45話 スガモプリズンと法の弁護人
山手線の北西、巨大な繁華街・池袋。かつて昼夜を問わず若者や観光客で溢れかえっていたその街は、いまや異様極まる「秩序」によって塗り潰されていた。
明治通りからサンシャイン60通りへと足を踏み入れたカズヤとアツロウの視界に飛び込んできたのは、東京封鎖の他エリア――あの混乱を極めた渋谷等とは、明らかに一線を画す凄惨かつ整然とした不気味な光景であった。
アスファルトのあちこちには、黒く焼け焦げた人型の痕跡と、赤黒い灰の山がこびりついている。それは、かつてこの街で威勢を振るっていたであろう外道悪魔使いや凶悪な暴徒に呪詛師、あるいは人を喰らうために徘徊していた害悪たる悪魔や呪霊たちが、文字通り焼き尽くされた無惨な末路であった。
街の街灯や雑居ビルの壁面には、激しい戦闘の痕跡と、巨大な火柱が上がったことを物語る広範囲の煤がこびりついている。だが、真に異質なのはそれらの痕跡そのものではない。
路地裏やビルの陰に目を見やれば、他のエリアで見られたような、いつ悪魔や呪霊に襲われるか分からない恐怖に怯えたり、物資を略奪し合う生存者」の姿が存在しないのだ。
路上には一定の間隔で避難民たちが集まり、整然と物資の分配を待ち、あるいは静かに会話を交わしている。
食料品やペットボトルの入った段ボール箱が歩道に並べられ、奪い合いや暴力の気配すら失せたその平穏。しかし、それは自由や安らぎによってもたらされたものではなく、頭上にのしかかる絶大なる「懲罰の恐怖」によって強硬に維持された平穏であった。
かつて池袋の象徴であり、洗練された近代都市の誇りであったサンシャイン60の高層ビル群。その巨大な影は、今や太陽の光を遮り、まるでかつてこの地に存在した「スガモプリズン」そのものが、現代の街並みを呑み込んで蘇ったかのような不吉で圧倒的な監獄としての威容を誇っている。
「何だ、この街は。渋谷の地獄絵図が嘘みたいに落ち着いている……」
アツロウが息を呑んで呟く。その声には、平穏への安堵など微塵もなく、肌を刺すような違和感と寒気が混じっていた。
「悪魔や呪霊の死体だけじゃない。人間が……全部一瞬で焼き尽くされた跡だ。こんな真似ができるのは……」
カズヤは焦土となった道路を見つめながら、拳を強く握りしめる。
代々木公園でのマリの言葉――「異彩を放つ凄惨さ」という報告の真実。そして、その中心にいるであろうかつて同じパーティーにいた友人・高城圭介の影が、巨大な監獄と化したサンシャイン60の陰影の中に、重苦しく立ち込めていた。
焦土と化しながらも不気味な平穏が同居するサンシャイン60通りを、二人は警戒を怠らず奥へと進む。実態を確かめるべく、歩道に固まっていた避難民のグループへアツロウが意を決して声をかけた。
「あの、すみません! ちょっと話を聞きたいんですけど――」
だが、近づいてきたアツロウのCOMPが視界に入った瞬間、避難民たちの顔色が一変する。
老若男女問わず、全員が悲鳴に近い声を上げ、まるで感染病患者でも見るかのような露骨な恐怖と嫌悪を露わにして後ろに下がり距離を取る。
「あ、悪魔使いだ!」
「また来たのか!? 頼むからあっちへ行ってくれ!」
「おい、ケイスケ様に通報しろ! 早く!」
口々に叫びながら怯え、その場から逃げ出そうとする人々。その過剰な反応に、アツロウは思わず両手を挙げて制止のポーズを取った。
「待ってくれ、落ち着いて! 俺達はアンタたちを襲ったりしない! 」
「嘘をつくな! 悪魔使いなんて碌な奴がいないんだ!
いったいどれだけの人間が悪魔使いに殺されたと思ってるんだよ!」
東京封鎖が始まってから悪魔召喚アプリを手に入れて力を誇示し、無力な一般人を掠奪し暴行を繰り返した外道悪魔使い——彼らが人々に植え付けたトラウマは想像以上に深い。
カズヤも一歩前に出ようとしたが、COMPを構える動作と取られかねないために立ち止まり、アツロウが必死に言葉を絞り出す。
「違う違う! 俺達はそんなことはしてない! それに……俺たちは、ここで『裁き』を行っている高城圭介を探しに来たんだ! 友達なんだよ!」
『高城圭介』——その名がアツロウの口から飛び出した瞬間、張り詰めていた周囲の空気がピタリと止まった。
「……ケイスケ様の知り合いなのか?」
先程まで怯えきっていた初老の男性が、驚きに目を見開く。
周囲の避難民たちも互いに顔を見合わせ、警戒の混じった色から、どこか安堵と崇拝の入り混じった表情へと急速に変化していった。
「なんだ……ケイスケ様の友人だったのか。驚かせないでくれよ」
「ケイスケ様の知り合いなら、早くそう言ってくれればよかったのに」
手のひらを返したような劇的な態度の変化。
アツロウは、雰囲気の変わりように戸惑いつつも、食い入るように尋ねる。
「ケイスケは、本当に池袋にいるんだな? 一体、この街で何が起きているんだ?」
「なにって……ケイスケ様と、あのお方――『閻魔大王様』が、この池袋を守ってくださっているんだよ」
男性は、まるで聖人の名を口にするかのように、うっとりとした、どこか狂信的な眼差しでサンシャインシティの方を見やる。
「ここは天国だよ。街を荒らしていた凶悪な暴徒も、人を襲う奴らも、バケモノも……みんなケイスケ様と閻魔大王様が『浄玻璃の鏡』で罪を暴いて、即座に焼き尽くしてくださったんだ。
クズ共は一人残らず裁かれた。だからこそ、ここには平和があって、こうして物資だって全員に行き渡っている」
「即座に、焼き尽くした……」
アツロウの声が震える。やはり、路面を覆うあの黒焦げの痕跡は、ケイスケの手によるものだったのだ。
「ああ、本当にありがたいお方だ。だからね、ケイスケ様の知り合いなら大歓迎だとも。
ケイスケ様は今、サンシャインシティの——旧スガモプリズンの跡地を拠点にされている」
そう言って指を指した男性だったが、ふと思い出したように苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
「ただ、今から向かうなら少し気をつけた方がいいかもしれない。少し前から、妙な男がケイスケ様の所に上がり込んでいてね」
「妙な男?」
カズヤが問いかけると、別の女性が口を挟んできた。
「ええ、スーツを着た、弁護士バッジをつけた男よ。何でも『法律に沿った手続き』がどうとか言っちゃってねぇ……ケイスケ様と閻魔大王様に、ずっと難癖をつけてるのよ」
「弁護士!?」
カズヤとアツロウは顔を見合わせる。
代々木公園でマリから聞いていた人物だろう。
「ケイスケ様は『邪魔をするな』と言っているのに、あの男は一歩も引かずに理屈を叩きつけているの。
いつ閻魔大王様の炎で焼き殺されてもおかしくないのに、全く引く気が無くて……本当に気味の悪い男」
避難民たちの言葉から浮かび上がるのは、ケイスケとヤマによる裁きの上に成り立つ秩序と、そこにたった一人で乗り込み、神の如き裁きに対して「法」で真っ向から挑み続けている異質の存在。
「サンシャインシティの地下吹き抜けから、旧スガモプリズン跡地のメインホールへ行けば二人がいるはずだ。……ケイスケ様のお友達なら、あの邪魔な男を追い払うのを手伝ってやっておくれよ」
崇拝に満ちた住民たちの声に見送られながら、カズヤとアツロウは重い足取りでサンシャインシティの入口へと足を進める。
サンシャインシティの巨大なガラス扉を潜り抜けると、外部の騒々しい風の音は一瞬にして途絶えた。
かつて水族館やショピングモールを訪れる若者や家族連れの笑顔で溢れかえっていた吹き抜けの地下コンコースは、今や異様なまでの静寂と重圧感に満たされている。
天井から降り注ぐ自然光は不気味なほど濁り、広大な吹き抜け空間の奥へと向かうにつれ、空気の粒子そのものが冷たく、重く変化していくのが肌で理解できた。
壁面の商業看板や案内板はすべて引き剥がされ、代わりに無数の黒い焦げ痕と、太い鉄鎖を思わせる禍々しい影が壁一面を覆っている。
旧スガモプリズン――かつて極刑を言い渡された囚人たちが収容されていた歴史の闇が、現代の商業建築の殻を破って現代に侵食してきたかのごとき威容。そこは、もはや単なる施設の地下ではなく、神の裁判と死刑執行を待つためだけに存在している「スガモプリズン」そのものであった。
「……空気が重すぎる。息をするだけで喉が焼けそうだ」
アツロウが掠れた声で呟く。足音一つ立てるのすら憚られる空間の静寂を切り裂いて、二人はゆっくりと最奥に位置するメインホール――吹き抜けの最下層へと続く階段を下りていく。
そこに広がっていたのは、まさに「地獄の法廷」と呼ぶに相応しい光景であった。
ホールの奥、段差があるステージ中央には、かつて同じパーティーで戦っていた友人・高城圭介が立っている。しかし、その瞳にはかつての温和な面影がなく、どこか虚ろで冷徹な、狂信的とも見える光が宿っている。
そしてケイスケの背後には、空気を歪ませるほどの巨大な神気が揺らめいていた。
威圧的な巨躯、筋骨隆々たる赤き肉体と、見る者の魂の罪業を暴き出す『浄玻璃の鏡』を携えた裁きの神――魔神ヤマ。
その存在が発する絶対的な威圧感は、空間の重力を数倍に跳ね上げているかのようにカズヤとアツロウの全身を押し潰しにかかる。だが、カズヤたちの目を何より奪ったのは、その神威と圧倒的な気配が渦巻く壇上に、一人で真っ直ぐに立ち続けている男の背中であった。
黒いスーツに身を包み、胸元には鈍く輝く弁護士バッジ。
悪魔の放つ神気にも、いつ命を奪われてもおかしくない焦熱の気配にも一切眉をひそめることなく、男は粛々と、しかし寸分の揺らぎもない声で言葉を紡いでいた。
「――故に、君の行っているのは『司法』ではない。ただの事後的な破壊であり、感情の無差別な排泄だ」
男の低く響く声が、広いホールに静かに反響する。
「黙れ! あなたに僕の何が分かるっていうんだ!」
ケイスケが激昂し、声を荒らげる。その声には苛立ちと、自分の存在を否定されかけている焦燥が滲んでいた。
「あのクズどもは、無抵抗な人々を暴行し、物資を略奪しようとした。
人間の醜い欲で傷つけようとしたんだぞ! そんな奴らに、どんな弁明の余地があるっていうんだ!!」
「だから即座に焼殺した、と?」
スーツの男は表情一つ変えずに冷徹な視線をケイスケへと向ける。
「君がこれまで見てきただろう罪深い犯罪行為、その悪徳への怒りも否定はしない。だが、審理も経ず、被告人に弁明の機会も与えず、ただ君個人の道徳基準と閻魔大王の威光によって命を奪うこと――それを世では『私刑(リンチ)』と呼ぶ。どれほど言葉で飾ろうと、正義の執行などではない」
「私刑だと!? ふざけるな!」
ケイスケの叫びに応じるように、背後の魔神ヤマが重厚な咆哮を上げた。ゴオッと激しい火柱がホールの空間を爆ぜさせ、熱風がカズヤたちの肌を焼く。
『愚かな人間よ』
ヤマの地鳴りのような重低音が響き渡る。
『我が『浄玻璃の鏡』は、一握の偽りも通さぬ。裁かれし者らの魂に刻まれた邪悪、強欲、加害の意図……全ては不変の事実。
我が下す火炎の審判に、人間の拙き法の手続きなど不要なり』
「神の全能性を根拠にするか」
スーツの男は、ヤマの放つ圧力を真正面から受け止めながら、一歩も引かずに足を踏み出す。
「神の目が不謬であるとしても、それを受ける『人間』の手続きが免除される理由にはならない。
法とは、裁く側の全能性を誇示するための道具ではないのだよ。愚かで、間違いを犯しやすく、感情に流されやすい人間が、それでもなお他者を裁くという『暴挙』を侵す際に、過ちを最小限に抑えるために積み上げた『人間の智恵』だ」
男は淡々と、しかし極めて強固な論理の楔を打ち込んでいく。
「手続きを破棄した裁きは、単なる力の行使に過ぎない。
力を持った者が気に入らない者を殺す――それは君たちが憎む『害悪たる悪魔使い』の行いと、構造において何ら変わりがない」
「僕と……僕とあのクズどもを一緒にするな!!」
ケイスケの叫びは、もはや怒りというよりも悲鳴に近かった。
「誰も助けてくれなかったんだ! 法律だって、警察だって、この東京封鎖の中で僕達を助けてなんてくれなかった!
力のない善人が踏みにじられて、悪党が笑う世界なんだぞ!だったら……僕が力を持って、クズを全部排除して、優しい人達が安心して暮らせる世界を作るしかないじゃないか! 僕の手がその為にどれだけ汚れたって構わない!!」
「君の手が汚れることなど問題ではない」
男は冷ややかに、しかしどこか悼むような色を瞳に宿して言い放つ。
「深刻なのは、君が『他者への審判』という重圧に耐えかねて、己の精神を崩壊させかけていることだ。
法という制度の盾を持たず、たった一人で生の死刑判決を下し続けるなど、一個人の魂が耐えられる負荷ではない。
君は正義を行っているのではない。裁きという名の毒を飲み続けているに過ぎない」
「な……ッ!?」
言葉の刃が、ケイスケの胸を深く突き穿つ。
ケイスケは絶句し、唇を震わせながら後ずさる。
図星を突かれた少年の脆さが、一瞬だけその表情に露呈する。
(あの男……一体何者なんだ!?)
物陰からその問答を見つめているアツロウは、息を呑んで固まっていた。
カズヤもまた、神の圧力を前にしても微動だにせず、「法」による論理でケイスケと魔神ヤマに対峙しているその男の背中に、得体の知れない凄みを感じ取っている。
「ケイスケ……」
アツロウの口から、抑えきれない声が漏れ出る。その声に壇上のケイスケ、そして静かに言葉を紡いでいたスーツの男の視線が、一斉に階段の踊り場へと向けられた。