四次試験が始まり、眠気を抱えたまま標的を探すアズリル。
そしてレオリオと二人きりで、蛇が巣食う洞窟に閉じ込められてしまいます。
猛烈に、眠い。
アズリルは、人生で感じたことのないほどの深い睡魔に襲われていた。
次の試験場へ向かう船のなか、少年は船縁にもたれ、項垂れるように海を見つめている。これから始まるのは、受験者同士が互いの番号札を奪い合う、狩りのような試験らしい。先ほどくじ引きが行われ、全員が自分の標的となる番号を決められたばかりだった。
手の中にある番号札を見下ろした。
一〇三。
それが誰の番号なのか、まったく見当がつかなかった。
「……誰だろう」
ぽつりと呟いてみたものの、考える気力はすぐに途切れた。もう、次の試験について真面目に思案する余裕など残っておらず、波の音が耳に入るたび、意識が泥のように溶けて、深い底へ沈んでいくようだった。
三次試験のあと、三日近く眠っていたはずなのに、それでもまだ、身体の奥から眠気が湧いてくる。普通に考えればおかしいのだろうが、アズリルはそれを、ただの疲労だと片付けた。
あれだけの試験を越えたのだから、無理もない。
自分の実力は、自分でもよく分かっているつもりだった。だからこそ、ここまで残れていることが不思議で、思っていたよりずっと無理をしていたのかもしれないと、ぼんやり考える。
ふと、以前にも似たようなことがあった気がした。
けれど、その記憶を辿る前に、背後から声がした。
「よう、アズリル」
振り返ると、レオリオが立っていた。
「レオリオ」
名前を呼んだところで、アズリルは立っているのも限界になり、そのままずるずると船縁に背中を滑らせて、甲板に座り込んだ。
レオリオは目を丸くした。
「お前、ずいぶんしんどそうだな」
「まあね……」
レオリオは心配そうに隣へ腰を下ろす。
「聞いたぞ。三次試験、ヒソカと組まされたんだってな」
「うん」
「相当ひでえ目に遭ったろ。生きててよかったよ、本当に」
「ああ……」
アズリルはどこか上の空で頷き、困ったように頬をかいた。
「変な人だけど……悪い人……ではなかったよ」
レオリオの口元が引きつった。
「おま……マジで言ってんのかよ!」
アズリルは、はは、とかすかに笑ったが、その声に力はなく、笑ったことで、かろうじて張り詰めていたものがふっと緩んでしまった。
言葉が途切れる。
波の音だけが、やけに近く聞こえた。
視界がゆっくり滲んでいく。
「アズリル?」
レオリオの声が遠くなる。返事をしようとしたが、言葉になる前に意識が落ちた。
「……おい?」
レオリオはすぐに手首を取り、指先で脈を探ると、それから額に触れ、呼吸の浅さや顔色を確かめた。
だが、異常というほどのものはなかった。
体調を崩したというより、単純に限界まで張り詰めていた疲れが出たのだろう。糸が切れたみたいに、アズリルの身体から力が抜けていた。
「……寝た、のか」
安堵とも呆れともつかない息を吐いた。
本当に、限界だったのだろう。
すぐ隣で、静かな寝息が聞こえる。船の揺れに合わせて、アズリルの肩が小さく上下しているのを見て、レオリオはそれ以上そちらを見ないように、頬を赤くして前を向いた。
船はそのまま、次の試験場へと進んでいく。
四次試験の会場は、広い島だった。
受験者たちは順番に島へ降ろされ、それぞれ別々の方向へ散っていく。一番最初に船を降りたアズリルも、ふらつきながら森の奥へ進んでいた。
アズリルは標的の番号をもう一度確認した。
一〇三番。
誰の番号なのかは分からない。けれど、探さなければならない。
木々の間を進みながら、アズリルは周囲の気配に耳を澄ませた。島の中は静かで、遠くから鳥の鳴く声が聞こえ、風に揺れる葉がかすかに音を立てている。
それでも、アズリルの頭はまだぼんやりしていた。
これではいけない。標的を探すどころか、誰かからプレートを奪うことさえ難しそうだった。
少しだけ休もう。
そう思いながら足を進めていると、いつの間にか、目の前の木にもたれかかる影があった。
ヒソカだった。
「や♥」
アズリルは足を止める。
前なら、そこで身構えていたかもしれない。けれど三次試験であれだけ一緒にいたせいか、今は不思議と、怖さより先に安心感のようなものがあった。
「……ヒソカ」
アズリルはそのまま、ヒソカの近くにある木の根元へ向かい、何のためらいもなく腰を下ろした。
「……何してるの? ♣」
「ちょっとだけ休ませて」
「……じゃあ、その間にプレートもらっておこうかな♦︎」
「後にして」
アズリルは、ヒソカの言葉を途中で切るように言った。眠気のせいか、その物言いはいつもよりまっすぐだった。
ヒソカは一瞬、虚を突かれたように目を留め、それから喉の奥で楽しそうに笑う。
「くくくく……君は本当に面白いね♥」
ヒソカの笑みが、ふと横へ流れた。
木々の奥から、別の足音が近づいてくる。
現れた男の顔には、無数の針が刺さっていた。表情らしい表情はなく、人形のような、ゾンビのような、どこか生き物には見えない男だった。
アズリルは重いまぶたを上げた。
男はアズリルを見るなり、迷いなく言った。
「やあ、アズレイ」
その名を聞いた瞬間、眠気で滲んでいた意識が一気に澄んだ。
男はそこでふと思い出したように言う。
「……違う。今はアズリルか」
アズリルは目を見開いたまま、目の前の男を見つめた。思い出そうにも、こんな奇妙な姿の知り合いがいるはずがない。
「……誰?」
男は答えず、自分の顔に刺さっていた針へ手を伸ばした。
一本、また一本と針が抜かれるたびに、歪んでいた顔の輪郭が少しずつ変わっていく。頬の線が戻り、目元が変わり、黒い長髪がさらりと落ちると、やがてその面影は、アズリルの知るものになった。
「……イルミ!」
アズリルはほとんど反射のように立ち上がり、ふらつきながら駆け寄ると、イルミの服を掴んで、しがみつくように抱きついた。
眠気と疲労で、頭の働きが鈍っていたのだろう。見慣れた顔を見た途端、普段なら絶対にしないようなことを、アズリルは無自覚にしてしまっていた。
イルミは真顔のまま、アズリルの肩を掴んで、すっと引き剥がした。
「だいぶ参ってるね」
「うん……すごく眠い」
アズリルはへらりと笑った。
「知り合いだったんだ♦」
ヒソカは口元に笑みを浮かべていたが、目だけがかすかに冷めている。
「まあ、ちょっとね」
イルミは詳しく語らなかった。
遅れて、アズリルの中に疑問が浮かぶ。キルアの兄が、なぜこんな姿で、ハンター試験に参加しているのか。
「イルミは、どうしてここに?」
「キルアが心配だから」
即答だった。
アズリルは瞬きする。
兄が弟を心配している。そう言われると、妙に納得してしまった。自分の兄上も、同じようなことをしそうだと思ったからだ。
「……そっか」
「だから、誰にも言わないでくれる?」
「うん……でも、キルアの邪魔はしちゃだめだよ?」
「もちろん」
横で、ヒソカが喉の奥で微かに笑った気がしたが、アズリルはそれ以上考えなかった。
次に何を話せばいいのか分からず、アズリルはその場に立ち尽くす。
イルミは、たまに仕事で城へ立ち寄ることがあった。そのたびに、兄と話している姿を何度か見たことがある。けれど、なぜかアズリルが近づくのを城の者たちはあまりよく思わず、従者の目を盗んでこっそり兄たちのいる部屋へ遊びに行っても、兄はすぐに仕事の話をやめてしまうのだった。
だから、そもそもイルミが何の仕事を頼まれていたのかすら知らない。
アズリルにとってこの男は、兄上と一緒に弟自慢をしている、気の合う友人。その程度の認識でしかなかった。
そう気づくと、急に会話の続きが見つからなくなる。
アズリルは気まずくなり、ふと思い出したように手元の札を見た。
「そうだ。この番号を探してるんだ。誰か知らない?」
そう言って、標的の番号を見せる。
一〇三。
イルミはそれを一瞥した。
「ああ」
そして、片手に持っていたものを無造作に前へ出した。
アズリルは、それが何か理解するまでに一拍かかった。
髪を掴まれた、人間の生首だった。
「こいつだね」
「────っ!?」
アズリルは反射的に飛び退いた。頭の奥に残っていた眠気が、一瞬で吹き飛ぶ。
顔を引きつらせながら、アズリルはどうにか声を出した。
「……プ、プレートは?」
「持ってなかった」
イルミは平然と答える。
「でも、居場所は吐かせた。ここからあっちの方角にある洞窟らしい」
イルミは森の奥を指さした。
「あの男の拠点だったみたいだね。君に譲るよ。オレの番号じゃなかったし」
アズリルは固まっていたが、しばらくして息を吐いた。標的本人が死んでいる以上、これでいいのだろうかという思いはあったが、少なくともプレートの場所は分かった。
「……ありがとう」
アズリルは静かに礼を言った。
それから、ちらりとヒソカを見る。ヒソカは何も言わず、ただこちらを観察していた。
アズリルはヒソカの視線を気にしながらイルミに歩み寄り、声を落とす。
「まさかだとは思うけど……兄上は来てないよね?」
「まさか」
その返事に、アズリルはほっと息を吐いた。
けれど、次の瞬間、イルミの手元が視界に入る。
まだ、持ったままだった。
ぞくり、と背筋が冷えた。
あの優しい兄上と気が合う友人が、今、何でもないことのように生首を持っている。その事実を、まだうまく受け止めきれなかった。
「じゃ、じゃあ……僕はもう行くね」
アズリルはぎこちなくそう言って、イルミが指さした方角へ歩き出す。イルミは何も言わず、その背中を見送った。
アズリルが森の奥へ消えていくまで、二人はしばらくその背中を見ていた。
先に口を開いたのは、ヒソカだった。
「……あの子、いったい何者なんだい? ♦」
口元に笑みを浮かべたまま、尋ねる。
「ただの依頼人の家族だよ」
「へぇ」
ヒソカの目が細くなる。
「訳ありなんだ。詳しく教えてよ♣」
「無理だね」
イルミは淡々と答えた。
「依頼人の情報は話せない」
「残念♥」
ヒソカはそう言いながらも、余計に興味を引かれたようにアズリルが消えた方角を見ている。イルミはその横顔を一瞥した。
「……気に入ってるみたいだね」
「うん。面白い子だよ♣」
ヒソカはあっさり認めた。
「忠告しておくけど、あの子はやめておきな」
ヒソカの笑みが深くなる。
「何? 君のお気に入り?」
「違う」
即答だった。
「でも、あの子に過剰なくらい執着している人がいる。手を出せば、ただ殺されるだけじゃ済まないと思うよ……オレが見ても、行き過ぎていると思う」
ヒソカは珍しく、毒気を抜かれたような反応をした。
「……マジ?」
それから、その事実を噛み締めるように、ゆっくりと声が低く沈む。
「へぇ……♥」
背筋を撫でるような愉悦が、その目に浮かんだ。
「それは、面白い♦」
「……どうなっても知らないよ」
アズリルは森の中を歩いていた。
先ほどの緊張が解け、再びふわふわとした倦怠感に襲われている。気を抜けば、木の根に足を取られそうだった。
今、他の受験者に会ったら終わりだろうな。
そんなことを、どこか他人事のように思う。
それでも、イルミに教えられた方角へ進んでいくと、やがて木々の間にぽっかりと開いた洞窟が見えた。
アズリルは足を止め、入口を見上げる。奥からは、ひんやりとした空気が流れてきていた。
普通なら、もっと警戒するべきだったのかもしれない。けれど今のアズリルは、とにかく急いでいた。
プレートを取って、休もう。
アズリルは特に深く考えず、中へ足を踏み入れた。
その姿を、離れた場所から二つの影が見ていた。
一人は、木の陰に身を隠すように立つレオリオだった。
アズリルが洞窟の奥へ進むにつれ、外の光は少しずつ遠くなっていった。
一番奥まで辿り着くと、岩陰に人の荷物らしきものが置かれている。アズリルはその前にしゃがみ込んだ。
「これ……かな」
手元もおぼつかないまま鞄の中を探っていると、しばらくして、それらしい硬いものに指先が触れた。
番号札だった。
一〇三。
アズリルは小さく息を吐いた。
「……あった」
こんなに簡単に終わっていいのだろうか。そう思いながら、アズリルは周囲を見回す。
標的本人はもう死んでいる。標的のプレートも手に入った。自分のプレートも無事なら、無理に外を歩き回る必要もない。試験が終わるまで、ここでしばらく休んでいようか。
アズリルは荷物のそばに腰を下ろし、壁に背を預ける。
ほんのひと息。
だが、次の瞬間にはもう、意識は深く沈んでいた。
洞窟の外で、レオリオはじっと入口を見ていた。
アズリルが中へ入ってから、かなり時間が経っている。それなのに、一向に出てこない。
「……あいつ」
胸の奥がざわついた。
船の上で見た、いつもとは明らかに違うアズリルの様子が頭をよぎる。大丈夫だろうかと思い始めると、もうじっとしていられなかった。
「くそっ」
レオリオは意を決し、中へ駆け込んだ。
奥へ進むと、岩陰に倒れるように横になっているアズリルの姿が見えた。レオリオの眉間に緊張が走る。
「アズリル!! おい、大丈夫か!」
駆け寄り、肩を掴む。
アズリルはむにゃむにゃと何かを呟きながら、薄く目を開けた。
「……レオリオ?」
「お前、何してんだよ!」
「なんで、ここに……」
「こっちの台詞だ! 怪我は? どこかやられたのか?」
レオリオは慌ててアズリルの身体や顔色を確認する。
アズリルは眠たげに瞬きした。
「寝てた」
「寝てた!?」
レオリオは言葉を失ったが、怪我をしていないと分かると、肩から力が抜けた。
「……ったく。心配させやがって」
「ごめん」
アズリルは眠そうに笑った。
レオリオは深く息を吐く。
「お前、プレートは?」
アズリルは得意げに二枚のプレートを見せた。
「取れた。……何もしてないんだけどね」
アズリルは少し気まずそうに付け足す。
レオリオは目を丸くする。
「おお……やるじゃねえか」
「レオリオは?」
彼も、自分が獲得したプレートを取り出して見せた。
アズリルは、気だるさを残したまま目元をほころばせた。
「やったね」
その無邪気な言い方に、レオリオはつられるように笑った。
「おう」
けれど、すぐに表情を引き締める。
「でも、こんなところで寝てたら狙い撃ちにされるぞ。逃げ場もねえしな」
言われてみれば、その通りだった。
アズリルは力なく頷いた。
「うん……そうだね」
「手伝ってやるから、とりあえず外へ出ようぜ。ここで寝直すのはなしだ」
アズリルは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。まだ足元は頼りないが、それでも出口の方へ歩き出す。
レオリオもそれに続いて立ち上がった。
アズリルが数歩歩いた先で、レオリオの動きが止まる。
頭上の暗がりで、何かが動いた。
「アズリル、待て!」
レオリオは咄嗟にアズリルの腕を掴み、強く引いた。
「わっ」
アズリルの身体が後ろへ倒れ、そのままレオリオもバランスを崩した。二人はもつれるように倒れ込み、アズリルはレオリオの上に落ちる形になる。
「っ……!」
背中を地面に打ったレオリオが呻いた。アズリルの重みを受け止めたせいか、苦しそうに眉間に皺が寄っていたが、それでも彼はすぐに身を起こし、アズリルの様子を確認する。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん。レオリオこそ、ごめん。大丈夫?」
「俺は平気だ」
アズリルは慌てて身を起こそうとしたが、レオリオの表情が急に強張ったのを見て、動きを止めた。
つられて、その視線の先を追う。
岩の隙間、壁の割れ目、天井の暗がりから、黒く細い影がいくつも這い出していた。
ぬるりとした鱗と、ぎらつく目が、薄闇の中で無数に浮かび上がる。
──蛇だ。