十月三十一日。
世間がハロウィンと呼ぶ、その日の渋谷は仮装した若者たちの狂騒の代わりに、底知れない冷たい沈黙に支配されていた。
午前中から、渋谷駅周辺の空気は混濁を極めていた。
駅東口のシェルターに身を寄せた渡辺梨月は、膝の上で落ち着きなく耳を動かすネコマタを宥めながら、自身のCOMPを何度も確認していた。
【 0 】
赤い余命の数字は、非情にもゼロのまま点滅を続けている。ラプラスメールが告げた「十九時」というタイムリミットが、一分、一秒と近づいている。しかし、どれほど周囲を警戒しても、目に見える変化は何一つ起きていなかった。
「……梨月、やっぱり変だよ。お空が、すごく怒ってるみたいに重いの」
ネコマタが怯えたように身を縮める。
梨月がコンクリートの床から立ち上がり、駅ビルの隙間から上空を見上げると、逢魔が時を迎えた空は、血を薄めたような毒々しい紫色の雲に覆われていた。
山手線を囲う東京封鎖の光の壁は相変わらずそこにある。だが、その光さえも屈折させるような、異常な「歪み」が空間そのものに生じているようだった。
その異変に気づいているのは、梨月や悪魔たちだけではない。
「おい、ハチ公前広場の様子がおかしいぞ!」
見張りに立っていた『ダイモンズ』の構成員が、緊迫した声を上げた。駅の構内を緊張感が走る。
梨月は目立たないように壁際に身を潜めながら、広場が見えるガラス窓へと近づいた。
広場を埋め尽くす一般市民たちの頭上に、それは現れた。
天空の一点から、まるでどろりとした漆黒のインクを流し込んだかのように、闇の帳壁が静かに、しかし圧倒的な速度で降りてきたのだ。
光の壁とは異なる、それは物理的な夜を強制的に作り出す、底知れない闇の防壁だった。
「なんだ、あれは……!? COMPのバグか!?」
「いや、アプリには何のコードも表示されてねえ! 悪魔の結界じゃねえぞ!」
ダイモンズの男たちが端末を叩くが、彼らのCOMPは警告音を鳴らすばかりで、目の前の黒い壁を全く認識していない。彼らが培ってきた「悪魔召喚プログラム」という世界のルールが、完全に通用しない怪異。
漆黒の『帳』は、瞬く間に渋谷駅周辺を丸ごと包み込み、外界の光を完全に遮断した。
「出られない……? おい、嘘だろ、外に行けねえぞ!」
帳の境界線に触れた一般人が、見えないゴムの壁に弾かれたように転倒する。
パニックが伝染していく。しかし、高田馬場での圧死事故の時のように、悪魔が襲いかかってきているわけではなかった。ただ、閉じ込められたのだ。一般人だけが、この不気味な黒い檻の内側へ。
梨月は、自分の端末に視線を落とした。
ラプラスメールの予報。
『原因:呪術師、呪詛師、および特級呪霊の衝突による、不可避の霊的災害』
(悪魔じゃない……。悪魔使いでもない……。この世界には、私たちの知らない『もう一つの地獄』があるの……?)
そのときだった。
地鳴りのような足音が、地下街へ続く階段の奥から響いてきた。
「カイドーさんだ!」
「カイドーさんが来たぞ!」
構成員たちが一斉に道を拓く。
群衆の向こうから歩み出てきたのは、黒いレザージャケットを羽織り、周囲を圧倒するような狂暴なまでのカリスマを纏った男――ダイモンズのリーダー、カイドーだった。その鋭い眼光は、駅を包み込んだ黒い帳を見据えている。
彼の背後には、禍々しいオーラを放つ巨大な悪魔が影のように従っていた。
「チッ……、わけの分からねえ壁を作りやがって。どこのどいつの仕業だ?」
カイドーが不快そうに吐き捨てる。彼ほどの男であっても、この『帳』の正体までは掴めていないようだった。だが、彼の不遜な笑みが消えることはない。
「まあいい。悪魔だろうが何だろうが、俺たちの邪魔をするってんなら、力ずくでブチ破るだけだ。野郎ども、武器を構えろ!」
カイドーの檄に、ダイモンズの面々が気勢を上げる。
力による秩序。その象徴である彼らの存在は、確かに頼もしい。だが、梨月の胸の奥にある凍りつくような予感は、どうしても消えなかった。
余命は【 0 】のまま、激しく明滅している。それは、これから始まる何かが、カイドーの圧倒的な暴力や、自分たちの持つCOMPの力すら容易く踏み潰していくという、絶対的な死の宣告のようだった。
十九時。
日常を摩耗させてきた四日間の終わりを告げると同時に、東京封鎖という神の檻の内部に、最悪の劇薬――『渋谷事変』が投下された。