穏やかな秋の陽光が注ぐ代々木公園・丘の広場。
しかし、そこを吹き抜ける澄んだ風の中には、遠くの街並みから立ち上る焦げ臭い煙の匂いと、目に見えない異形の気配が重たく混ざり合っている。
「……さて」
冥冥が肩に担いだ斧の位置を軽々と直し、隣で亡き恋人の遺品を胸に抱くマリへと視線を向けた。
「自衛隊や天使、そして封鎖『7日目』というタイムリミットについての全体像は見えてきた。……だが、私たちが今立っているこの足元――つまり東京封鎖内の『現在(リアル)』がどうなっているか、そちらの詳しい現状も聞いておきたいね。
マリさん……貴女は単身、クドラクを追い封鎖内の各エリアを奔走していたんだろう?」
冥冥の問いかけを受け、全員の視線がマリへと集まる。
マリは抱えていた遺品をそっとポケットに収めると、スマホの画面を操作しながら、深く静かな息を吐き出した。その表情には、怨敵であったクドラクを討ち果した安堵の裏に、この数日間で彼女がその目で目撃してきた「人間たちの業」に対する深い痛みと哀しみが刻まれている。
「……ええ。私は恋人の仇である吸血鬼クドラクの足取りを追って東京各地、そしてこの代々木や渋谷の境界線付近まで悪魔出現の話や『吸血事件』の噂を頼りに、一人で見て回って来ました」
マリの声は静かだったが、丘の広場に集まった者達の空気を引き締めた。
「皆さんも感じていると思いますが……封鎖5日目を迎えた今、東京は悪魔や呪霊の脅威に加えて、『人間同士の狂気』によって完全に崩壊しかけています」
「人間同士の、狂気……」
虎杖が言葉を小さく反芻する。
マリは悲しげに瞳を伏せながら首を縦に振った。
「封鎖が始まった当初は、まだ救助を信じたり、警察や行政の指示を待とうとする理性が残っていました。ですが、封鎖が3日、4日と長引き、食料や飲み水の心配が出始めたことで、街の空気は一変します。
今や、まともな流通もインフラもストップしていますからね」
「……そこからスーパーやコンビニの略奪ってわけか」
カイドーが苛立ちを紛らわすように煙草を深く吸い込み、紫煙を吐き出した。
マリは深く頷いて話しを続ける。
「そうね。食料や水を巡る奪い合いは、すでに単純なケンカや盗みではありません。
悪魔召喚アプリを手に入れて悪魔を召喚できるようになった人間――所謂『悪魔使い』と呼ばれる者達が、力を持たない一般市民から容赦なく物資を奪い取っています。
断った人間が悪魔の牙によって容赦なく噛み殺される光景が東京の現実です。
力こそが全ての無法地帯となっています」
「……最悪ね」
釘崎が不快そうに腕を組み、金槌の柄を指で強く叩きながら口を出す。
「呪霊に脅かされるだけでも反吐が出るのに、守られるべき側の人間が、手に入れた力で弱者を踏み躙ってんの? 救いようがないわ」
「ですが……その無法地帯の中でも、異彩を放ち、凄惨な状況に陥っているのが『池袋』です」
マリの口から「池袋」という名前が出た瞬間、カズヤとアツロウの表情がぴくりと強張る。
「池袋……! マリ先生、池袋はどうなってるんだ?
あそこにはケイスケが行っているはずなんだ!
いろいろあって別行動になっちまったが友達なんだよ……」
アツロウが思わず前に乗り出す。マリは悲痛な面持ちでアツロウを見つめ答えた。
「……私も彼の姿を見かけました。ですが、今の池袋は彼が振るっている『裁き』によって、異様な恐怖に支配されています」
「裁き?ケイスケが、あの時に呼び出した悪魔か……」
カズヤが息をのむ。
マリはスマホの画面を操作し、池袋周辺の地図と、記録した映像を表示した。
「池袋では、物資の略奪や暴行を働く悪魔使いや暴徒が蔓延していました。そこへ現れたケイスケくんは『魔神ヤマ』という強力な悪魔と共に、暴徒たちを次々と力でねじ伏せていったのです」
「ヤマ……所謂閻魔大王のことか」
「はい。ケイスケくんはヤマの力を背景に、池袋に集まる人間たちを片っ端から『裁判』にかけています。
犯罪を犯した者はもちろん、暴徒に脅されて従わざるを得なかった者に至るまで……ヤマによる法に照らし合わせ、あらゆる罪人を容赦なく裁いているのです」
「なっ!?」
虎杖が目を見開いて絶句した。
「弁解の機会はあれど、亡者の生前の行いを明らかにする地獄の裁判官らしく嘘を吐いた者の舌をひっこ抜き、光によって一瞬で消滅させられたり炎によって焼き払われたりするそうです……。
池袋のサンシャインシティには、裁きを受けた人間たちの凄惨な死体が転がっています。
今や池袋の人々は、悪魔や呪霊だけでなく、いつ『悪人』と判定されて殺されるか分からない恐怖に怯えながら大人しくしています。
弱い立場の人々からは支持され、一定の秩序を保っているのでケイスケくんが悪いとも言い切れないのです」
「そんな……ケイスケがそんなことをしてるなんて!
あいつは、根は真面目だし正義感が強くて……虐められてる奴を放っておけないような奴だったんだぞ!?
やっぱミドリちゃんが助けた人間に攻撃された場面を見たからなのか……」
アツロウが頭を抱え、声を震わせる。
カズヤもまた、強く唇を噛み締める。
理不尽な暴力や恩を仇で返すようなクズは許せないと強い憤りを抱いていたケイスケ。
彼が「ヤマ」という絶対的な裁きの力を手に入れたことで、極限状態の東京で暴走してしまっている――その事実が、二人の胸を鋭く抉った。
「正義の暴走……一番タチが悪いパターンね。
だけど聞いてる限り何もしていない一般人にとっては害が無いところが難しいわ」
釘崎が冷ややかな声で言った。だがその眼差しには、戸惑いが混じっている。
「自分が正しいと信じて疑わない者は、自分が悪魔以上に悍ましい殺戮を犯してることに気づけない……
それによって救われてる立場の人間がいるという事は、ただ排除すれば解決するって話しにもならないか」
「……ケイスケくんとヤマの『裁き』に対して、真っ向から立ち向かっている奇妙な人物の目撃証言もあるんです」
マリが話しを再開すると、その場の空気が僅かに変わった。
「奇妙な人物……?」
カズヤが尋ねると、マリは記憶を反芻するように言葉を選びながら語り始める。
「ええ。ケイスケくんとヤマが本拠地にしている池袋サンシャインシティに、薄汚れたスーツを着て目元に隈を作った……どこか疲れ切った雰囲気を纏う弁護士風の男が、単身でその場に踏み込んできたそうです」
「弁護士……?」
虎杖と釘崎が顔を見合わせる。
知った顔の呪術師の中に、そんな男の心当たりは無い。
「はい。その男は、厚手の革製鞄を片手に胸元には弁護士バッジを光らせていたようなのです。
彼は悪魔使いではなく、特別な武器を持っているようにも見えなかった……。ですが、魔神ヤマと、悪魔使いであるケイスケくんの前に立ちはだかり、堂々と『議論』を仕掛けたのです」
「ヤマとケイスケ相手に議論だって!?」
アツロウが目を丸くする。
「ええ。『お前の行っているのは裁判ではない。ただの主観による私刑(リンチ)だ。
正義を語るならば、被告人に弁明の機会を与えよ』……と。
その男は、ヤマが掲げる絶対的な法と、ケイスケくんの過剰な正義感に対し、法理と倫理を突きつけて静かに、しかし退くことなく議論を重ねていたそうです」
「へえ……」
冥冥が興味深そうに目を細めた。
「閻魔大王に対し、人間の『法』をもって正面から論戦を挑むかね。かなり肝の据わった……あるいは、正気と狂気の狭間にいる男だ」
「ケイスケは……その男をどうしたんですか?」
カズヤが尋ねると、マリは小さく頷いた。
「ヤマもケイスケくんも、その男を攻撃しなかったそうです。
男の発する言葉があまりにも理路整然としていて、ヤマの内に潜む『法の概念』そのものを揺さぶっていたのか……ケイスケくんも男の問答に圧倒され、静かに話しを聞いていたと言います。
今も池袋では、ケイスケくんの正義と、その弁護士が語る法が平行線を辿っている状態のようです」
「……その弁護士、いったい何者なんだ?」
虎杖が首をひねる。
「分からないわ。でも……悪魔使いでも呪術師でもない、ただの弁護士だとしたら悪魔相手に正気の沙汰とは思えない」
釘崎が考え込むように呟く。
情報の足りない一同にとっては「池袋に現れた謎の第三者」として不気味な存在感を放っていた。
マリが静かに言葉を添える。
「彼は『僕が封鎖内の悪を裁かなきゃいけないんだ』と、言っていました。
東京封鎖によって街の状況がどんどん悪化していく中で心を病んだとしても仕方のない事なのかもしれません……。
アツロウくん、友達だったら行ってあげて」
「ケイスケ……」
アツロウは握りしめた拳に力を込めた。
自分の友人が、この東京封鎖の狂気に呑まれ、歪んでいくのを放置するわけにはいかない。
「……池袋の状況はよく分かったよ。友人の暴走というのは胸が痛む話だが、見過ごせる問題ではないね」
冥冥が冷静に話を戻す。
「マリさん、他の街はどんな様子だったか分かるかい?」
「はい……品川周辺も、池袋とはまた違った形で地獄と化しています。
品川は、港湾部や神奈川方面へ逃げ出そうとする避難民が殺到した場所です。ですが、自衛隊の封鎖によって足止めされ、そこに『力』を手に入れた過激派の悪魔使い集団が雪崩れ込みました」
「……逃げ場のない避難民に、力を持った暴徒が群がったのか」
カイドーが不機嫌そうに吐き捨てる。
「ええ。品川では、食料や飲み水を独占した悪魔使い達が台頭し、一般市民を『奴隷』のように扱っています。
水のために自衛隊の防衛線へ突っ込む事を強制させられたり、悪魔の餌として差し出されるような非人道的な行いが横行しています。さらに、そこへ避難民たちの絶望と怒りの負の感情に引き寄せられた悪魔と呪霊が暴れまわり、人間と悪魔と呪霊が三つ巴で殺し合う無法地帯です」
「なんだって!? ふざけやがって!」
虎杖の全身から、凄まじい怒りの呪力が怒涛のように溢れ出す。
腕の筋肉がバチバチと鳴り、足元の大地が微かに震える。
「人を何だと思ってんだっ呪霊だけじゃなくて、人間までそんな事してんのかよ!」
「落ち着け、虎杖」
釘崎が虎杖の肩を叩く。だが、釘崎の目もまた、剣呑な怒りに満ちていた。
「怒る気持ちは分かるわ。まとめて叩き潰してやるリストに入ったわよ。……マリさん、他の所は?」
「話しておかないといけないのは六本木ね……」
マリの声のトーンが一段と低くなる。
「六本木周辺は、池袋や品川のような喧騒すらありません。
不気味なほど人通りが途絶え、足を踏み入れた人間が誰一人として戻ってこない『沈黙の街』と呼ばれています」
「沈黙の街?……」
「ええ。私は遠目から確認するだけでしたが、あの辺りには、通常の悪魔や呪霊とは桁違いの重苦しいドロリとした濃密な気配が渦巻いています。……街全体そのものに底知れない不気味さを感じました。
悪魔使いや暴徒すら、怖がって近づこうとはしません」
「……なるほどね」
冥冥の細い瞳が、鋭い光を帯びた。
「六本木には間違いなく『本物』がいるんだろう。
昨日渋谷に降臨した魔王ベルゼブブに匹敵する大物、あるいは強力な呪霊や呪詛師……渋谷事変の下手人である夏油くんの偽者って可能性もある。
正確な情報が無いうちは安易に近づかない方がいい。
ラプラスメールの予告にあったっていう『魔王ベルイアル(ベリアル)』の影も、あるいはその辺りに潜んでいるのかもしれないね」
丘の広場に重苦しい沈黙が落ちた。
東京封鎖が長引くにつれて状況は悪化して恐ろしい事が起こっている。
東京の各地は、それぞれ異なる形で確実に「破滅」に向かって加速していた。
「外からは自衛隊と天使が封鎖内を一網打尽にしようと計画してて、中では人間同士が争って狂気に走り、神話に出てくるような魔王たちがベルの王の座を巡って街を踏みにじる……」
アツロウが絞り出すような声で呟き、頭を抱えた。
「ハハハ……冗談じゃないぜ。どこを見回しても絶望しかないじゃないか!
俺たち本当にあと2日で東京をどうにかして、外に出られるのかよ!?」
「……アツロウ」
カズヤが静かにアツロウの肩に手を置く。その手は温かくて、少しの揺らぎも無かった。
「絶望的なことばかりじゃないよ。……マリ先生は地獄だけを見てきたわけじゃないはずだ」
カズヤの言葉に、マリはハッとしたように顔を上げ力強く頷いた。
「……ええ、その通りよ。カズヤくん。
こんな地獄のような状況の中でも、必死に人間としての尊厳を守り、誰かを助けようとしている人たちが確かに存在します」
マリの言葉に、絶望に押し潰されそうになっていた一同が顔を上げる。
「悪魔召喚アプリを使って、襲われていた人達を命がけで守った悪魔使い。絶望の中でも警察官としての誇りを捨てずに治安を守ろうとする人……。
私は、そのような光景も、この目で見て来ました」
「……そうだ」
虎杖が焦燥を収め、自分の胸を強く叩いた。
「ナナミン達だって、今この瞬間もクラブクアトロを拠点にして必死に動いてくれてる。
やれることを一つずつやるしかねぇ諦めちゃダメだ!」
「ええ」
マリは優しく、そして毅然とした声色で話す。
「人間が極限状態に陥ってしまい狂気に走る一方で、誰かを想い、助け合おうとする意思も確実に残っています。……もし私達が諦めてしまったら、そうやって必死に光を繋ごうとしている人たちまで、全員『7日目の破局』に飲み込まれてしまう……。だからこそ、私たちは絶望に目を奪われて立ち止まるわけにはいかないんです」
「……けっ、相変わらず青臭いことを言いやがる」
カイドーは悪態をつきながらも、どこか口元を緩めて新しい煙草に火を点けた。
「だが、異論はねぇ。暴徒どもや、気取った魔王が好き勝手やってんのは反吐が出る。うちの『ダイモンズ』の面子のためにも、調子に乗ってる奴らにはガツンとお仕置きをしてやらなきゃ気が済まねぇと思ってたところだ」
「それに……ケイスケのことだ」
カズヤが真っ直ぐな目でアツロウを見つめる。
「最後に別れた時、仕方のない事かもしれないけど明らかに不安定な状態だったんだ。
アツロウ、池袋に行ってもう一度話そう!僕も一緒に行くよ」
「……カズヤ」
アツロウは溢れ出そうになる涙をグッと堪え、拳を強く握り直した。
「ああ……そうだな! ケイスケを連れ戻す。そして、みんなで一緒にこの封鎖から脱出するんだ」
「フフ……素晴らしいね」
それまで静かに話を聞いていた冥冥が、満足そうに目を細めパンと軽く手を打ち鳴らす。
「極限状態における人間の醜悪さ、それに抗い友を救おうとする確固たる意志……実にドラマチックだ。そして何より、マリさんのおかげで価値のある『盤面の情報』が揃った」
冥冥は巨大な斧を軽々と担ぎ直し、丘の広場に集まった全員をその鋭い視線で見渡す。
「アツロウくんとカズヤくんは先立って池袋に向かうといい。話しを聞く限りケイスケくんがいきなり君達に害を為すとは思えない。よく話し合って来な。
残りのメンバーは代々木公園のケツァルコアトルの元に挨拶に行くよ。貴重な人間寄りの存在だからね。この安全地帯を盤石にする必要がある。
その後クドラクと戦った者が回復をしている間に、私と憂憂で七海くん達の所に出向いて今後の事を話し合って来るよ。
拠点を固めつつ、重要なポイントへ迅速に介入し、手遅れになる前に問題を潰していくことが大事だ」
カズヤはCOMPを強く握り締め、代々木公園の空を見上げた。
遠くに見える煙、周囲の頭上に浮かぶ「1」と「2」の残酷な余命数字、そして仲間たちの折れない強い意志。
「ありがとう、マリさん。実際に見て来てくれた東京各地の様子は、僕達が進むべき道を教えてくれました」
「役に立てたのなら良かったわ、カズヤくん」
マリは柔らかく微笑み、池袋へと向かうアツロウとカズヤを皆と一緒に見送った。