渋谷の喧騒から隔絶されたライブハウス「クラブクアトロ」
薄暗い照明が落ちるその空間に、重厚な扉が開く音が響き渡る。
入ってきたのは、白髪を編み込んだ優雅な佇まいの女性――冥冥と、その背後にぴったりと従う弟の憂憂であった。
「冥さん……無事でしたか」
椅子から立ち上がった七海建人が、いつもと変わらぬ淡々とした、しかし確かな安堵を込めた声で迎える。
「ええ、なんとかね。七海君も元気そうで何よりだわ。新田君も、怪我はないかしら?」
「はい! 自分は平気っす」
新田新が元気に頷く。その傍らでは、疲れの色を滲ませながらもミドリが静かにお辞儀をし、壁際に腰掛けた東堂葵はプロテインのシェイカーを傾けたまま、手を上げて二人の到着を確認していた。
「無事を喜び合いたいところだけれど、事態は刻一刻と動いているわ。お互いに掴んでいる情報を擦り合わせましょう」
冥冥は長い髪をかき上げると、一切の無駄を省いて切り出す。
その表情からは普段の艶やかな余裕が消え、プロフェッショナルな一級呪術師としての雰囲気がある。
「まずは前提として……代々木公園で猛威を振るっていた吸血鬼クドラクの事件は、マリさんを中心に虎杖君たちによるサポートの甲斐もあって無事に解決したわ。
あの一帯の混乱は収束したと思っていい」
七海が静かに首を縦に振る。
強大な脅威が一つ排除された報告に、室内の緊張が僅かに和らぐ。だが、冥冥の表情は崩れない。
「そして……そのクドラクを追う過程で、マリさんから東京各地の重要な情報を得ることができたの。それと私の『黒鳥操術』によるネットワークの情報も合わせて共有するわ。
はっきり言って、東京全土の状況は悪化の一途を辿っている。
悪魔召喚アプリを手に入れた欲望に忠実な外道や、調子に乗った暴徒、あるいは呪詛師の類が各エリアで活発化しているわ」
冥冥の声に、七海の眉根が固く寄る。
東京封鎖という異常事態の中で、力を持った人間が理性を失い、欲望のままに暴走を始めている現実は想像以上に深刻であった。
「マリさんから聞いた三つの都市――まずは『品川』よ」
冥冥は指を一本立て、その惨状を語り始める。
「品川は、港湾部や神奈川方面へ逃げ出そうとする避難民が大量に殺到した。だけど、自衛隊の防衛線によって足止めされ、そこへ『力』を手に入れた過激派の悪魔使い達が雪崩れ込んだ。……今や品川では、食料や飲み水を独占した悪魔使いどもが台頭し、一般市民を『奴隷』のように扱っているそうよ」
「奴隷、ですか……」
新田が息を呑む。冥冥は冷徹な声で言葉を続ける。
「ええ。水や食料のために自衛隊の防衛線へ突っ込むことを強制させられたり、悪魔の餌として差し出されるような非人道的な行いが横行している。さらに、そこへ避難民たちの絶望や怒りといった負の感情に引き寄せられた悪魔と呪霊が暴れまわり……人間、悪魔、呪霊が三つ巴で殺し合う完全な無法地帯と化していると話していたよ」
「凄惨極まりないですね……支配と掠奪、そして人間性の崩壊ですか」
七海が重い溜息をつく。冥冥は二本目の指を立てた。
「二つ目は『六本木』
ここは品川とは対照的に、不気味なほど人通りが途絶え、足を踏み入れた人間が誰一人として戻ってこない『沈黙の街』と呼ばれているみたい。
あの辺りには、重苦しいドロリとした濃密な気配が渦巻いているから街全体そのものに底知れない不気味さがあり、悪魔使いや暴徒すら怖がって誰も近づこうとしないらしい」
「……立ち入るだけで呑まれるような領域、ということですね。安易な探索は命取りになります」
「そうね。そして三つ目が……『池袋』ね」
冥冥の口から「池袋」という名が出た瞬間、それまで静かに話を聞いていたミドリの身体が小さく跳ねた。
「池袋は今、異様な事態に陥っている。
ケイスケという少年と、彼が従える『地獄の裁判官』とも言うべき悪魔によって、街全体が厳格かつ苛烈な『裁き』の下に支配されている。外道や暴徒、害をなす悪魔は問答無用で焼き尽くされ、不気味なまでの秩序が保たれているそうね」
「裁き、ですか……」
七海が低く呟く。
ミドリは唇を強く噛み締め、膝の上の拳を握りしめていた。その表情には、動揺と自責の念が見える。
「私達が把握している各地の目立った都市は以上よ。――七海君、そちらからの共有できる情報は?」
冥冥から視線を促された七海は、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、重い口を開く。
「政治の中心地――霞ヶ関方面についてです」
七海の声は極めて冷静であったが、その奥には深い落胆が滲んでいる。
「結論から言えば、国家の中枢としての機能は完全に停止、沈黙しています。
警察の指揮系統は寸断され、官邸や各省庁も外部からの連絡を拒絶するかのように孤立している。
政府による『封鎖線の維持と内部の安寧』という建前は、現場においてはすでに崩壊していると見て間違いありません」
「つまり、公的な救援や国家レベルでの収拾は一切期待できない、ということだね」
「ええ。行政や法による保護は存在しない。
この封鎖区域内において、人々は自らの力で生存を図るか、あるいはどこかの勢力の庇護下に身を寄せるしかない状態です。……それと、確実な情報ではないのですが、気にかかる報告があります」
七海は少し間を置き、静かに言葉を継いだ。
「霞ヶ関方面の調査を行っていた際、アメリカ大使館の周囲を通りました。固く閉ざされ、一見すると人気は感じられなかったのですが……言葉にするのが難しい、歪な気配が漂っていました。
何らかの勢力が潜伏しているのか、あるいは異常事態が起きているのか……」
「アメリカ大使館、ね……。
この極限状態下でどう機能しているのか、きな臭いわね」
「さらに、避難民の間で気になる噂を耳にしました。
『東京カテドラル聖マリア大聖堂』や『ニコライ堂』といった大規模な教会の名を、複数人が口にしていたのです。
『あそこには何かがある』『救いが与えられる』など……」
「教会……。東京封鎖を強行している自衛隊の背後には、神の使いである天使がいるって話しだけどそれらの施設が、その手の勢力の拠点として機能している可能性は高いでしょうね」
冥冥は鋭く目を細め、顎に手を当てた。
「霞ヶ関の機能不全、アメリカ大使館の歪な気配、教会の噂、品川の地獄、六本木の沈黙、そして池袋の裁き……。
それぞれの点と点が繋がっているのかもしれない」
クラブクアトロの薄暗いフロアに、重苦しい沈黙が落ちる。
国家という大きな後ろ盾を失い、各所で強大な悪魔や狂信的な存在、さらには天使といった超常の存在までもが現実を侵食している可能性が浮き彫りとなった瞬間であった。
重苦しい沈黙が落ちたクラブクアトロのフロアで、それまでじっと俯き静かに話を聞いていたミドリが、意を決したように小さく、おずおずと手を上げる。
「あの……すみません。池袋のことなんですけど」
その場にいる一同の視線がミドリへと向く。
ミドリは、膝の上で握りしめた拳を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
「その『ケイスケ』って悪魔使い……私達が一緒にパーティーを組んで戦っていた仲間なんです。優しさがあって、私やみんなのことを気にかけてくれていたくらいで……」
彼女は喉を詰まらせながら、ケイスケがパーティーから離脱した時の記憶を絞り出すように語り始める。
「私、 悪魔召喚アプリを使って仲魔の力を借りながら街で困っている人たちを助けようとしていたんです。悪魔だって人を助けられるんだって、みんなに希望を持ってほしくて……。
でも、助けた人たちに怖がられちゃって……パニックになった人達から暴言を吐かれて攻撃をされたんです」
その時の光景が脳裏に蘇るのか、ミドリは肩を小さく身震いさせた。
「その場面を見たケイスケがすごく怒って……。たぶん、その事が彼のスイッチを押しちゃったんだと思うんです。
『善意で人を助けようとしているミドリちゃんが、なんで踏み躙られなきゃいけないんだ』って……。
私のせいなんです。リーダーやユズさんにも悪魔を見せびらかしてたら怖がる人もいるよって言われていたのに……私が甘い考えで仲魔を使っちゃったから」
「ミドリちゃん……」
新田が痛ましいものを見る目で呟き、七海も静かに彼女の言葉を受け止める。
「私……池袋に行きたいです。お願いです、池袋に行かせてください!」
ミドリの悲痛な訴え。だが、七海は感情を挟まず、冷静に答える。
「気持ちは痛いほど分かります、ミドリさん。
ですが、貴女を一人だけで池袋に行かせるわけにはいきません」
「七海さん!」
七海の静かな制止。それはミドリの身を案じての言葉であったが、彼女は言い返せずに唇を強く噛み締める。
――その時だった。
「魔法少女マジカルドリーは一人ではない!」
野太い声が、静かな室内を揺らす。
壁際でプロテインを飲みながら話しを聞いていた男――呪術高専京都校の一級呪術師、東堂葵が悠然と立ち上がったのだ。
その男は、高専の制服をタンクトップの上に着ながら、胸を張ってミドリの前へと足を進める。
「東堂さん……?」
新田が呆気にとられたような声を漏らす中、東堂は自身の胸に手を当て、どこまでも真剣に、熱量を帯びた眼差しでミドリを見つめた。
「小牧翠……いや、ネットアイドル『ドリー』よ。俺の言葉をよく聞け」
「えっ!?」
思いもよらぬ呼びかけに、ミドリは驚きに目を丸くする。
東堂は堂々と腕を組むと、朗々と語り始めた。
「俺の推しが『高田ちゃん』であることは揺るぎない事実! だがしかし! ネットの海で活躍していた『ドリー』の輝き、その存在をこの東堂葵が知らぬとでも思ったか!」
「は、はい?」
「アイドルとは、存在するだけで世界を照らす光! そのアイドルが、友を止めたいと願い叫んでいる! ――それを見過ごして背を向けるほど、俺は男を捨ててはいない!!」
ドオン、と東堂が己の胸を拳で叩く。その勢いに室内にいる一同が圧倒され、動きを止めている。
「七海さんの懸念は至極真っ当だ。ならば話は簡単だろう!
この東堂葵が『親衛隊』として、ミドリちゃんに同行すれば全て解決する!!
安心しろ。この東堂葵がついていれば、どんな暴徒やバケモノだろうが指一本触れさせん! 君の切なる想い、友へと必ずや届けてみせよう!」
熱苦しいまでの自信と圧巻の頼もしさ。
ミドリは、その圧倒的な熱量にたじろぎつつも不思議と勇気が湧いてくる。
「だが、まだ足りん!」
東堂は一人で大きく頷くと、不敵な笑みを浮かべて親指を立てた。
「当然、俺のブラザー・虎杖悠仁も同行させる! このような危機に立ち上がらない男など、ブラザーであるはずがないからな! 異論は認めん!」
「……」
その場の皆が呆れたように溜息をつくが、東堂の勢いは誰にも止められない。
「決定だ! ミドリちゃん、まずは代々木公園へと向かうぞ!
ブラザーを回収し、そのまま池袋へ突撃する! 」
「あ、はい……ありがとうございます、東堂さん!」
いつの間にか東堂のペースに完全に巻き込まれながらも、ミドリの瞳には確かな希望の光が宿っていた。
「――やれやれ、相変わらずだね東堂くんは」
東堂の豪快な宣言に、冥冥は呆れ顔とも感心ともつかない笑みを浮かべながら、お茶のペットボトルを飲んで一息ついた後、全員に向けて話を切り出す。
「では、代々木公園の現状についても共有しておきましょう。先ほど吸血鬼クドラク打倒の報告をしたけれど――現在、代々木公園は龍神ケツァルコアトルを媒介とした強力な『緑の聖域』として機能しているわ」
「緑の聖域、ですか」
「ええ。結界内は非常に濃密な生命エネルギーに満ちていて、悪魔や呪霊が寄り付かなくなっているの。
自然豊かで飲み水の心配もいらないし休息には打って付けってわけ。
クドラクとの戦いの後、虎杖くんや釘崎さん、それにマリさんやカイドーくんの4人は、現在その代々木公園で心身の回復をしているわ」
「ほう! ならば話は早い。すぐに合流の儀を交わさねばならんな!」
東堂がしたり顔で親指を立ててサムズアップする。
その横で新田が「いや、合流の儀ってなんすか……」と小声でツッコミを入れたが、東堂は意に介さない様子だ。
「今後の拠点運営と指揮系統についても、この場で確定させておきましょう」
冥冥はスッと立ち上がり、みんなを見渡す。
「当面の間、私達の活動拠点はこの『渋谷・クラブクアトロ』と、水の補給にも使える『代々木公園』の二箇所としましょう。
私の『黒鳥操術』によるカラスのネットワークを活用して街の様子や情勢を今後も話し合うということで。
七海くん他に何かある?」
「承知しました。
それでは動かなくてはならない時は私が現場指揮を取ります。
すでに池袋に向かってるというカズヤくん達に関しては彼らに任せましょう。
渋谷での戦いを共にしましたが信用に値します」
「よし、決まりだ。ミドリちゃん、行くぞ!
まずは代々木公園でブラザーを回収し、池袋だ!!」
「はいっ、よろしくお願いします、東堂さん!」
ミドリは決意を込めた表情で立ち上がり、東堂と共にクラブクアトロの重厚な扉へと歩み出す。
こうして、渋谷の拠点から動き出したミドリと東堂の二人――代々木公園で虎杖悠仁との合流を経て、彼らは激動の池袋へと向かう事となったのだった。