HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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アズリルの中に渦巻く何かと、兄レオンハルトの重すぎる愛。その優しい顔の裏に隠されたものが、少しずつ見えてくる回。


目覚めのあと

 深い眠りの底で、アズリルは幾重にも重なる夢を見ていた。

 

 城の長い回廊を歩いていたかと思えば、次の瞬間にはハンター試験の会場に立っていた。続いて、幼い頃、従者の目を盗んで一人で出かけた城下町の景色が滲むように現れる。雑踏に紛れて聞こえる人々の声、雨上がりの石畳から立ちのぼる湿った匂い。その先には、少し前を歩きながら手を引いてくれたノクトの背中があった。

 

 夢は途切れては繋がり、まるで水面に落ちた絵具のように形を変えながら、アズリルをどこか遠い場所へ運んでいく。場面は移ろい、音も匂いも少しずつ輪郭を失い、やがてそのすべてが、深い闇の中へ沈んでいった。

 

 その闇の中で、最初に見えたものは、根のようにも枝のようにも見えた。

 

 細く、白く、いくつにも分かれた何かが、音もなく這い広がっている。一本が二本に、二本がさらに四本へと枝分かれするたび、先端は闇の底で密かに繁殖する菌糸のように、静かに数を増やしていった。

 

 やがて白い根は、闇に閉ざされていた視界を端から端まで淡く侵食していく。それなのに、不思議と恐ろしさはなかった。

 

 胸の内側に空いた虚ろな場所へ、長いあいだ失われていたものが、ようやく戻ってくるようだった。

 

 それは喜びと呼ぶには静かすぎて、安堵と呼ぶにはどこか底知れない、奇妙な充足だった。

 

 アズリルは、それに触れようとした。

 

 手を伸ばしたつもりだった。けれど、闇の中へ伸びていったのは自分の腕ではなく、それもまた白い根だった。

 

 指ではなく、細く枝分かれした先端が、別の白い枝へ触れようとしている。

 

 その瞬間、白は音もなく膨れ上がった。

 

 境目は溶け、奥行きさえ曖昧になり、闇は白に食い破られ、やがて視界は真っ白に染まった。

 

 その白の向こうから、かすかな声が聞こえてくる。

 

 

「……ではないのか」

 

 声は遠く霞み、膜を何枚も隔てた向こう側から届いているようだった。

 

「……頼むよ」

 

 ひどく切羽詰まった響きだった。

 

「……洞窟の中で何があったんだ」

 

 白い世界に、細いひびが入る。

 

 声が近づいてくる。

 

「アズリル?」

 

 まぶたが、ぴくりと動いた。

 

「起きたのか?」

 

 重い。

 

 まぶたに石でも乗せられているのではないかと思うほど、目を開けるだけで力が要った。それでもアズリルは、眠りの底に沈んだままの意識をどうにか引き上げ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。

 

 焦点が合うまで、しばらくかかった。視界の中で滲んでいた色が少しずつ形を結び、淡い金色の髪と、凛とした面差し、こちらを真剣に見下ろす瞳が見えてくる。

 

「……クラピカ」

 

 喉はひどく乾いていて、実際に漏れたのは、名を呼ぶにはあまりにも頼りない、かすれた息に近い音だけだった。

 

 クラピカの眉が、わずかに動く。

 

「無理に話すな。具合はどうだ。どこか痛むところはあるか?」

 

 アズリルは返事をしようとしたが、言葉の意味が頭に届くまでに少し時間がかかった。

 

 ここはどこだろう。

 

 洞窟ではない。蛇の這う音もしなければ、湿った岩肌の匂いもしない。代わりに鼻先をかすめるのは、消毒薬に似た清潔な匂いと、洗い立ての布のかすかな香りだった。

 

 視線を少し動かすと、白い壁と簡素な棚、薬品の瓶が並ぶ机が見えた。どこかの医務室のようだった。

 

 アズリルが身体を起こそうとすると、クラピカがすぐに支えた。枕を背に差し込みながら、急かすことなく、ゆっくりと上体を起こしてくれる。

 

 視界が少し揺れた。

 

 それでも意識は、少しずつ戻ってきていた。

 

 最初に口をついて出たのは、クラピカの質問への答えではなかった。

 

「……レオリオは?」

 

 クラピカの動きが、ぴたりと止まる。

 

 ほんのわずかに、視線が部屋の入口の方へ流れた。

 

 アズリルもつられてそちらを見る。

 

 扉のそばに椅子があった。その前で、レオリオが立ち尽くしたまま、こちらを見ている。

 

 顔色は悪く、目の下には疲労の影が濃く残っていた。けれど、ちゃんとそこにいた。

 

「あ……」

 

 安心したような息が漏れる。

 

 それきり、部屋に短い沈黙が落ちた。

 

 クラピカは何か言いたげにレオリオを見たが、すぐに視線を戻す。

 

「まず水だ」

 

 そう言って、机の上の水差しからコップへ水を注いだ。

 

「一人で飲めるか?」

 

 アズリルは頷いたつもりだった。けれど差し出されたコップを受け取ろうとした手は、自分でも驚くほど震えていた。

 

 クラピカはそれを見ると、何も言わずにベッドの縁へ腰を下ろす。

 

「無理をするな」

 

 片手でコップを支え、もう片方の手でアズリルの背を軽く支えると、ゆっくり水を口元へ運んでくれた。

 

 冷たい液体が唇に触れ、少しずつ口の中へ流れ込む。喉を通った瞬間、乾ききっていた身体の内側に、細い水脈がすっと通っていくようだった。

 

 アズリルは時間をかけて水を飲んだ。

 

 一口、また一口。

 

 コップが空になる頃には、ぼやけていた意識も少しだけ形を取り戻していた。

 

「……あの後」

 

 かすれた声で、アズリルは尋ねる。

 

「どうなったの?」

 

 その問いは、自然とレオリオへ向いていた。

 

 レオリオは扉のそばに立ったまま、拳を握っている。何か言おうとして、けれど言葉が喉の奥で凍りついているようだった。

 

 代わりに、クラピカが答えた。

 

「私とゴンが戻った時には、君たちはもう洞窟の前にいた」

「洞窟の……前?」

「ああ。正確には、誰かに運び出された後だった」

 

 アズリルは瞬きをした。

 

「誰か?」

 

 クラピカの視線が、またレオリオへ向く。

 

 今度は、明らかに続きを促す目だった。

 

 レオリオはしばらく俯いていたが、やがて絞り出すように口を開いた。

 

「分からねえ」

 

 低く、掠れた声だった。

 

「誰だったのかは分からねえ。ただ……普通じゃなかった」

 

 アズリルは黙って続きを待った。

 

 レオリオの拳に、さらに力がこもる。

 

「俺は、お前が気を失った後、外へ連れ出そうとしたんだ。俺の服とか、上着とか……使えそうなもんは全部引っ張り出して、お前に巻いた。できるだけ肌が出ねえようにして、少しでも蛇に噛まれねえようにって」

 

 レオリオは説明するというより、その時の光景をひとつずつ思い返すように言った。

 

 言葉を切ったあと、苦いものを飲み込むように息を吐く。

 

「俺が盾になってでも、とにかく外へ出るしかねえと思った。けど、お前を抱え上げた瞬間、急に空気が変わったんだ。何かは分からねえ。ただ、肌がぞわっとするような、強い圧が来た」

 

 話しているうちに、レオリオの表情はさらに強張っていった。

 

「床を這ってた蛇が、一斉に止まった。天井にいたやつらも、ばたばた落ちてきて……落ちた後も、ぴくりとも動かなかった。死んだのか、気絶したのかは分からねえ。ただ、普通じゃなかった」

 

 アズリルは思わず息を呑んだ。

 

 自分が意識を失った後、そんなことが起きていたなんて、少しも知らなかった。

 

「俺も力が抜けて、その場に座り込んじまった。身体が動かなかったんだ」

 

 レオリオは歯を食いしばる。

 

「気づいたら、人影があった。そいつがアズリルを持ち上げて、洞窟の外へ出ようとしていた」

「……何者かは分からなかったんだな」

 

 クラピカは低く確認するように言った。

 

 レオリオは苦しげに頷く。

 

「分からなかった。だから、咄嗟に腕を掴んだ。でも、振り払われた。こっちはろくに立てもしねえのに、そいつは俺なんか最初からそこにいないみたいに、平然と歩いていった」

 

 アズリルは自分の手元を見下ろした。

 

 記憶にはない。

 

 洞窟でレオリオに名前を呼ばれながら、意識が薄れていったところまでは覚えている。けれど、それより後のことは何も思い出せなかった。

 

「やっと動けるようになって外に出たら、アズリルは入口の近くに寝かされてた。そいつの姿はもうなかった」

 

 レオリオはそこで、一度息を吐く。

 

「ただ、お前の横に、空になった解毒剤の瓶が置いてあった。俺の手持ちにはなかった薬だ。そいつが使ったんだと思う。そこへすぐ、クラピカたちが戻ってきた」

 

 クラピカが続ける。

 

「その後は、私とゴンで君を出発地点まで運んだ。試験終了を待って飛行船に乗り、ハンター委員会側の医療班に診てもらった。今は、ひとまず安静にしていろと言われている」

「……そう、だったんだ」

 

 アズリルは、どうにかそれだけを言った。

 

 説明は理解できる。けれど、疑問は何ひとつ解けていなかった。

 

 誰が助けてくれたのか。

 どうして助けてくれたのか。

 なぜ、解毒剤まで持っていたのか。

 

 感謝より先に、得体の知れない不安が胸に残る。

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 その沈黙の中で、レオリオだけが扉のそばに立ち尽くし、拳を握りしめている。何かを言わなければならないのに、どう切り出せばいいのか分からない。そんなふうに、彼の表情は少しずつ苦しげに歪んでいった。

 

 やがて、耐えきれなくなったように、レオリオは大きな音を立てて床に膝をついた。

 

「本当に申し訳なかった!!」

 

 その声が部屋に響く。

 

 アズリルは目を見開いた。

 

 クラピカも、驚いたように固まる。

 

「俺に何かできることがあれば、何でもする。殴りたきゃ殴れ。罵りたきゃいくらでも罵れ。俺は……俺はお前に、最低なことをした」

 

 レオリオの声は震えていた。

 

「許してくれなんて言わねえ。けど、頼む。何か、俺に償わせてくれ」

「レオリオ……?」

 

 アズリルは一瞬、何のことか分からなかった。

 

 けれど次の瞬間、洞窟の中で起きたことが鮮明に蘇る。

 

 胸が、きゅっと痛んだ。

 

「レオリオ、やめて」

 

 アズリルは慌てて身を起こそうとする。

 

「謝らないでほしい」

 

 しかし、身体はまだ思うように動かなかった。力を入れた途端、視界が揺れ、上体が傾く。

 

「アズリル!」

 

 隣にいたクラピカがすぐに支えた。

 

 アズリルはクラピカの肩にもたれる形になり、乱れた息を吐く。それを見たクラピカの目が鋭くなった。

 

「レオリオ、やめるんだ」

 

 声は静かだったが、刃のような厳しさがあった。

 

「まだ病人だ。何があったかは知らないが、今ここで詰め寄る話ではない」

 

 レオリオは、はっとしたように顔を上げる。

 

「あ……そう、だな。その通りだ。悪かった」

 

 慌てて立ち上がったものの、どこに目を向ければいいのか分からないように視線が泳いでいた。

 

「悪い。本当に……悪かった」

 

 そう言い残し、逃げるように部屋を出ていく。

 

 クラピカは深く息を吐き、アズリルを元の位置へ戻す。枕に背を預けさせ、乱れた布を整える手つきは、呆れているようでいて丁寧だった。

 

「まったく……」

 

 アズリルは不安げにクラピカを見た。

 

「クラピカ……」

「分かっている。様子を見てくる」

「……ありがとう」

 

 声はほとんど息のようだったが、クラピカには伝わったらしい。

 

 彼は立ち上がり、扉へ向かいかけた。

 

 しかし、その手が扉に触れる前に止まる。

 

 ゆっくり振り返った。

 

「アズリル」

「……?」

「ひとつだけ確認させてくれ」

 

 クラピカの表情は真剣だった。

 

「飛行船に乗ってから、レオリオは君の容態が落ち着くまで、ほとんど寝ずにそばにいた。だが、医療班が離れてからは、必ず私かゴンが同席するようにと言って、君と二人きりになることを避けていた」

 

 アズリルは何も言えなかった。

 

 クラピカの目は、まっすぐこちらを見ている。

 

「理由を聞いても、あいつは答えなかった。だから、まさかとは思うが」

 

 そこで一度、クラピカは言葉を切った。

 

「洞窟の中で、レオリオに無理やり何かされたわけではないのだな?」

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

 アズリルは一瞬だけ息を止める。けれど、次には首を振っていた。

 

「大丈夫だよ」

 

 できるだけ穏やかに聞こえるようにしたつもりだった。

 

「レオリオは、そんなやつじゃない」

 

 それは嘘ではなかった。

 

 少なくとも、アズリルにとってはそうだった。

 

 あれは、自分が招いた事故だ。

 

 クラピカはしばらくアズリルを見つめていた。

 

 完全には信じていない顔だった。けれど、それ以上追及はしなかった。

 

「……分かった」

 

 静かにそう言い、部屋を出ていく。

 

 扉が閉まった。

 

 ようやく、一人になった。

 

 アズリルは大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。そのままベッドへ沈み込む。

 

 色々なことがありすぎて、頭が追いつかなかった。考えようとするたび、出来事の輪郭は霧の向こうへ遠ざかり、掴もうとした端から曖昧になっていく。

 

 ただ、不思議なことに、身体は思ったより軽かった。毒と薬の影響で、まだ手足には力が入らず、少し動くだけで息も上がる。それでも、四次試験の間ずっと身体にまとわりついていた異様な眠気は、嘘のように引いていた。

 

 まるで、身体の奥に溜まっていた淀みが、毒と深い眠りに晒されるうち、知らない間に剥がれ落ちてしまったみたいだった。

 

 けれど。

 

 もう、ここで終わりなのだろう。

 

 アズリルはそう思った。

 

 四次試験を落ちたであろう今、城へ戻ることになる。

 

 残念ではあった。けれど、どこかでほっとしている自分もいた。

 

 ここまで来られただけで十分だ。周りの受験者たちを見れば、自分がここまで残れたこと自体が奇跡みたいなものだった。

 

 城に戻れば、ノクトに会える。兄上にも会える。旅はまた、いつか行けばいい。もっと強くなってからでも遅くない。

 

 そう思おうとした。

 

 その瞬間だった。

 

 腹の底から、何かが這い上がってきた。

 

 ぞわり、とした感覚。

 

 内側から心臓を掴まれ、息を止められるような不快感だった。

 

 帰る。

 

 その言葉を、身体のどこかが拒んでいる。

 

 アズリルは思わず腹を押さえた。

 

「……っ」

 

 何かが内側でぐるりと回り、喉元までせり上がってくる。

 

 気持ち悪い。

 

 込み上げてきたものに、アズリルは小さくえずいた。

 

 その時だった。

 

「まだ具合が悪いようじゃのう」

 

 突然聞こえた声に、アズリルは必要以上に肩を跳ねさせた。

 

「ね、ネテロ……さん」

 

 思わず昔のように呼び捨てにしかけて、慌てて言い直す。

 

 いつの間に入ってきたのか。

 

 その声を聞いた途端、腹の底で渦巻いていた感覚が、煙のようにすっと薄れていくのが分かった。

 

 ネテロは扉のそばに立っていた。いつからそこにいたのか、いつものように手を後ろで組み、涼しい顔でこちらを見ている。

 

「久しぶりじゃのう、アズレイ皇子」

 

 その名を聞いた瞬間、アズリルは反射的に周囲を見回した。

 

「大丈夫じゃ」

 

 ネテロは愉快そうに目を細める。

 

「人払いはしておる。大事な話があるからの」

「大事な話……?」

 

 再会を懐かしむには、あまりにも唐突な切り出し方だった。

 

 ネテロはベッドのそばに歩み寄る。

 

「最終試験にあたっての面談じゃ。もっとも、今のおぬしに長々と話を聞けるだけの体力があるようには見えんがの」

 

 アズリルは目を瞬かせた。

 

「……でも、僕は四次試験で落ちたはずですよね」

「聞いておらんのか」

「え?」

「おぬしは合格扱いじゃ」

 

 ネテロは軽く言った。

 

「意識を失ったおぬしを、友人たちが出発地点まで運んできた。番号プレートも確認済み。条件は満たしておる」

「そんな……」

 

 アズリルは困惑した。

 

「意識がないまま運ばれて、それで合格だなんて」

「合格は合格じゃ」

 

 ネテロは、いつもの調子でさらりと言った。

 

「仲間に助けられることも、運を拾うことも、時には実力のうちじゃよ。もちろん、おぬしが最終試験を辞退したいというなら話は別じゃがな」

 

 ネテロは片眉を上げ、何かを確かめるようにアズリルを見た。

 

 アズリルは頭の中で理由を探そうとした。けれど、考えが形になるより先に、言葉の方が口をついて出ていた。

 

「辞退はしません」

 

 声はまだ弱かった。

 

 それでも、その一言だけは不思議なほどはっきりしていて、言い終えたアズリル自身が、誰よりも驚いたように目を瞬かせた。

 

 けれど、一度口にしてしまえば、もう引き返せない。

 

 アズリルは少しだけ唇を引き結び、戸惑いを押し込めるようにして続けた。

 

「……せっかく助けてくれたのに。ここでやめたら、意味がなくなります」

 

 ネテロはしばらくアズリルを見ていた。

 

 そして、ほっほっほ、と笑う。

 

「そうかそうか」

 

 その笑い方はいつも通りだった。

 

 けれど、目の奥だけが少し違って見えた。

 

「ならば、その答えで十分じゃ。細かい面談は、もう少し顔色が戻ってからにしよう。まだ目覚めたばかりだ、今は休むがよい。最終試験までは、まだ少し時間がある」

 

「はい……」

 

 ネテロは踵を返す。

 

 その背中を見送っていると、遅れて懐かしさが胸に広がった。昔と変わらない声も、歩き方も、何もかも見透かしているようでいて、決して肝心なところは掴ませない気配も、そのままだった。

 

 アズリルはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ──……✶……──

 

 遠く離れたオルドヴィアの城では、二日遅れの報告が皇帝のもとへ届いていた。

 

「本当に命に別状はないのだな」

 

 低く問う声に、伝令は深く頭を下げる。

 

「はい。確認したところ、軽い脱水症状と疲労、毒による一時的な衰弱は見られますが、解毒は済んでおります。後遺症の可能性も低いとのことです」

「……そうか」

 

 ヴィクトルは短く答えた。

 

 表情は動かなかった。だが、報告がここまで遅れたことへの苛立ちは、声にならないまま腹の底に沈んでいた。

 

「報告は、まずレオンハルトに届いたのだな」

「……はい」

 

 伝令はわずかに言葉を詰まらせた。

 

「ノクト殿からの報告は、レオンハルト殿下を通して上げられております」

 

 ヴィクトルは低く息を吐いた。

 

「もういい」

 

 それ以上、伝令を責めても答えは出ない。遅れの理由など、問い詰めるまでもなく分かっていた。

 

 そもそも、ノクトを向かわせたのはヴィクトルではなかった。

 

 ノクトはレオンハルト直属の者だ。報告の優先順位も、当然レオンハルトが最上位になる。

 

 それでも、ネテロの目を避け、ハンター試験の監視をかいくぐってアズレイの様子を探れる者など、そう多くはない。だからこそ、ノクトを動かすのが得策だと判断したのだ。

 

 レオンハルトに一枚上手を握られているようで癪ではあった。だが、アズレイの無事を知る手段になるなら、それでよかった。

 

 ヴィクトルは机の上に置かれた報告書へ視線を落とす。

 

 報告書には、負傷から処置までの経緯が簡潔にまとめられていた。

 

 ヴィクトルが目を止めていたのは、その末尾に記された一文だった。

 

 最終試験への進出。

 

 ヴィクトルは眉間を指で押さえた。

 

「まさか最終試験まで残るとは」

 

 その時、窓辺から柔らかな声がした。

 

「考えが安易すぎましたね、父上」

 

 レオンハルトだった。

 

 いつからそこにいたのか、彼は窓際に立ち、外の庭を眺めていた。声音は柔らかい。けれど、言葉だけは容赦がなかった。

 

 ヴィクトルは低く唸るように息を吐いた。

 

「……いつ戻った」

「先ほどです」

 

 レオンハルトは窓の外へ視線を向けたまま答えた。

 

「ノクトからの報告を確認してから戻りました。伝言で済ませてもよかったのですが、どうせなら父上には、私の口からお伝えしようと思いまして」

 

 ヴィクトルの目がわずかに細くなる。

 

 やはり、わざと遅らせたのだ。

 

「……レオンハルト」

 

 その名には、咎める響きがあった。

 

 だがレオンハルトは、その響きさえ受け流すように微笑んだ。

 

「アズリルの件は、もう父上の負けです。あの子は、父上が用意した条件を越えるためなら、どこまでも無茶をする。最終試験も、きっと同じです」

 

 それは予測というより、アズリルという人間を知り尽くした者だけが口にできる、静かな確信だった。

 

「もしこれ以上、条件を積み上げて引き留めようとお考えなら、見苦しいですよ、父上」

 

 ヴィクトルの眉がわずかに動く。

 

 言葉は丁寧だった。

 けれど、その刃は隠されていなかった。

 

「そもそも、アズレイを外へ出すことに一番反対していたのはお前だろう」

 

 ヴィクトルは声を抑えて言った。

 

「何の風の吹き回しだ」

 

 レオンハルトは、すぐには答えなかった。

 

 わずかな沈黙のあと、もう一度だけ窓の外へ視線を戻す。

 

「……籠の中が一番安全とは限りません」

 

 ヴィクトルの目が細くなる。

 

「外に獣がいるように、城の中にも毒はあります。アズリルにとってこの城が、穢れのない安全な箱庭ではないことくらい、父上ならとっくにご存じでしょう」

「レオンハルト」

 

 低い声が落ちる。

 

 それ以上踏み込むな、という警告だった。

 

 レオンハルトは一拍置いて、ふっと微笑んだ。

 

 いつもの、優しい兄の顔に戻る。

 

「それに、閉じ込め続けても、あの子はいつか檻を破りましたよ」

 

 声音は穏やかだった。

 

「なら、こちらの手が届く範囲で好きにさせる方がいい。無理に押さえ込めば、あの子はきっと反発する。その時にはもう、こちらの声も手も届かないかもしれない」

 

 そこで、彼は少しだけ目を細めた。

 

「嫌われない程度に願いを叶えてあげる。自由を与えられたと思わせて、帰る場所だけは忘れさせない。どれだけ遠くへ行かせても、最後に戻る先はこちらだと、あの子自身に信じさせておく。……その方が、ずっと安全でしょう?」

 

 ヴィクトルは沈黙した。

 

 レオンハルトの言葉には、感情に溺れた者の危うさがなかった。むしろ、どこまでも冷静で、よく考え抜かれている。だからこそ、たちが悪い。

 

 本当は、誰よりもアズリルを手元に縛りつけておきたいのだろう。誰にも触れさせず、誰の目にも晒さず、自分だけの場所に閉じ込めてしまいたい。そういう欲が、この息子の中にないとは、ヴィクトルには到底思えなかった。

 

 だがレオンハルトは、その欲に溺れない。抑え、隠し、より柔らかく、より拒まれにくい形へと作り替える。

 

 それを、愛情の顔でやってのける。

 

 レオンハルトは窓の外へ視線を戻していた。

 

 柔らかな陽射しを受けた横顔は、どこまでも美しい。けれどヴィクトルは、その姿を見るたびに、苦く思い知らされる。

 

 この美しい化け物が、自分の息子なのだと。

 

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