ケイスケと、ヤマという閻魔大王を前にしても微動だにせず、「法」による論理で議論を戦わせる黒いスーツの男――日車寛見。
そんな最中に物陰からその問答を見つめていたアツロウは、息を呑んで固まっていたが、思わず抑えきれない声が漏れ出る。
「ケイスケ……」
あまりにも密度の濃い空間において、その声は鮮明に響いてしまう。
ケイスケとその背後に鎮座する魔神ヤマ、そして言葉を紡いでいた日車の視線が、一斉に階段の踊り場の影へと向けられた。
『――誰だ』
地鳴りのような魔神ヤマの重低音が響き、灼熱の威圧が階段の踊り場へと押し寄せる。だが、ケイスケの瞳に映ったのは、それ以上の動揺であった。
「……アツロウ、なのか? そこにいるのか!?」
男との激しい問答を見られていたという狼狽。そして、己の信じる「正義」を侵されたくないという警戒感が、彼の表情を強張らせていく。
「見つかっちまったか……」
もはや隠れ続けることは不可能であった。
アツロウは、意を決して物陰から足を踏み出す。カズヤもまた後ろから続き、静かな足取りで階段を下りていく。
日車寛見は、物陰から現れた少年二人の姿をチラリと一瞥すると、驚く事もなかった。
様子を見れば、この二人がケイスケにとってただの部外者ではないということを即座に察したためだ。
広大な空間で、かつての仲間たちが正面から向かい合う。だが、その間を隔てているのは単なる距離ではない。あまりにも重い空気であった。
静まり返ったホール。互いの息遣いすら届きそうな距離で、かつての仲間たちが対峙する。
「アツロウ……カズヤまで。どうして二人共ここに……」
ケイスケの瞳には動揺と警戒、そして何故こうなってしまったのかという切なさが混ざり合っていた。
アツロウは唇を噛み締めながら、一歩前に出る。
「ケイスケ……お前、さっきそこの人が言ってることを聞いてただろ? ……こんなの、やっぱりおかしいぞ!
ヤマの力を使ってその場で人を焼き殺すなんて、やりすぎだ!」
「やりすぎ……?」
アツロウの言葉に、ケイスケの表情が冷たく強張る。
彼は静かに首を横に振ると、悲痛さと狂信的な力強さを帯びた声を張り上げた。
「おかしくなんてない!
悪人は改心なんかしない! だから、ヤマの裁きが必要なんだ! それしか方法は無いんだよ!」
「ケイスケ……」
「心清き者には平穏を! 心悪しき者には死の恐怖を!
キミたちの言う事も分からないわけじゃないよ。でも……僕は正しい人の世界を創る!」
ケイスケの叫びは、ホール全体に響き渡る。かつて同じ学校に通い、争いを好みもしなかった心優しい友人が、今や「死の恐怖」をもって街を支配し、理想郷を築こうとしている。そのあまりにも歪んだ、しかし彼にとっては切実すぎる信念に、アツロウは胸を押し潰されるような想いを抱く。だが、アツロウは引き下がらない。
ケイスケの胸の奥底にある「正義への執着」の正体を知っているからこそ、彼はしっかりと目の前の友人を見据えて問いかける。
「……ケイスケの目指してる世界は、悪人をヤマに裁かせる事で正しい人だけを残して創るものだよな?
お前が、本当に正義を欲しがって悪人のいない世界にしたいのは分かるよ」
「……分かってくれるのか? アツロウ」
「でも……恐怖による支配なんて、どこかに歪みが出るんじゃないのか?」
アツロウの真っ直ぐな眼差しと、静かな問いかけ。それは力で抑え込むための拒絶ではなく、友人のことを心から案じるからこその切実な問いかけであった。
アツロウが投げかけた「恐怖による支配の歪み」という言葉。それは、ケイスケが心のどこかで恐れていた問いかけであり、同時に、彼が全身全霊をかけて否定しなければならない核心でもあった。
ケイスケの顔が苦痛に歪む。
彼は両手を固く握り締め、まるで自らの心を保つためであるかのように、声を荒らげて吠える。
「――歪みを怖れて悪人を野放しにする方が、僕には我慢できなかった!」
その絶叫には、張り詰めたガラス細工のような危うさと、どうしようもないほどの怒りが混ざり合っていた。
「どうして、正しく生きている人が、勝手な人間のせいで理不尽に迷惑をかけられなきゃならないんだ!?
悪さをした奴らがのうのうと生き延びて、被害を受けた人たちが泣き寝入りしなきゃいけないなんて……そんなの、おかしいじゃないか!!」
誰も助けてくれなかった。誰も守ってくれなかった。あの絶望の淵で、自らが立ち上がり、悪を裁く盾にならなければ誰も救われなかった――。
ケイスケの瞳から零れ落ちそうなものは、怒りだけでなく、深い孤独に裏打ちされた悲鳴そのものだった。
弱者を守るための防衛本能が、いつしか「恐怖による完全な統制」へとすり替わっていることの矛盾に、彼自身が誰よりも気づきながら、それでも引き返すことができなくなっている。
そのケイスケの痛切な叫びを、カズヤは一言も発さず、ただ静かに、しかし鋭い眼差しで見つめていた。
カズヤの胸中にあるのは、ケイスケを否定するものではない。
悪魔召喚アプリを手に入れ、過酷な運命に翻弄されながらも「自分の正義」を貫こうとして踏み外していく友人の姿に対する、痛切なまでの痛みと、どうにかして救い出したいという静かな決意だった。
そして――そのやり取りの全てを、少し離れた位置から黙って見つめている男がいた。日車寛見である。
日車は腕を組み、冷徹な法曹の眼差しでケイスケの姿を観察していた。
少年の叫びを聞きながら、日車の脳裏にはかつて自分が直面した「現実の司法の限界」がフラッシュバックしている。
どれほど被害者が泣き寝入りしようとも、証拠が足りなければ無罪になり、どれほど悪辣な人間であっても法律の網の目を潜り抜けて笑う者たちがいる。その不条理に絶望し、裁判というシステムに嫌気が差したからこそ、彼は自らの手で呪力の法廷を開くに至ったのだ。
――だからこそ、日車には痛いほどよく分かってしまった。
この少年が抱いている怒りも、絶望も、そして「悪を許さない」という強烈な正義感も、偽りない本物なのだと。だが、同時に確信してもいる。
個人の感情と神の全能性に依存した「即時処刑」のシステムは、結局のところ、不条理な暴力社会となんら変わらない。いや、手続きというブレーキが存在しない分、より一層タチの悪い独裁の暴力へと堕落していく。
少年の心が悲鳴を上げている。このままでは、彼は他者を裁く重圧に押しつぶされるか、あるいは誰も止めることのできない狂気の処刑人としてその生涯を焼き尽くすだろう。
『愚かな……。人間風情が、屁理屈を並び立てて今、この状況をどうやって変えるつもりなのだ?
少なくともこのケイスケは、行動によって人間を救っているぞ』
ケイスケの背後で、魔神ヤマが低く重苦しい唸り声をあげる。その神気が空間をピリピリと震わせ、一触即発の緊張感がホール全体を支配し始めていた。
魔神ヤマが放つ神気は、もはや周囲の空気すら焼き尽くさんとばかりに沸騰し、通路を通って別の場所まで地獄のような熱量で満たしていく。
重低音が頭蓋骨を直接揺さぶるような威圧感を感じながら、カズヤは一歩も引かず、手に握りしめたCOMPを静かに構えた。画面の明滅が、彼の臨戦態勢を無言で物語っている。
その隣で、アツロウも冷や汗を拭いながら、仲魔を召喚して戦闘への構えを見せる。
二人が選んだのは、かつての仲間をこれ以上間違った道へ進ませないための、痛みを伴う拒絶だった。
さらに、その少し離れた位置に立つ日車寛見もまた、スッと自らのガベルを手に取り、その指先に微かな呪力の光を纏わせる。
彼が展開する領域『誅伏賜死』がいつ発動してもおかしくない、極限の緊張感が空間を支配する。
――衝突は、もはや不可避かと思われた。
だが、その張り詰めた糸を断ち切ったのは、他ならぬケイスケ自身の震える声だった。
「やめろ……ヤマ。もういいんだ……」
ケイスケは両手で顔を覆うように頭を抱え、苦悩しながらヤマに指示を出す。
目の前にいるのは、かつて共に東京封鎖を過ごして笑い合い、背中を預け合った友人たちだ。
彼らが自分を否定し、自分の歩もうとする道のりを「歪み」だと真正面から拒絶している。その事実が、ケイスケの孤独な心を内側から激しく切り裂いていた。
――自分が間違っていると言うのか?
――誰も助けてくれないこの東京で、僕が悪を裁かなければ、誰が弱者を守るというんだ……!
込み上げる葛藤と絶望に耐えかねたように、ケイスケは狂おしく首を振る。これ以上、かつての仲間たちと言葉を交わすことは、彼が積み上げてきた「正義の防壁」そのものを崩壊させることに等しい。
「……もう、僕に近づかないでくれ」
絞り出すような、かろうじて保たれた理性による拒絶の言葉。
ケイスケが背後を振り返ると、魔神ヤマがその巨躯を翻し、周囲を眩い神気と炎の煙で包み込んでいく。
「人が正しい道に進む機会だと、何故キミたちは気づかないんだっ!」
それが、彼の残した最後の言葉だった。
強烈な熱風と目くらましの光が収まった時、そこにケイスケの姿も、恐るべき魔神ヤマの気配も、跡形もなく消え失せていた。まるで最初から幻影であったかのように、広大なホールにはただ重苦しい静寂と、焦げ臭い異臭だけが取り残されている。
……戦闘は回避された。だが、誰も安堵に浸る者はいない。
カズヤはCOMPを下ろし、悔しそうに拳を握り締める。
アツロウは、その場に膝をつきそうになりながら、ケイスケが消え去った闇の方向をぼんやりと見つめ続けていた。そして、日車寛見は静かに纏っていた呪力を解き、弁護士バッジを指先で軽く弾くように触れながら、低く呟く。
「……手遅れになるのも、そう遠くないかもしれないな」
その言葉は、カズヤたちの胸に重く突き刺さる。
崩壊した東京で交錯する、法と私刑、そして友愛の糸。
池袋を舞台にした歪んだ正義の行方は、いよいよ亀裂を孕みながら、次なる激動の渦へと飲み込まれていくのだった。