「陛下」
低く掠れた声が、静まり返った寝室に落ちた。
「最後ぐらい、ちゃんと名前で呼んでよ」
長い沈黙のあと、ようやくその頑なな唇が震えた。
「……アズリル」
その声を聞いた瞬間、アズリルは静かに微笑んだ。
誰でも良かったわけではない。
終わらせてくれるのがこの人だからこそ、意味があった。
愛する人に殺されることは、不幸なのか、それとも幸福なのか。
少なくともアズリルにとっては、どうしようもなく幸福だった。その手で終わりをもらえるのなら、それは罰ではなく、救いに近い何かになる。
慣れ親しんだ大きな手が、ためらいながらアズリルの首元へ伸びる。かすかに震える指先は、肌に触れた瞬間、まるで火傷でもしたかのように怯んだ。
「そんな顔しないで」
アズリルは、苦しげに歪んだ彼の頬へ手を伸ばした。
指先が触れると、男の目元から堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちる。アズリルはそれを親指の腹でそっと拭い、自分より遥かに背の高い身体を、愛おしそうに腕の中へ引き寄せた。
男は声を殺していた。
それでも、喉の奥で噛みしめた息が酷く震えている。アズリルの肩口に額を預けたまま、泣き崩れそうになるのを必死に堪えているのが痛いほど分かった。
「大丈夫」
アズリルはその頭を優しく抱えたまま、耳元で囁いた。
「ちゃんと、ここにいるから」
男の呼吸が少しだけ整うのを待ってから、アズリルは彼の顎に指を添え、伏せられた顔をこちらへ向けさせた。涙に濡れた頬へ、慰めるように幾度も唇を触れさせる。
それを合図に、男はアズリルの顔を両手で包み込んだ。
最初は、許しを乞うような、痛いほど優しい口づけだった。
けれど、その理性が崩れるのは一瞬だった。堰を切ったように、何度も、何度も必死に唇が重なる。離れてしまえば本当に全てが終わってしまうことを、彼だけがまだ認められずにいるようだった。
やがてアズリルは、そっと男の胸を押した。
「もう……時間が」
男は奥歯を噛みしめたまま、溢れる涙を止められずにいた。
アズリルはその手を取り、自らの白い首元へと導く。
「大丈夫。怖くないよ」
そう言って、もう一度微笑んだ。
「嬉しいんだ。どうしようもなく。だから、お願い」
男は最後にもう一度だけ、アズリルの唇を塞いだ。
別れを告げるためではなく、二度と戻らない互いの温度を、骨の髄まで覚えておくための口づけだった。
「……愛していた。ずっと」
目を逸らさないまま、男の指にゆっくりと力がこもる。
首元に添えられた手が、喉の形を確かめるように深く沈んでいく。
アズリルは静かに身を任せた。何度も自分を守り、触れてくれた、大好きな手だった。その感触の温かさだけで、不思議と死の恐怖は消えていた。
視界が滲んでいく。
男の顔も、涙も、寝台のそばで揺れる小さな灯りも、少しずつ遠くなる。
気づけば、柔らかな寝台に背中が深く沈んでいた。
男はアズリルの上に覆いかぶさるようにして、最後までその瞳から目を逸らさなかった。ぽつぽつと落ちる涙が、アズリルの頬を冷たく濡らす。
ひどい顔だ、と思った。
あんなに強くて、何があっても揺らがないような顔をしていた人が、今はまるで迷子の子どものように泣きじゃくっている。
それが少しだけ可笑しくて、どうしようもなく愛おしかった。
──ありがとう。
声にはならなかった。
けれど最後に動いた唇は、確かにそう告げていた。
男の絶叫が、遠く遠くで響いた。
その言葉の意味がアズリルに届く前に、世界は静かに途切れた。