強烈な熱風と眩い神気の余韻が、広大なホールから徐々に消え去っていく。
周囲に立ち込めるのは、魔神ヤマによる押し潰されそうなほどの重苦しい余韻だけであった。
アツロウは、友人のケイスケが消え去った闇の方へぼんやりと視線を向けたまま、しばらくの間その場から動くことができなかった。
彼の脳裏には、直前まで交わされていた言葉が、まるで呪いのようにこびりついて離れない。
カズヤはCOMPの画面をそっと閉じ、静かに息を吐き出すと、わずかに視線を動かす。その視線の先にいたのは、黒いスーツを纏った一人の男――日車寛見だった。
男は、まるで何事もなかったかのように涼しげな顔でカズヤとアツロウの姿を静かに捉えている。
「そこの人……いったい何者なんだよ」
沈黙を破ったのはアツロウだった。
彼は緊張を押し隠すように声を張り上げ、目の前の男へと一歩踏み出す。
「さっき、ケイスケを相手にもの凄い議論をふっかけてたろ?
……弁護士なのか?」
アツロウの問いかけに、日車はすぐに答えることはせず、落ち着き払った足取りで二人に歩み寄った。その圧倒的な大人の余裕と、どこか底の知れない雰囲気に、カズヤは無意識のうちに警戒心を強める。
「警戒しなくていい。君たちを害する意図はないさ」
日車は低く落ち着いた声でそう告げると、自然な仕草で自身の胸元に留められた弁護士バッジを指し示す。
「弁護士の日車寛見だ。……もっとも、この東京封鎖が始まって以来、その肩書にどれほどの意味があるかは怪しいものだがね。少なくとも、今の無法地帯においては、過去の遺物に過ぎない」
「日車さんか……そうすると街で噂されてたのは貴方のことなんですね」
アツロウは相手の名を咀嚼するように呟く。職業が弁護士だと聞いて、先ほどケイスケと交わしていた対話にも納得がいったが、それだけに余計に疑問が募る。
法律が機能しないこの極限状態において、弁護士が単身でスガモプリズン化した池袋に現れ、ケイスケとヤマに対峙していたのだから。
「……君たちは、あの少年の知り合いだな。確か、アツロウとカズヤって呼ばれていた」
日車は二人の表情を一瞥するだけで、先ほどのやり取りから彼らの関係性を察していた。
「ああ。アイツは友人だよ。……こんな風に人間を裁いたりするような奴じゃなかったんだ」
アツロウが歯噛みしながら悔しそうに吐露する。その言葉を聞いた日車は、微かに目を伏せ、過去を思い出すかのような複雑な色をその瞳に浮かべた。
「友人の暴走を止めに来た、というわけか……感心しないね。あの少年は、すでに引き返せない領域に入っている。
正義という名の呪いに取り憑かれ、自ら背負い込んだ重圧に押し潰されるか、あるいは誰も手に負えない怪物に成り果てるだろう」
「そんなの……まだ分からないだろ!」
アツロウが思わず声を荒らげる。
日車の言葉は事実を突いていたが、だからこそ余計に胸をえぐられたのだ。
「だが、放置するつもりもない」
日車は静かにそう呟くと、踵を返す。これ以上、この少年たちと長々と馴れ合うつもりはない――そのドライな意思表示が、彼の背中から明確に伝わってくる。
「おい、待てよ! あんた、これからどうする気だ?」
「どうもしないさ。自分は、ただの目撃者だ。
あの少年が創り上げる『世界』とやらが、どのような結末を迎えるのか……それを最後まで見届けるだけの話だ。もっとも、君達がどう動こうと、それは君達の自由だがね」
日車は振り返りもしないまま、どこか達観したような響きを含んだ声を残して、薄暗い別の通路へと歩み去っていく。その後姿を見送りながら、カズヤとアツロウは言葉を失っていた。
呪術師と悪魔使い。互いの背景も、選んだ手段も異なる。しかし、ケイスケの暴走をこのまま見過ごすわけにはいかないという点において、彼らの目的地は奇妙に重なり合っていた。だが、手を取り合って進むわけではない。
日車は日車のやり方で、カズヤとアツロウは自分たちのやり方で、それぞれの答えを求めて動き出すのだった。
広大な地下フロアには、肌を刺すような静寂が戻っている。その場には行き場のない喪失感を抱えたカズヤとアツロウの二人のみ。
「……行っちまったな」
アツロウは、頭をガシガシとかきむしりながら、その場に崩れ落ちるように膝をつきかけた。
手のひらを硬いコンクリートの床につけ、座り込む。その背中には、友人と分かり合えなかった無力感と、これから待ち受ける過酷な現実への恐怖が重くのしかかっている。
「カズヤ、俺達はどうすればよかったんだ?
アイツのやってることが間違ってるのは分かってる。でも、あんな風に追い詰められて、たった一人で『裁き』なんて背負ってまで突き進んでる……」
アツロウの震える声が、だだっ広い地下空間に空しく反響する。
ケイスケの瞳に宿っていたのは、単純な独裁者のそれではなく、誰にも助けを求められず、自らの正義という名の鎖に縛られた少年の悲痛な叫びそのものだった。その痛みを感じ取ったからこそ、アツロウの胸の内は後悔と自責の念で塗りつぶされていた。
カズヤは、しゃがみ込んで俯くアツロウの肩にそっと手を置いた。言葉は無くとも、その手の温もりと真っ直ぐな瞳の強さが、アツロウの乱れた呼吸を少しずつ鎮めていく。
カズヤ自身もまた、胸の奥が痛んでいたが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「……一旦少し離れよう、アツロウ」
カズヤは周囲を警戒しながら声をかける。スガモプリズン化した池袋の街は、たとえ暴動や略奪が抑え込まれているとはいえ、一歩間違えば魔神ヤマの怒りを買う危険地帯だ。
二人は足早にその場を離れ、大型店舗のバックヤードであったと思われる、頑丈な扉によって閉ざされたテナントスペースへと身を潜める。
薄暗い室内には埃っぽい匂いと、かつてここにいた人々の名残りであろうダンボールの山が散在している。
二人は、そこでようやく一息つき腰を下ろした。
「ハァ……助かったぜ。にしても、さっきの日車って人、タダ者じゃなかったな」
アツロウは、ペットボトルの水を飲み干しながら、緊張を解くように息を吐き出す。
「ああ。弁護士だと言っていたが、あの状況で微動だにせず閻魔大王相手に法律論を戦わせるなんて常軌を逸してる。
敵か味方かは分からないが……少なくとも、あの男はケイスケの暴走をただの『悪事』としては見ていないようだ」
「だな。それに、あの人の言う通りだ。今のケイスケは引き返せないところまで行っちまってる。
それにヤマも問題だ。邪悪な悪魔ではないけど、たぶんさっき戦ったクドラクより強いぜ……アレだってマリ先生がクルースニクの力を貸してもらって止めを刺せたんだ。真正面から戦うのはなぁ」
アツロウは深刻そうに眉を寄せ、COMPの画面に視線を落とす。そこには、これまでに仲魔にした悪魔たちのデータが静かに明滅している。
力任せの説得が通用しない相手であることは、さっきのやり取りで痛いほど思い知らされた。
ヤマという圧倒的な武力を盾にし、恐怖による秩序を信じ切っているケイスケを止めるには、ただ「やめろ」と言うだけでは不十分なのだ。
「……どうする? このまま引き下がるわけにはいかないだろ、カズヤ」
アツロウの問いかけに、カズヤはわずかに頷いた。その瞳には、揺るぎない決意の光が灯っている。
「引き下がる気はない。ケイスケを孤独な場所に置いておくわけにはいかないからな。……だけど、そのためには準備が必要だ。仲間たちと連絡を取って、現状を話そうか」
「そうだな……。他のみんなも先行した俺たちを心配してるはずだ。
絶対に日車さんが言ってた『結末』ってやつを、ケイスケに迎えさせるわけにはいかないんだ」
アツロウは立ち上がり、ポケットの中で固く拳を握りしめた。
歪んだ正義の果てに待つ破滅の未来。それを回避するため、二人は過酷な池袋の地で、改めて友を救い出すための決意を固めるのだった。
時を同じくして。
視界を覆うのは灰色のコンクリートと、所々に黒煙を上げる荒廃した渋谷の街並みであった。
かつては無数の人々が行き交い、流行の発信地として華やかな喧騒を誇っていたスクランブル交差点をはじめとする一帯は、東京封鎖や渋谷事変の影響によってすっかり様変わりし、不気味な気配に包まれている。
そんな中、力強い足音がアスファルトを叩く。
歩みを進めているのは、呪術高専京都校の一級呪術師・東堂葵と、ネットアイドル「ドリー」ことミドリの二人であった。
「――どうしたミドリちゃん、足が少し遅れているぞ。代々木公園はもうすぐだ!」
東堂は呪術高専の制服を着た大柄な体を揺らしながら、振り返って気さくに声をかける。その声量には不思議と周囲の不安を吹き飛ばすような圧倒的な熱量があった。
「は、はい! すみません、東堂さん……」
ミドリは息を整えながら必死にその後をついていく。
彼女の手にはCOMPが握られており、いつでも仲魔を呼び出せるように警戒を怠っていない。
渋谷事変の混乱の最中、過酷な戦場を生き延びた彼らは、呪術師と悪魔使いという違いを乗り越えていた。
東堂にとって、ミドリは単なる保護対象の一般人などではない。過酷な運命に抗い、自らの意思で戦う道を選んだ「戦友」である。
「気にするな。渋谷での戦いで君が仲魔たちと戦う姿をしっかりとこの目に焼き付けた。
悪魔使いだろうが呪術師だろうが、目の前の理不尽に立ち向かう者に肩書の違いなど関係ない!」
東堂は不敵に笑いながら、自身の胸をドンと力強く叩いて見せる。
「君は『魔法少女マジカルドリー』なんだろ?胸を張れ! 」
「……自分から名乗ってた時は気にしてなかったけどちょっと恥ずかしい……かも?」
東堂の真っ直ぐな称賛と力強い言葉に、ミドリの胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
亡父の影響から正義の味方に憧れていた自分の意志を、この圧倒的な実力を持つ男は肯定してくれたのだ。その事実が、ミドリの心に折れない芯を通す。
二人が進む道の先には代々木公園の巨大な緑色の樹木群が見える。近づくにつれて、肌を撫でる風の質感が明らかに変わっていくのが分かった。
東京を覆う淀んだ悪意や、焦げ臭い都市の悪臭が嘘のように洗い流され、代わりにどこまでも清らかで豊かな生命の息吹が満ち満ちている。
龍神ケツァルコアトルの神気によって形成された「緑の聖域」の境界だ。
「これがケツァルコアトルの聖域……聞いてた通り他の場所とは全然違う」
ミドリが感嘆の声を漏らしながら足を踏み入れると、地面から生命力に満ちた瑞々しい草花が、びっしりと生い茂っている光景が目に飛び込んでくる。
悪魔や呪霊の気配は一切なく、まるで外部の地獄から完全に切り離された神域のような静謐さがそこには広がっていた。
二人は聖域の奥へと足を踏み入れていく。その先に待つのは、心身の休息をしているだろう虎杖悠仁たちとの合流である。
豊かな緑に満ちた「緑の聖域」の奥へ足を踏み入れると、木漏れ日の差し込む広場に、見慣れた面々の姿が見えてきた。
吸血鬼クドラクとの激闘のあと、ここで心身の休息を取っていたマリ、カイドー、そして虎杖悠仁や釘崎野薔薇である。
「あっ、ミドリちゃん!」
真っ先に気づいて声を上げたのは釘崎だった。彼女は、ほっとしたような笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。
「みんな……無事でよかった」
ミドリが胸をなで下ろす。その安らいだ空気の中、彼女が続けて宣言する。
「私、池袋に行きます!」
「ったく、オメーらは相変わらずいろんな場所に顔を出すのが好きだよなー
アツロウとカズヤが先行してるぜ」
カイドーが腕を組み、半ば呆れたように笑う。そこに豪快な声が響き渡った。
「心配するな! そのための『親衛隊』ではないか」
ドオンッ! と自身の胸を叩いて豪語する東堂に、木陰で休んでいた虎杖が「は? なんだよ親衛隊って……」と目を白黒させて立ち上がる。
「ブラザーーーッ!!」
「うわっ!? だいたいなんでお前が代々木公園にいんだよ!」
東堂は一気に間合いを詰めると、驚愕する虎杖の肩をガシリと掴み、有無を言わせぬ熱量を放つ。
「決まっているだろう。マジカルドリーが苦難に立ち上がり、かの地へ赴こうというのだ!
そのような熱い誓いの場にブラザーが駆けつけない道理などない!!」
「いや、俺の話し聞けって! つーか勝手に決めつけんな」
「何を言う! 困っている者がいれば手を差し伸べ、間違った道を進む者がいれば全力で引き戻す――それこそが漢の生き様ではないか! 行くぞブラザー、目的地は池袋だ!」
「おい、ちょっと待てってば……!」
虎杖は盛大に呆れ顔を浮かべたが、東堂の有無を言わせない圧倒的なペースと、人を助けるという行為を想い、ため息をついて苦笑に満ちた表情へと変わった。
彼自身、ケイスケという同じような年齢の学生が暴走して苦しんでいるのを聞いて、知らんぷりできるような男ではないのだ。
「……はぁ、まったく。お前は相変わらず強引だな。――で、池袋に行くのは俺たちとミドリちゃんの3人でいいんだな?」
「おう! ブラザーの男気、流石だな!」
東堂が満面の笑みでサムズアップする。そのやり取りを見守っていた釘崎は、呆れたように肩をすくめながらも、どこか頼もしそうな笑みを浮かべた。
「まったく、勝手な男たちね。……けど、ミドリちゃんを一人で行かせるわけにもいかないし、アンタたちが行くなら好都合か」
マリもまた、穏やかな笑みを浮かべながら頷く。
「そうね。私達は休息を終え次第、渋谷の『クラブクアトロ』へ戻って皆さんと合流しましょう。――今の東京は池袋だけに構っていられませんからね」
「みんな……ありがとうございます!」
こうして、激動の池袋へと突入するメンバーが決定した。
三人の足取りは、歪んだ正義が支配する池袋へと向け、力強く踏み出していく。