!」
クドラクが黒い両腕を大きく広げると、配下の悪魔たちが一斉に襲いかかった。
空から降り注ぐ衝撃波、地を這う無数の生首、そして炎を纏って突進してくるオロバス。それらが四方を完全に包囲し、虎杖たちから退路を奪い去る。
「邪魔すんじゃないわよバケモノどもがッ!!」
釘崎が退路を確保すべく、金槌を振り抜く。
「『芻霊呪法』――『簪』ッ!!」
地を這うレギオンの群れに向かって打ち込まれた数本の釘が、一斉に黒い呪力の爆風を巻き起こす。
ドゴォォン! と重い炸裂音が響き、何十もの不気味な頭部が木端微塵に砕け散った。しかし、破壊された先から新たな悪魔が闇の奥から湧き出してくる。いくら一撃で倒せる相手であっても、数が多すぎた。何より、全神経を配下に割く余裕など、彼らには存在しないのだ。
「――『ムドオン』ッ!!」
爆風の隙間を突き、クドラクの放つ絶対的な呪殺の波紋が、虎杖と釘崎の足元をダイレクトに襲う。
「しまっ……!?」
「跳べッ、釘崎!!」
虎杖はマリを左腕一本で抱え直すと、右足の踏み込みだけで地面を崩壊させ、釘崎の襟首を掴んで真上へと跳躍した。その直後、二人が先ほどまで立っていた空間が、黒い力場によって根こそぎ腐食・消滅する。触れれば即死の呪法。
空中に逃れた虎杖たちだったが、空中こそが最も無防備な瞬間だった。
「ヒヒッ! 捉えたぞぉッ!!」
闇の中からクドラクの体が跳ね上がり、空中での旋回など不可能な虎杖たちに向かい、凍てつく冷気の嵐が襲いかかる。
「『氷の乱舞』で串刺しになるんだなァッ!!」
猛烈な突風とともに、巨大な氷柱が空中の三人を目がけて吹雪のように射出される。
逃げ場のない絶対の死域。
「させるものかァッ!!」
破裂音とともに一筋の白光が突き抜ける。
クルースニクだ。
マリの肉体を借りながらも、その神聖な執念は限界を超えていく。
白い粒子を爆発的に噴出させながら天飛ぶクルースニクは、光の刃を旋回させ、迫り来る氷柱の群れを真正面から粉砕していく。
「『ブレイブザッパー』ッ!!」
剣先から致命的なまでの威力を纏ったスキルが空中で弾け、巨大な氷柱群を悉く蒸発・破壊させる。
爆風の余波が広がり、虎杖たちは何とか着地を果たす。しかし、着地したクルースニク――マリの膝に疲労が見えた。
「くっ……」
唇の端から血が滴る。
高位悪魔の力を限界を超えて行使した反動、そして度重なる激闘による肉体の損傷。
マリの「人間」としての限界が、近づいていた。
「おい、しっかりしろ!!」
虎杖が駆け寄り、蹌踉めくマリの身体を支える。皮膚は蒼白し、呼吸は絶え絶えだった。
クルースニクの神聖なオーラすらも、今は翳って見えるようだ。
「ハハハハッ! 見ろ、悪魔の力にニンゲンが耐えられるわけがねぇんだよォ!」
クドラクも着地し、獰猛な笑みを浮かべながら悠然と歩みを進める。
周囲を取り囲む配下の悪魔たちも、数は減っているものの、血の匂いに歓喜の叫びを上げた。
「くそっどうすれば……」
釘崎が歯を食いしばり、残り少なくなった呪力を釘に纏わせ握り締める。
虎杖の両腕は毒と損傷で震えが見え、マリは疲労が濃い。
クルースニクの力をもってしても、守るべき対象が危機に瀕している現状では、本来の戦闘力を発揮できないでいた。
「終わりだクルースニク! お前の誇りも、希望も、全部オレ様の腹ん中に収めてやるぜぇぇッ!!」
クドラクがドス黒い闇を全身にみなぎらせ、最後の一撃を放つべく、漆黒の爪を高く掲げる。
絶望的な包囲網。一触即発の極限状態の中、雑木林の冷ややかな風だけが、痛々しい息遣いを弄ぶように吹き抜けていた。