十月三十日、東京封鎖三日目。
山手線の内側を完全に外界から断絶した『光の壁』は、今日も冷徹な物理法則として機能し続けていた。
一般市民のパニックは暴動へと変わり、あちこちで「悪魔召喚アプリ」を手にした人間たちが、互いの物資や余命を奪い合う醜い生存競争を始めている。その混沌の極みにある東京の街を見下ろすように新宿のビル、ガラス張りのペントハウスにその男はいた。
無造作に伸ばした灰色の髪に、どこか超然とした冷たい美貌を宿した青年。ナオヤは、電力の落ちた薄暗い室内に浮かび上がる、無数の巨大なマルチモニターの前に立っていた。
画面に映し出されているのは、自衛隊の統制コード、呪術高専が張った無駄な結界の出力、そして――「悪魔召喚プログラム」が東京中にバラまいた、膨大な数のCOMPの稼働ログだ。そのすべてが、ナオヤが書き換えた独自の数式(コード)によって一元管理され、彼の指先一つで脈動している。
「ククク……実に見事なものだ。カビの生えた呪術に拘泥している老人どもや、人間の情念(呪力)などという不確定なエネルギーを世界の真理だと信じ込んでいる哀れな呪詛師ども。
彼らが必死に組み立てたチェス盤を、たった一行の論理(プログラム)が完全にハッキングしてしまった」
ナオヤは、画面に映る「副都心線地下の異常な呪力の集積」――すなわち偽夏油や漏瑚たちが十月三十一日に向けて用意している舞台を視て、低く愉悦の笑い声を漏らした。
「額に縫い目のある男……。君が、どれほどの執念でこの日の舞台(渋谷)を整えてきたかは知らない。だが、君の致命的な敗因は、この現代において『科学』と『論理』のアップデートを怠ったことだ。
神が作った世界のシステムにバグがあるように、君が作った呪術の計画にも、セキュリティホールがある」
ナオヤにとって、呪術とは神秘でも才能でもない。ただの、極めて非効率的な『世界のバグ(歪み)』の一種に過ぎなかった。だからこそ、彼は悪魔召喚プログラムという、世界そのもののルールを書き換える「上位言語」を完成させたのだ。
彼がこの東京封鎖という『神の檻』の引き金を引いた目的。それは、偽夏油の邪魔をすることでも、呪術師たちを救うことでもない。
ただ一つ。
この地獄の揺り籠の先で、自らの半身とも言える『あの少年』を、王へと覚醒させるため。
「待っているぞ。お前がこの極限の檻の中で、偽りの神(ルール)を否定し、俺の元へと辿り着くその瞬間をな」
ナオヤの瞳に、狂気的なまでの深い情愛と執着が揺らめく。
彼がCOMPを一般人に配り、余命システムという残酷なゲームを強いたのは、すべては「彼」を 磨き上げるために過ぎない。
五条悟という規格外の存在も、偽夏油という謀略家も、悪魔召喚プログラムという神への叛逆の盤面においては、少年を育てるための『舞台装置』に過ぎなかった。
「おや、ずいぶんと熱烈な独り言だねぇ?」
そのとき、背後の闇から緊張感を完璧に削ぎ落とした、ひどく場違いな男の声が響いた。
振り返るまでもない。ナオヤは冷淡な表情に戻り、モニターから目を離さずに言った。
「勝手に入ってくるなと言ったはずだ」
そこに立っていたのは、派手なシャツを羽織り、いかにも六本木や渋谷の夜をふらふらと遊び歩いているような、軽薄なオーラを纏った「遊び人風の男」だった。だが、その男が浮かべる笑みは、人間のそれではない。
「いいじゃないか、固いこと言いなさんな。外は自衛隊だの悪魔だのでお祭り騒ぎなのに、君がこんな暗い部屋で引きこもってるから、退屈しのぎに遊びに来てあげたんだよ?」
遊び人風の男は、ナオヤのデスクの上に無作法に腰掛け、長い足をぶらつかせながら、モニターの光に照らされたナオヤの横顔を覗き込んだ。
「それにしてもさ、君のその『肩入れ』っぷり、神様から見てもちょっと引くレベルだよ? あのCOMPを手にした可愛い坊やのために、東京丸ごと檻に閉じ込めて、呪術師も呪霊もまとめてゲームのコマにしちゃうんだからさ。つくづく、人間の愛ってのは悪魔よりタチが悪いよねえ」
「ふん……。お前には理解できないさ。あれは俺の魂の連続性であり、この腐った世界に終止符を打つ、唯一の『可能性』だ」
ナオヤは傲然と言い放ち、キーボードを叩いた。
画面上で、十月三十一日のタイムリミットを示す数字が、静かにカウントダウンを進めていく。
「五条悟が渋谷に降り立つまで、あと一日。
呪詛師が描いた滑稽な台本を、俺たちの論理(プログラム)がどう極上の喜劇に変えてやるか……。せいぜい見物しているといい」
ナオヤの唇に、世界そのものを冷笑するような、愉悦が刻まれていた。