レオリオに女の子だと勘違いされたまま迫られてしまいます。
「動くな」
レオリオは咄嗟にアズリルの肩を掴み、自分の後ろへ庇うように引き寄せた。
「毒蛇だ。噛まれたら無事じゃ済まねえ」
アズリルは息を呑んだ。
「毒……蛇」
「ちっ」
レオリオはアズリルを支えながら起き上がり、すぐさま周囲へ目を走らせた。
「罠を張ってやがったんだな。これじゃ出られねえ」
「どうしよう……」
出口へ続く道は蛇に塞がれており、他に抜けられそうな場所も見当たらない。レオリオが険しい顔で洞窟内を見回す横で、アズリルは肩を落とした。
「すまない。巻き込んでしまって」
レオリオは眉を寄せる。
「いいさ。俺が勝手についてきたんだ。お前のせいじゃねえよ」
その時、外から声がした。
「レオリオ!」
ゴンだった。
レオリオはすぐに叫ぶ。
「入るな!! 罠だ!」
外の気配が、ぴたりと止まる。
「罠!?」
今度はクラピカの声だった。
「おそらく蛇使いのバーボンの罠だ! 中に毒蛇がいる! 入ったら出られねえ!」
外で、ゴンとクラピカが何かを話し合う気配がした。やがて少しの間を置いて、クラピカの声が返ってくる。
「分かった。こちらで助ける方法を探す。無理に動くな」
「頼む!」
二人の足音が遠ざかっていくと、洞窟の中にはまた静けさが戻った。
レオリオとアズリルは壁際に並んで座っていた。時折、蛇の這う音だけが、薄暗い洞窟の中にかすかに響く。
アズリルはちらりと横を見た。レオリオは片膝を立てて座り、出口の方を睨むように見ている。いつでも動けるように、片手は立てた膝の上に置かれていた。
自分のせいで、申し訳ないことをした。
そう思うと、黙っているのが余計につらくなる。アズリルはうまく働かない頭で、どうにか話題を探した。
「レオリオ」
「なんだ」
「レオリオは、医者になるためにハンターになりたいんだよね」
「ああ。まあな」
レオリオは照れくさそうに鼻の下をこすった。
「医者になるにも、病院を作るにも金がいるからな」
「……すごいね」
アズリルはゆっくりと視線を上げた。眠さや疲れのせいか、身体がやけに熱く、頬もほんのり赤い。アズリルは立てた膝に腕を重ね、そこへ頬を預けていた。眠たげに細めた目で、ぼんやりとレオリオを見上げている。
「立派だよ」
「そ、そうか?」
レオリオの声が上ずった。
先ほどまでの緊張が解けたせいか、今度は別の意味で落ち着かなくなってくる。少し前屈みになったアズリルの襟足がさらりと流れ、首筋からうなじへ続くなめらかな線が、洞窟の薄闇の中に覗いていた。
レオリオは慌てて視線を逸らした。見ないようにすればするほど、かえってその光景が頭に残ってしまい、妙に喉が渇く。
「そんな立派な目標があったらなぁ」
アズリルがぽつりと言った。
「自分には、何もないや」
その言い方は小さく、寂しそうだった。
レオリオははっとして、慌てて首を振る。
「そ、そんなことねえよ!」
アズリルは小さく瞬きをして、腕に預けていた頬をゆっくりと上げた。
「十分立派だろ。ここまで残ってんだぞ。お前、ずっとすげえよ」
「そう……かな」
「そうだよ。いいハンターになれるさ」
アズリルは照れたように笑った。
「ありがとう」
その笑みを見た瞬間、レオリオは言葉に詰まった。
アズリルはしばらくそのままレオリオを見上げていたが、やがて支えていた力がふっと抜けたように、横へ身を傾けた。
こてん、と小さな重みが、レオリオの肩に乗る。
「……おい」
「ごめん。頭が重いんだ……ちょっと借りていい?」
アズリルの言葉は、眠気でかすれていた。
髪がレオリオの頬の近くに触れ、柔らかい香りが洞窟の湿った空気に混ざる。
「……あ、ああ」
レオリオは喉を鳴らした。
アズリルの呼吸が、布越しにかすかに伝わってくる。ゆっくり吸って、ゆっくり吐くたびに、その熱が肩口へじわりと染み込んでくるようだった。
これは。
もしかして。
もしかして、脈ありってやつなのか。
レオリオは、自分でも馬鹿なことを考えていると思った。こんな場所で、助けを待つしかない状況で、毒蛇もうじゃうじゃいるというのに、それでもアズリルはあまりにも隙だらけだった。
レオリオはちらりと隣を盗み見て、それから確かめるように周囲へ視線を走らせる。洞窟の奥には、二人がもっと離れて座れるだけの広さがあった。わざわざこんな近くに腰を下ろす必要なんてない。
それなのにアズリルは、レオリオのすぐ隣を選び、さらに身体を寄せるようにして預けている。
偶然じゃない。
そう思いたかった。
これはきっと、そういう意味なのだ。
そう自分に言い聞かせるほど、胸の奥で、押し込めていた欲がじわじわと形を持ちはじめる。
恐る恐る、レオリオは手を伸ばした。
指先がアズリルの髪に触れる。
細くて、思ったより柔らかい。レオリオは躊躇いながら、ゆっくり髪を撫でた。
アズリルは目を閉じたまま、息を吐く。
「……気持ちいい」
その一言で、レオリオの耳まで一気に熱が上った。さっきまでの予感が、都合のいい確信に変わっていく。
「ア、アズリル」
「ん……?」
アズリルはゆっくりとまぶたを上げた。焦点の合いきらない潤んだ眼差しが薄闇の中で揺れて、その頼りなさが、レオリオにはまるで自分を受け入れているように見えてしまった。
レオリオは、髪を撫でていた手をそこで止めた。
ここから先は、もうただの勘違いでは済まなくなる。
ここまで踏み込まれても、アズリルは拒まなかった。警戒するどころか、安心しきったように力が抜けている。
自分だけじゃない。
そう思っていいはずだ。
喉の奥で息を呑み、レオリオはその肩へ手を置いた。細い肩は、力を入れれば壊れてしまいそうで、自然と手つきが慎重になる。
肩に置いた手へわずかに力を込めると、その身体がゆっくりとこちらを向いた。
「……?」
「アズリル」
その一言は、自分でも驚くほど低く出た。
返事はなかった。ただ、アズリルは力の抜けた身体をレオリオに預けたまま、浅く息をしている。
レオリオはもう片方の手を伸ばし、アズリルの背中へ回した。
抱き寄せる。
ほとんど抵抗はなかった。
そのぬくもりが腕の中に収まった瞬間、レオリオの腹の底で、認めたくない欲が脈打った。
抱き寄せられたアズリルは、思いのほか高い体温に包まれ、意識をさらに深く沈ませていく。
「……どうしたの?」
アズリルが囁くように尋ねる。
その声が耳元に触れた瞬間、レオリオの肩がわずかに跳ねた。覚悟を決めるように、呼吸ひとつ分だけ身体を離すと、アズリルの顔がすぐそこにある。早まった吐息が、その鼻先をかすめた。
アズリルの視線はレオリオではなく、どこか遠くを見ていた。けれど今のレオリオには、それに気づく余裕など残っていない。
レオリオは喉の奥で息を呑み、聞こえるか聞こえないかくらいの低さで言った。
「……いいか?」
返事はなかった。
けれど、アズリルは彼の方を向いたまま、ゆっくり目を閉じていた。
それを見た瞬間、レオリオの中で、かろうじて掛かっていた枷が音もなく外れた。
アズリルは、まだ夢と現実のあわいを漂っていた。
誰かに呼ばれたような気もするし、ひどく温かいものに包まれているような気もする。身体は重く、意識は水底に沈んだまま浮かび上がれず、だから最初は、自分に何が起きているのか分からなかった。
気づいた時には、唇がぬるい熱に塞がれていた。
それは触れては離れ、また確かめるように重なった。離れるたびに生温い息が口元を掠め、ぼんやりした意識の底に、嫌な余韻だけが沈んでいく。
何度か繰り返されるうちに、その触れ方は少しずつ強くなっていった。逃げ場を塞ぐような近さと重みに、沈みかけていた意識がようやく浮かび上がる。
はっとした時には、唇を塞いでいた熱が、さらに奥へ踏み込もうとしていた。
ぬるりとした弾力のものが、唇を割って口内へ滑り込んでくる。
侵入してきた感触が、口の中を探るように動いていた。
こんなものを受け入れたことは、一度もない。
それが舌に触れ、絡め取られるように吸い上げられた瞬間、背筋が冷えた。
そのあまりの生々しさに、沈んでいた意識は一瞬で覚める。
遅れて、身体が拒絶するように強張った。
「っ、嫌……っ」
自分でも思った以上に、はっきりと拒絶がこぼれた。
逃れようとして、アズリルは必死に身体を捩る。
「っ!」
レオリオは弾かれたように身を離した。
「わ、悪かった! すまねえ!」
慌てて両手を離し、距離を取る。
「その、同意があるのかと……いや、違うな。本当に悪かった。俺、何やってんだ……!」
アズリルは声を詰まらせたまま、何も言えなかった。何が起こったのか、自分でもまだうまく理解できていない。ただ、レオリオがひどく動揺していることだけは分かった。
レオリオは、羞恥と後悔に押し潰されたように黙り込んでいた。
アズリルは気まずそうに目を逸らした。
同意があると思った。
その言葉で、ようやく分かった。
レオリオは、自分を女だと思っていたのだ。だから、あんなふうに触れた。
そこまで理解した瞬間、自分が言い忘れていたことの重さが、遅れてのしかかってきた。
言わないと。
ここで黙ったら、もっとひどいことになる。
アズリルは拳を握りしめ、震える息を吐いた。
「男なんだ」
洞窟の中に沈黙が落ちた。水滴の落ちる音だけが、やけにはっきり響く。
レオリオは固まった。
「……は?」
それは返事というより、理解できなかった音に近かった。
「……僕、男なんだ」
アズリルは、念を押すようにもう一度言った。
レオリオは頭から足先までアズリルを見た。そして、みるみる青ざめていく。
「……男」
「レオリオ……ごめん」
レオリオは何も言わなかった。
ゆっくりと立ち上がり、洞窟の反対側へ移動すると、壁際に座り込む。膝に肘を置き、両腕で顔を覆ったまま、こちらを見ようともしない。
「レオリオ」
返事はない。
「すまない。もっと早くに言うべきだった。本当に申し訳ないことをした」
レオリオはぴくりとも動かない。
「レオリオ……」
アズリルはしゅんと肩を落とし、膝の上で指を握った。
レオリオを傷つけてしまった。それも、取り返しのつかない形で。
そう思うと、どうしたらいいのか分からなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
二人は一言も発さず、助けを待っていた。レオリオは相変わらず、アズリルから一番遠いところに座っている。膝の間に頭を抱え込むようにして、こちらを見ようともしない。
アズリルは、あの出来事ですっかり眠気が飛んでしまっていた。
残っているのは、罪悪感と、胸の奥にぽっかり空いたような喪失感だけだった。
もっと早く気づくべきだった。
最初から、ちゃんと言っておくべきだった。
同じ後悔ばかりが頭の中を巡っていた、その時。
アズリルは、長い間忘れていたものに気づいた。
手首には、黒い革紐が巻かれている。
「……ノクト」
あまりの慌ただしさに、一度も意識を向けていなかった。そのことに気づいた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
会いたい。
今すぐ、会いたい。
そう思っただけで、喉の奥がつかえ、目の奥が熱くなった。黒い革紐を握りしめる指先に力がこもり、ほんの少し呼吸が乱れる。
その拍子に、さっきのことが否応なく脳裏に蘇った。
口の中へ押し込まれた異物が、勝手に蠢くような感触が、まだはっきりと残っている。もう何も触れていないはずなのに、内側にぬるい気配だけがこびりついているようで、アズリルは思わず唇を引き結んだ。
思い出しただけで背筋が冷え、目元に溜まりかけていた熱が、さらに強く滲みそうになる。
自分が悪いのに。
もっと早く言っていれば、あんな勘違いは起きなかった。
レオリオの方が、きっとずっと傷ついているはずなのに。
それなのに、この苦しさだけは消えてくれなかった。息をするたびに泣きたい気持ちばかりが込み上げてくる。
アズリルは唇を噛み、膝の上で革紐を握ったまま、しばらくじっと俯いていた。
すぐそばにはレオリオがいる。蛇も、まだそこにいる。
今は泣いている場合ではない。
アズリルは何度か浅く息を吸い、目元に溜まりかけたものを押し戻すように瞬きをしてから、ようやく小さく首を振った。
そして、ちらりとレオリオを見る。
そのすぐ近くで、蛇が音もなく身を滑らせていた。
「レオリオ」
名前を呼んだつもりなのに、喉がかすれて、うまく響かなかった。
「悪かったから……せめて、もう少しだけこっちに寄ってくれないか。蛇が……」
レオリオの肩が、びくりと跳ねた。けれど彼は振り向かず、まるで聞こえなかったふりをするように、その場から動こうとしなかった。
アズリルは深く息を吐く。
その時だった。
天井近くの岩陰から、一匹の蛇が落ちた。
黒い影が床に跳ね、するするとレオリオの方へ這っていく。
「……!」
アズリルの血の気が引いた。
「レオリオ! 危ない!」
気づいたら身体が動いていた。
アズリルは蛇の行く手を阻むように、レオリオとの間へ咄嗟に足を突き出した。
その瞬間、鋭い痛みが足首に走る。
噛まれた。
「っ……!」
アズリルは痛みを堪え、反射的に蛇を蹴り飛ばした。細長い胴が壁に叩きつけられ、ぺしゃりと嫌な音を立てる。そのまま蛇は岩陰へ落ち、暗がりの中へ消えた。
「アズリル!!」
レオリオははっと我に返り、アズリルの元へ駆け寄った。
「噛まれたのか!?」
「大丈夫」
アズリルは慌てて首を振った。
「思ったより、そんなに痛くないや」
そう言って、何でもないことのように足を払おうとする。けれど、その顔は笑っているような、泣きそうなような、不自然な形に歪んでいた。
レオリオの目つきが鋭くなる。
「馬鹿野郎!!!」
怒鳴り声が洞窟に響いた。
「痛いとか痛くないとかの話じゃねえだろ! 毒蛇なんだぞ!!」
アズリルの身体がびくりと跳ねた。
今まで、自分にそんな剣幕を向けられたことがなかった。
何か言おうとした。けれど、声より先に視界が滲んだ。頬を伝って、何かがぽたぽたと落ちる。
涙だ。
自分でも、泣いているのだと気づくのに遅れた。
アズリルは慌てて袖で拭った。けれど、止まらない。
「……っ」
レオリオはそれを見て、はっとしたように青ざめた。
「悪い」
一気に勢いが削がれる。
「悪かった。怒鳴るつもりじゃなかった」
レオリオは膝をつき、アズリルの前に身を屈めた。
「助けてくれたんだよな。俺が悪い。俺が動かなかったから……八つ当たりした。悪かった」
「違う」
アズリルは首を振った。涙を拭いながら、何度も首を振る。
「僕が悪いんだ。ごめん。ごめん、レオリオ」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
罪悪感も、痛みも、情けなさも、全部が混ざって、ただ謝ることしかできない。
その謝罪はレオリオの胸を抉った。悪いのは俺だろ、なぜお前が謝る。そう叫びたいほどの自己嫌悪と罪悪感に、レオリオはきつく奥歯を噛みしめた。
「……いいから、今はそれより足を見せろ」
アズリルを蛇のいる場所から離し、壁際に座らせる。それから、噛まれた足首をそっと取った。
真新しい傷は、まだ大きく腫れてはいなかった。
レオリオは持っていたアタッシュケースを開く。中から布や器具を取り出し、手早く処置を始めた。
「動かすな。できるだけじっとしてろ」
アズリルは頷いた。
だが数分もしないうちに、噛まれた箇所から激痛が走る。
「っ……!」
足首から膝へ、焼けるような痛みが這い上がってくる。心臓の音に合わせるように、傷口がずきずきと脈打った。
レオリオは包帯を巻き、噛まれた足が余計に動かないよう固定する。
応急処置だった。
それ以上のことはできない。解毒できるものがなければ、症状は悪くなる一方だ。
クラピカたちは、まだ戻ってこない。
時間だけが過ぎていく。
最初は痛みだけだった。けれど、やがてアズリルの呼吸が浅くなり、額に汗が滲み始めた。一時間ほど経った頃には、もう自力で座っているのも難しくなっていた。
身体が傾くと、レオリオは慌てて支えた。
「悪い」
咄嗟に触れてしまったことへの謝罪だった。
レオリオは上着を丸め、慎重にアズリルの頭の下へ差し込む。簡単な枕代わりだった。
それからしばらく、アズリルはうなされるように浅い息を繰り返していた。そのたびに、レオリオは何度も謝った。
「本当に悪い。俺が意地張ってなきゃ、お前が噛まれることなんてなかった」
アズリルは返事をしようとした。
けれど、声がうまく出ない。
やがて吐き気が込み上げ、何度もえずいた。そのたびに、レオリオはアズリルの頭を支えた。
その手つきは怖いほど慎重で、触れるたびに謝るようだった。
やがて洞窟の天井が滲み始める。
レオリオの顔も、ぼやけていく。
次の瞬間、目の前がふっと暗くなった。
「アズリル!」
最後に聞こえたのは、レオリオの焦った呼びかけだった。
それきり、意識が途切れた。