ポケモン現代入り 作:ささみ
ちょっと色々修正しました。
匿名掲示板の次スレッドに短いレスを書き込み、ようやくパソコンの画面から目を離した。
固まりきった肩と腰を伸ばすと、バキバキと嫌な音が鳴る。一晩中モニターを睨み続けていたせいで、目は砂でも入ったかのように乾いていた。
机の上には、昨夜空けたエナジードリンクの缶と、すっかり冷めきったコーヒーが入ったマグカップが放置されている。
立ち上がろうとすると、少しだけ足元がふらついた。
「……うわ、身体バッキバキだ」
土曜日の朝から日曜日の朝まで、ほぼぶっ通しで掲示板とSNSに張りついていたのだから当然だ。
洗面所へ向かい、蛇口をひねって冷たい水で勢いよく顔を洗う。タオルで水気を拭き取って鏡を見ると、そこには徹夜明け特有の酷い顔をした自分が映っていた。
だが、疲労感に反して意識は妙に冴えている。
ゲームやアニメの中にしかなかった本物のポケモンが、現実に存在している。
その事実がもたらす高揚感は、徹夜の疲れを一時的に誤魔化すには十分すぎるほど強烈だった。
自室へ戻り、机の上のスマートフォンとパソコン画面へ視線を向ける。
「ポリゴン、ちょっとこっちの作業に集中する。掲示板とSNSの監視、引き続き頼む」
パソコン画面の端にいたポリゴンが、短い電子音を鳴らした。
ポリゴンに、関東方面の交通情報、航空便や鉄道路線の状況、レンタカーやホテルの候補、そしてポケモンの目撃情報の整理を任せた。
古い画像、他人の転載、悪質なデマの除外も指定しておく。もちろん、俺自身の端末情報や位置情報の秘匿も忘れない。
ポリゴンがモニター上でウィンドウを次々と切り替え、情報の整理を始めたのを確認してから、俺はクローゼットを開けた。
中型のキャリーケースと、大きめのリュックを引っ張り出す。
まずは初期所持品の確認だ。
机の引き出しから、モンスターボールを取り出す。
ポリゴンが登録された通常のモンスターボールが一個。
そして、空の通常モンスターボールが五個。
「五個か」
掌の上に乗せたボールを見下ろし、俺は小さく息を吐いた。
たった五個。
だが、この世界にはポケモンという創作物が存在しない。つまり、モンスターボールを製造する企業も、普通に売っている店もない。
今のところ、この五個こそが俺の持つ唯一の捕獲手段だった。
いきなり掲示板で投稿されていたヒトカゲの巣を探しに行き、無駄撃ちするような真似はできない。
最初はコラッタやキャタピー、ビードル、ポッポといった一般種で、現実の捕獲の感覚や戦闘での指示出しに慣れる必要がある。
ヒトカゲを探すのは、その後だ。
六個のボールをすべて、リュックの取り出しやすい位置へ収めた。
次に、キズぐすり、どくけし、まひなおし、むしよけスプレーを各五個ずつ確認し、これもリュックへ詰める。
数に限りがあるため、現地での無駄遣いは厳禁だ。
キーストーン、Zリング、ダイマックスバンド、テラスタルオーブといった特殊装備一式は、ポーチにまとめてキャリーケースの奥底へ隠すように入れた。
現状では、必要なポケモンも、石も、クリスタルも、エネルギー環境も揃っていない。使える保証はないし、見せびらかして余計なトラブルを招く必要もない。
スマートフォンを開き、全国図鑑アプリとボックスアプリが正常に動作することも確認する。
これなら、捕まえたポケモンを安全にボックスへ預けられる。物理的なケージをいくつも持ち歩かずに済むのは大きな利点だ。
ふと視線をやると、部屋の隅に置かれた大型のポケモン交換装置が目に入った。
交換、転送、交換進化。
機能だけを見れば恐ろしく便利な代物だが、サイズも重量もかなりのものだ。札幌の賃貸アパートの自室に置けてはいるが、どう見ても一人で動かせる機械ではない。
「……これも後で運ばないといけないんだよな」
関東遠征から戻った後、俺は今の仕事と住居を整理し、北海道十勝地方の実家へ引っ越すつもりでいる。
俺の実家は、十勝の田舎にある農家だ。
両親も年齢を重ねてきたし、いずれ家と農地をどうするかという話は避けて通れない。農作業の人手も足りていない。
戻って手伝えば、少なくとも邪魔にはならないはずだ。
それに、ポケモンのことを考えても、札幌の狭いアパートより田舎の農家の方が圧倒的に都合がいい。
広い敷地や空き地なら、人目を気にせずポケモンを出せる。
ぼんぐりやきのみの栽培実験もできる。
いずれは納屋や作業場所を使って、モンスターボールの試作もできるだろう。
この大型の交換装置だって、実家に残っている俺の部屋なら問題なく設置できるはずだ。
ただし、入口や部屋の広さだけは、後で確認しておかないといけない。
そこまで考えてから、俺はスマートフォンを操作し、派遣会社の勤怠システムを開いた。
今日は日曜日。
工場の仕事はない。
だが、明日から一週間動くなら、申請だけは今のうちに済ませておく必要がある。
月曜日から一週間分の有給休暇を選択し、理由はシンプルに「私用のため」と入力して送信する。
休日のため、すぐに返信は来ないだろう。
念のため、担当者には確認用のメッセージも残しておいた。
『急な申請で申し訳ありません。家庭の事情と今後の生活について実家と相談する必要があり、月曜日から一週間ほど休暇を希望します。必要であれば改めてご連絡します』
関東へポケモンを捕まえに行く、とは当然書かない。
完全な嘘ではない。
肝心な部分を省略しているだけだ。
遠征から戻ってきたら、一、二週間ほどかけて退職手続きや引っ越しの準備を進めるつもりだった。
有給の申請を終え、俺はパソコンの画面へ目を向ける。
ポリゴンが整理してくれた交通情報を確認し、小さく息を吐いた。
関東圏の空港や主要駅は、ポケモンの目撃、設備点検、周辺交通の乱れによって大混乱に陥っているらしい。
空港そのものが完全閉鎖されたわけではない。
だが、滑走路周辺の安全確認や、空港から都心へ向かう鉄道、道路の混乱が続いている。
直行便で関東へ入れたとしても、その後の移動が詰まる可能性が高い。
おまけに便の欠航や行き先変更も増えている。
直行ルートはあまりにも不安定だった。
「直行が無理なら、他から行くしかないな」
ポリゴンに指示を出し、新潟県行きの航空便を探させた。
新千歳空港から新潟県へ飛び、そこでレンタカーを借りる。
そこから陸路で群馬県へ入るルートだ。
関東圏の中心へ直接飛び込むより、外側から車で入った方が自由度は高い。
群馬県側の山林地帯や遊歩道の候補、通行可能な道路状況を検索し、候補ルートをスマートフォンの地図アプリへ保存していく。
初日は群馬県側の人が少ない場所で、ポケモンの実物確認と、可能であれば捕獲を狙う。
これなら自分のペースで動けるし、危険を感じたら車ですぐに撤退できる。
移動方針が固まったところで、俺はスマートフォンを手に取り、十勝の実家へ電話をかけた。
農家の朝は早い。
休日のこの時間でも、案の定、数回のコールの後に母親が出た。
『もしもし、悠真? こんな朝からどうしたの』
「もしもし、母さん。そっち、なんか変わったことない?」
『変わったこと? 特にないけど。お父さんはもう外で作業してるよ。札幌で何かあった?』
「こっちは大丈夫。関東のニュースがすごいことになってるから、一応聞いとこうと思って」
『ああ、あの変な生き物のやつね。こっちでは全然見てないよ』
どうやら、十勝周辺にはまだポケモンも未知の植物も現れていないようだ。
知識の通りなら、北海道に本格的な変化が出るのは四か月目。シンオウ地方に対応する解放が始まってからになる。
もちろん、そんなことを母親へ説明するつもりはない。
「それでさ。ちょっと関東の方へ行く用事があるんだけど、その後のことも話しておこうと思って」
『関東? 今あんな騒ぎになってるのに?』
「危ない場所に突っ込むつもりはないよ。見られる範囲だけ」
『何を見に行くのさ』
「色々」
『怪しい返事だねぇ』
母親の声音が一気に疑わしげになる。
視線をパソコン画面へ逃がしながら、咳払いした。
「で、関東から戻ったら、札幌の部屋を引き払って実家に戻ろうかと考えてるんだ」
『えっ、帰ってくるの?』
「うん。父さんも母さんも歳取ってきたし、農地とか家のこともあるだろ。農作業を手伝いながら、そっちで新しい仕事を探すつもり」
『戻ってくるのは助かるけど、本当に急ね。仕事で何かあったの?』
「揉めたとかじゃないよ。今の状況見てたら、動けるうちに生活の場所を整理しておいた方がいいと思っただけ」
『そう。まあ、帰ってくるなら部屋は片付けておくけど』
「俺の部屋、まだ使える?」
『物置みたいになってるけど、片付ければ使えるよ』
「あと、ちょっと大きい精密機械を置きたいんだけど、入口から入るかな」
『どれくらい大きいの』
交換装置のおおよその寸法を伝える。
『それなら、机か棚を動かせば入るんじゃない? でも精密機械って何?』
「説明すると長い」
『余計に怪しいんだけど?』
「危ない物じゃないから」
『危ない物かどうか出る時点で怪しいのよね」
正論だった。
だが、交換装置の正体を話すわけにはいかない。
「家具や家電も持っていく予定だから、引っ越す日が決まったらまた連絡する。あと、関東から木の実とか苗とか、資材みたいな物を先に何箱か送るかもしれない」
『木の実? 苗? あんた本当に何始める気なの』
「ちょっと試したいことがあるだけ。送る時は中身と保存方法を書いとくから、受け取って置いておいてほしい」
『腐る物じゃないんでしょうね』
「そこはちゃんと見る」
『……まさか、ニュースに出てる変な生き物を連れて帰る気じゃないだろうね』
鋭い。
一瞬だけ黙り、モニターの中で作業しているポリゴンへ視線を向けた。
「北海道にはまだいないんでしょ」
『質問に答えてないよ』
「とにかく、危ないことはしないから。帰る日が決まったらまた連絡する」
『絶対してね。あと、お父さんにも話しておくから』
「じゃあ、また」
追及が深くなる前に電話を切る。
実務的なやり取りだけだったが、必要な確認はできた。
実家へ戻ること。
自室を使うこと。
交換装置を置く場所。
荷物の受け入れ。
最低限の土台は確保できた。
電話を終えると、パソコンの画面では、ポリゴンが新しい情報を次々とリストアップしていた。
ポケモンの目撃情報に混ざって、奇妙な植物や果実の投稿が増え始めている。
『昨日まで何もなかった庭に木が生えている』
『公園に見覚えのない木が増えてて、赤いドングリみたいな実が落ちてる』
『青い実をポッポが食べてた』
『甘い匂いに釣られて虫みたいなのが集まってる』
『正体不明の実、フリマに出してる奴いるんだけど』
『味見配信始めたバカいて草』
笑えない。
ポリゴンが拾い上げた鮮明な画像を拡大する。
青い果実。
俺脳裏に、オレンのみという名前が自然に浮かび上がった。
そして、赤や緑の不自然な色をした、ドングリに似た実。
ぼんぐりだ。
どうやら、ポケモンだけではなく、彼らの生態系や素材まで現代へ流入し始めているらしい。
「本当に丸ごと持ってきてるな、あの邪神」
ぼんぐり式モンスターボールの製法を完全知識として把握している。
木材や金属部品を使い、捕獲時に蒸気が噴き出す初期型の構造。
ただし、製法を知っているからといって、いきなり完璧なボールを作れるわけではない。
ぼんぐりの加工、木材の成形、内部機構の調整。
実際には、十勝の実家で試作と失敗を繰り返す必要があるだろう。
それでも、材料さえあれば、手持ちの空ボール五個を使い切った後でも自力でボールを補充できるようになる。
これは途方もないメリットだ。
SNSでは、見知らぬ実をフリマサイトへ出品しようとする者、味見配信をしようとする者、実を拾おうとしてコラッタに威嚇されたという報告が相次いでいた。
すぐに「モンスターボールの材料になる」などとは書き込まない。
そんなことを公開すれば、転売目的の乱獲、他人の庭への不法侵入、危険なポケモンが集まる場所への無謀な突撃を誘発するだけだ。
掲示板の次スレッドを開き、「ポッポ有識者」として手早く書き込んだ。
『知らない果実を人間やペットへ食べさせないこと。植物そのものに毒や刺激性がある可能性もある。実を狙ってポケモンが集まる可能性もあるから、伐採や採取の前に必ず周囲を確認しろ。住所が分かる画像は消して、他人の庭や立入禁止区域には絶対に入るな。不鮮明な画像じゃ断定できないからな』
書き込みを終えると、俺はキャリーケースを開き、採取用の道具を追加で詰め込み始めた。
空の保存袋。
密閉容器。
新聞紙や緩衝材。
使い捨て手袋。
ラベル用テープ。
油性ペン。
小型スコップ。
剪定ばさみ。
それに、種や小さな実を分けるための小型容器。
個人宅の庭へ侵入したり、一軒ずつ交渉したりするような面倒な真似はしない。
向かうのは、群馬県の山林地帯や、人が少ない遊歩道付近だ。
住宅地にまでぼんぐりやきのみが出ているなら、森や山にはさらにまとまって自生している可能性が高い。
そこで落ちた実や、採取可能な試料を安全に持ち帰ればいい。
すべてを詰め終え、ファスナーを閉じる。
部屋の床に置かれたリュックとキャリーケース。
手持ちのモンスターボール。
回復道具。
防護用品。
採取用品。
スマートフォンの画面には、新潟県経由で群馬県の山林地帯へ入るルートが表示されている。
ポリゴンが、準備完了を告げるように画面上で小さなアイコンを点滅させた。
時刻はまだ日曜日の午前。
土曜日の朝から徹夜で動き続けていたせいで、さすがに身体の芯から疲労を感じる。
「まずは寝るか。寝不足で本物のポケモンに会って事故るとか、さすがに笑えない」
パソコンの電源を落とし、大きく欠伸をした。
モンスターボール五個とポリゴン一匹。
初期装備としては、まあ悪くない。
「明日は新潟、そこから群馬。……本物の関東入りだな」
軽く独り言をこぼし、俺はベッドへと倒れ込んだ。
目を閉じると、まだ見ぬ本物のポケモンたちの姿が脳裏をよぎる。
その輪郭を追いかけるうちに、意識はゆっくりと沈んでいく。