絶望の花咲く東京で   作:ベイベ後藤

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7話 盤上の異物

 

 東京封鎖の二日目。

 それは、十月三十一日に向けて完璧な「帳」を編み上げていた仕掛け人たちにとっても、計算の合わない冷たい頭痛をもたらしていた。

 

 山手線の内側。外界との通信が完全に遮断され、自衛隊の装甲車が物々しく走り回る無秩序な都心の地下深くに、その空間はあった。

かつて呪術高専の忌庫から奪取した特級呪物たちが眠る、薄暗く湿った地下の隠れ家。

コンクリートが剥き出しになった床の上に、五条悟の「かつての親友」の肉体を纏った男――袈裟姿の男が、胡坐をかいて座っている。

彼の額には、不気味なほど整然とした縫い目が、一本の境界線のように走っていた。

 

「……不可解だな」

 

 男は、手元に並べた数台のスマートフォンを細い指先で弄り、いつも崩さない薄笑いを一瞬だけ消した。

彼が握る端末は、単なる一般の通信網を利用したものではない。

呪術的な残穢をノイズとして媒介させ、一種の霊的なネットワークを構築した特製の通信端末だった。だが、それすらも昨日の十三時を境に、完璧に「圏外」へと磨り潰されていた。

 

「漏瑚たちとの連絡が途絶えた。それだけなら、呪術高専の連中がこちらの意図に気づいて奇襲を仕掛けたとも考えられるが……天元の結界に、これほど大規模な術式を上書きする権能は高専にはない」

 

 男はゆっくりと立ち上がり、地下室の天井を見上げた。

彼の「脳」が肌で感じているのは、東京の空を丸ごと覆い尽くしている、あの『光の壁』の異様な気配だ。

あらゆる結界術の数式を解き明かしてきた彼をして、あの光の檻からは、いかなる「呪力」の残穢も感知できなかった。それは、呪詛師の悪意によって生み出されたものでもなければ、呪霊の呪力によって維持されているものでもない。

どこまでも無機質で、冷徹で、ただ「システム」としてそこに存在する絶対的な法(ルール)

 

「天元の結界術を基盤にして、大掛かりな儀式の布石を打つ。そのための『渋谷』だったはずだが。……この光の壁は、天元の因果そのものを別の法律で縛り付けている。これでは、私のチェス盤の上に、誰かが勝手に新しいルールをぶちまけたようなものだ」

 

 不快そうに額の縫い目をなぞる彼の背後の闇から、一人の術師が姿を現した。白髪に、着物を纏った中性的な容貌――裏梅だ。

 

「……状況は芳しくない」

 

 裏梅の凍りつくような声が、地下室の冷気をさらに深める。

 

「渋谷の地下、副都心線のホームへ向かおうとしたが、街の随所に『自衛隊』を名乗る人間たちが配置されている。それだけなら殺せば済む話だが……問題は彼らの周囲だ。

呪霊とは異なる『何か』が、空間の隙間から這い出してきている」

 

「ほう?」

 

 袈裟姿の男が興味深そうに目を細めると、裏梅は自身の白皙の手のひらを見せた。その指先には、凍結の術式の痕跡とは異なる、パチパチとした微細な「静電気」のような火傷の跡が残っていた。

 

「呪力による攻撃ではない。物理的な『電子ノイズ』を纏った、半透明の異形だ。

こちらの存在を認識するや否や、獣のような爪で襲いかかってきた。術式で肉体を粉砕することは容易だったが、祓った後、呪力の残穢が一切残らなかった」

 

「呪力がないのに、異形として現界している……。面白いね」

 

 男の唇が、歪な笑みの形に釣り上がった。

人間の負の感情から生まれる呪力。それが具現化したものが呪霊だ。しかし、裏梅が遭遇したという異形――悪魔には、その大前提が存在しない。

 

 人間の情念ではなく、何らかの『論理(プログラム)』によって世界に無理やり呼び出された、無機質な暴力のコード。

 

「昨日から、逃げ惑う人間たちの間で奇妙な噂が流れているよ。スマートフォンに、突然『悪魔を召喚するアプリ』がインストールされ、それを起動した者が、余命を告げられながら獣の主になっている、とね。

自衛隊の封鎖は、呪術師を閉じ込めるためではない。あの『悪魔』という異物を、東京から外に出さないための隔離だ」

 

 男は腕を組み、自身の思考の海に深く沈んだ。

彼が練り上げてきた計画。それは、人類を呪力の最適化によって次のステージへと強制進化させることだ。そのためには、十月三十一日の渋谷で、現代最強の呪術師である五条悟を「獄門疆」に封印することが絶対の条件だった。

 だが、その本番を前にして、東京はすでに彼の知らない別の「地獄」へと変貌しつつある。

 

 善良だったはずの一般人が、スマホ一台で強力な暴力を手に入れ、街のあちこちで無秩序な暴動を起こし始めている。それは、彼が望む「呪力による淘汰」とは全く異なる、ただの『システムによる世界の崩壊』だった。

 

「私の知識にも、この事象の正体に該当するものはない。……神の檻、か。天元の結界をも黙らせるほどのこれだけの機構を、この現代の、誰が作り出した?」

 

 男の脳裏に、いくつかの可能性が浮かび上がる。

呪術界の上層部ではない。彼らはただの保身に走る無能な老人たちの集まりだ。

 では、五条悟か? いや、彼は最強だが、これほど非呪術的なシステムを構築するような趣味はない。

 

「……いや、一人だけ、この『システム』の匂いに近い術師がいるね」

 

 男は、かつて自分が接触し、その特異な頭脳と術式に注目していた「ある男」の存在を思い起こしていた。

呪術をただのオカルトや才能ではなく、徹底的な『数式と論理』として解釈し、世界のバグを突こうとしていた、あの狂気的な若者。

 

「もし、あの男がこの檻の引き金を引いたのだとしたら……。十月三十一日の渋谷は、私が用意した舞台ではなく、彼が私の首を刈るための罠ということになる」

 

 男は懐から、禍々しい無数の目を閉じた立方体――特級呪物「獄門疆」を取り出し、愛おしそうに眺めた。

通信は繋がらない。だが、だからこそ、この不気味な静寂が恐ろしかった。

チェス盤のルールそのものが、彼の知らない場所で、音も立てずに書き換わろうとしている。

 

 十月二十九日。東京封鎖二日目。

夏油傑の皮を被った男は、自分が仕掛けたはずの戦場に生じた致命的な歪みを、ただ静かに、そして狂おしいほどの警戒を交えて噛み締めていた。

 

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