HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

1 / 27
物語の結末にあたる、ひとつの終わりの場面を書きました。


プロローグ 小さな光

「陛下」

 

 低く掠れた声が、静まり返った寝室に落ちた。

 

「最後ぐらい、ちゃんと名前で呼んでよ」

 

 長い沈黙のあと、ようやくその頑なな唇が震えた。

 

「……アズリル」

 

 その声を聞いた瞬間、アズリルは静かに微笑んだ。

 

 

 誰でも良かったわけではない。

 終わらせてくれるのがこの人だからこそ、意味があった。

 

 愛する人に殺されることは、不幸なのか、それとも幸福なのか。

 少なくともアズリルにとっては、どうしようもなく幸福だった。その手で終わりをもらえるのなら、それは罰ではなく、救いに近い何かになる。

 

 慣れ親しんだ大きな手が、ためらいながらアズリルの首元へ伸びる。かすかに震える指先は、肌に触れた瞬間、まるで火傷でもしたかのように怯んだ。

 

「そんな顔しないで」

 

 アズリルは、苦しげに歪んだ彼の頬へ手を伸ばした。

 指先が触れると、男の目元から堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちる。アズリルはそれを親指の腹でそっと拭い、自分より遥かに背の高い身体を、愛おしそうに腕の中へ引き寄せた。

 

 男は声を殺していた。

 それでも、喉の奥で噛みしめた息が酷く震えている。アズリルの肩口に額を預けたまま、泣き崩れそうになるのを必死に堪えているのが痛いほど分かった。

 

「大丈夫」

 

 アズリルはその頭を優しく抱えたまま、耳元で囁いた。

 

「ちゃんと、ここにいるから」

 

 男の呼吸が少しだけ整うのを待ってから、アズリルは彼の顎に指を添え、伏せられた顔をこちらへ向けさせた。涙に濡れた頬へ、慰めるように幾度も唇を触れさせる。

 

 それを合図に、男はアズリルの顔を両手で包み込んだ。

 

 最初は、許しを乞うような、痛いほど優しい口づけだった。

 けれど、その理性が崩れるのは一瞬だった。堰を切ったように、何度も、何度も必死に唇が重なる。離れてしまえば本当に全てが終わってしまうことを、彼だけがまだ認められずにいるようだった。

 

 やがてアズリルは、そっと男の胸を押した。

 

「もう……時間が」

 

 男は奥歯を噛みしめたまま、溢れる涙を止められずにいた。

 アズリルはその手を取り、自らの白い首元へと導く。

 

「大丈夫。怖くないよ」

 

 そう言って、もう一度微笑んだ。

 

「嬉しいんだ。どうしようもなく。だから、お願い」

 

 男は最後にもう一度だけ、アズリルの唇を塞いだ。

 別れを告げるためではなく、二度と戻らない互いの温度を、骨の髄まで覚えておくための口づけだった。

 

「……愛していた。ずっと」

 

 目を逸らさないまま、男の指にゆっくりと力がこもる。

 首元に添えられた手が、喉の形を確かめるように深く沈んでいく。

 

 アズリルは静かに身を任せた。何度も自分を守り、触れてくれた、大好きな手だった。その感触の温かさだけで、不思議と死の恐怖は消えていた。

 

 視界が滲んでいく。

 男の顔も、涙も、寝台のそばで揺れる小さな灯りも、少しずつ遠くなる。

 

 気づけば、柔らかな寝台に背中が深く沈んでいた。

 男はアズリルの上に覆いかぶさるようにして、最後までその瞳から目を逸らさなかった。ぽつぽつと落ちる涙が、アズリルの頬を冷たく濡らす。

 

 ひどい顔だ、と思った。

 あんなに強くて、何があっても揺らがないような顔をしていた人が、今はまるで迷子の子どものように泣きじゃくっている。

 

 それが少しだけ可笑しくて、どうしようもなく愛おしかった。

 

 ──ありがとう。

 

 声にはならなかった。

 けれど最後に動いた唇は、確かにそう告げていた。

 

 男の絶叫が、遠く遠くで響いた。

 その言葉の意味がアズリルに届く前に、世界は静かに途切れた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。