HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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レオリオと仲直りし、ネテロとの面談を通して、アズリルは外へ出たいという願いの意味をあらためて知る。


悔いのないように

 城を出てから初めて、アズリルは心ゆくまで身体を休めていた。

 

 少なくとも今だけは、何かに追い立てられることもなかった。身分が露見しないよう息を詰める必要も、誰かの言葉に心を乱され、相手の出方を窺う必要もない。

 

 ただ柔らかな寝台に身体を預け、白い天井を眺め、眠気が来ればそのまま目を閉じる。

 

 そんな当たり前の休息が、今のアズリルにはひどく贅沢なものに思えた。

 

 半日ほど眠っただけで、身体は驚くほど回復していた。噛まれた足首にはまだ鈍い痛みが残っているが、体重をかけても耐えられないほどではない。

 

 だからこそ、じっとしているのがつらかった。

 

 歩こうとしたところをクラピカに見つかり、まだ早いと冷静に止められる。それからは仕方なく、アズリルは狭い部屋の中でしおしおと過ごしていた。

 

 レオリオのことも気になっていたが、クラピカによれば、まだ時間が欲しいらしい。そう言われてしまえば、待つことしかできない。

 

 休めるのはありがたい。けれど、何もすることがない時間は思った以上に長く、じっとしているほど、身体の奥まで落ち着かなくざわつくようだった。

 

 そんな時だった。

 

 部屋の扉が軽く叩かれ、ゴンとキルアが顔を出した。

 

「アズリル、起きてる?」

「死んだみたいに寝てたって聞いたけど」

「死んでないよ。おかげさまで、だいぶ元気」

 

 思わずそう返すと、キルアはにやっと笑った。

 

 ゴンは明るく笑っていて、キルアは両手を頭の後ろで組みながら、勝手知ったる様子で部屋に入ってくる。

 

 その空気に、アズリルはほっとした。

 

 クラピカやレオリオがいる時とは、また違う。ゴンとキルアがいると、不思議と部屋の狭さが少しだけ気にならなくなる。試験の最中でも、危険な場所でも、二人はどこか伸びやかで、そばにいるだけで空気が軽くなるようだった。

 

 ゴンは寝台の横の椅子に腰を下ろし、アズリルの顔をじっと見た。

 

「顔色、さっきよりだいぶいいね。よかったよ」

 

 そう言って、安心したように笑う。

 

 キルアは「退屈そうだな」と言って、どこからか持ってきた菓子の袋を開け始めた。見舞いのつもりだったのかもしれないが、結局ほとんど自分で食べている。

 

 それからしばらく、三人で他愛のない話をした。

 

 やがて、キルアが扉の方をちらりと見た。

 

「オレ、ちょっと外の様子見てくる。最終試験場、もう近いんだろ」

「うん」

「ゴンは?」

「オレ、もうちょっとここにいる」

「そ」

 

 キルアは軽く肩をすくめた。

 

「じゃ、あとでな」

 

 そう言って、部屋を出ていく。

 

 扉が閉まると、部屋の中は静かになった。

 

 アズリルが退屈しないように残ってくれているのだろう。そう思うと嬉しかったが、しばらくして、アズリルはゴンの様子がいつもと違うことに気づいた。

 

 ゴンは壁の方を向いたまま、どこか遠くを眺めているようだった。いつもの明るさが、わずかに薄い。

 

「……ゴン」

 

 声をかけると、ゴンははっとしてこちらを向いた。

 

「ん?」

 

「四次試験、どうだった?」

 

 踏み込みすぎただろうか。

 

 けれど、聞かずにはいられなかった。ゴンの表情の奥に、何か引っかかっているものがある気がしたからだ。

 

 ゴンはすぐには答えなかった。膝の上で手を握り、しばらく黙っている。

 

「……プレートは、集まった」

 

 やがて、ゴンはぽつりと言った。

 

「でも、納得はしてない」

 

 ゴンは一度唇を結んでから、ゆっくり話し始めた。

 

「オレのターゲット、ヒソカだったんだ」

 

 アズリルは思わず息を止めた。

 

「ヒソカが?」

「うん」

 

 ゴンは小さく頷く。

 

「プレートは、一回取れたんだ。ちゃんと作戦立てて、ずっと待って、タイミング見て……取れた」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 ゴンの手に力が入る。

 

「でも、そのあとあっさり別のヤツに取られちゃった。結局、ヒソカがそいつからプレートを奪い返して、オレのとこに置いてったんだ」

 

 アズリルは黙って聞いていた。

 

「ヒソカは、これは貸しだとか言って。オレ、いらないって言ったらぶっ飛ばされた」

 

 ゴンの声が、少しずつ低くなっていく。

 

「何もできなかった」

 

 その一言は、ひどく重かった。

 

「やり返せなかったんだ。何もできなかった自分が、すごく悔しかった」

 

 ゴンの肩がかすかに震えた。

 

 膝の上に、ぽとり、ぽとりと雫が落ちる。

 

 そこでようやく、アズリルはゴンが泣いているのだと気づいた。

 

 アズリルは息を呑む。

 

 いつも真っ直ぐで、明るくて、怖いものにもためらわず向かっていくような少年が、今は俯いたまま声を震わせていた。

 

 自分が泣くことは、何度もあった。

 

 けれど、誰かが自分の前で泣いているところを見ることは、ほとんどなかった。

 

 慰められることには慣れていても、慰める側に回ったことはない。

 

 だから、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 アズリルはおろおろとゴンを見つめる。

 

 その時、ふと昔のことを思い出し、手を伸ばした。

 

 ゴンの頭に、そっと指先を置く。

 

 ゴンは俯いたまま、何も言わなかった。

 

 アズリルは迷いながら、そっと髪を撫でた。ゴンの髪は思ったより硬く、手のひらに跳ね返るような感触があった。けれど、手のひらの下にはちゃんと温もりがあって、震えていた肩がわずかに落ち着いていくのが分かった。

 

 それから、アズリルは濡れた頬へ手を伸ばして、親指で涙を拭った。

 

 うまく言葉にはできなかった。

 

 それでも、大丈夫だと伝えたかった。

 

 泣いてもいい、悔しくてもいい。そんなことを、言葉ではなく、どうにか行動で伝えようとした。

 

 ゴンが不思議そうに顔を上げる。

 

 目が合った瞬間、アズリルは急に照れくさくなり、慌てて手を引っ込めた。

 

「ご、ごめん。嫌だった?」

「ううん」

 

 ゴンは首を振った。

 

「びっくりしただけ」

 

 アズリルは迷った末に、口を開いた。

 

「僕も、三次試験でヒソカと組んだんだ」

 

 ゴンがこちらを見る。

 

「ずっとからかわれてた。あの人、僕のことなんて、最初から相手にしてなかった。何をしても、何を言っても、ただ面白がって眺めてるだけで……すごく腹が立った」

 

 言葉にするほど、ヒソカといた時の感覚が蘇ってくる。わざと距離を取られ、苦しんでいてもすぐには助けてもらえず、反応ひとつひとつを試すように笑われた。どこへ逃げても、あの人の掌の上にいる気がした。

 

「誰かにあんなに腹が立ったのは、たぶん初めてだったと思う。悔しくて、怖くて、でも何もできなくて。あの人は、ずっと僕より上にいた」

 

 アズリルは苦笑した。

 

「これが慰めになるのかは分からないけど……僕も、ちょっとだけ分かる気がする」

 

 ゴンはしばらく黙っていた。

 

 そして、小さく息を吐く。

 

「そっか」

 

 その声は、さっきより軽かった。

 

「アズリルも、悔しかったんだ」

「うん」

「……ありがと」

 

 そう言って、ゴンは少しだけ笑った。

 

 その笑顔を見て、アズリルの内側がふっと温かくなる。

 

 それからゴンは、自分の育った島のことや、そこにいる大切な人たちのことを話してくれた。そして、自分が父親を探していることも。

 

 ゴンの話は、どれも不思議と鮮やかだった。

 

 アズリルはその景色を知らない。島も、海も、森も、ゴンが語るような自由な日々も知らない。けれど聞いているだけで、心の奥に小さな火が灯るようだった。

 

 幼い頃、ネテロの旅の話を聞いて胸を弾ませていた時の感覚に似ている。外へ出たいと、ずっと思っていたはずなのに、その気持ちはまるで長いあいだ眠っていたものが目を覚ましたように、ひどく懐かしかった。

 

 その懐かしさの余韻が、まだ胸の内側に残っているうちに。

 

 扉が、また軽く叩かれた。

 

 ゴンが顔を上げる。

 

「誰だろ」

「……どうぞ」

 

 扉が少しだけ開いた。

 

 顔を覗かせたのは、レオリオだった。

 

「……ちょっと、いいか?」

 

 扉のところに立ったまま、ひどく気まずそうな顔をしている。

 

「レオリオ」

 

 アズリルは驚いて、それからすぐにゴンを見た。

 

「ゴン、ごめん。少しだけ、二人で話してもいい?」

 

 ゴンはアズリルとレオリオを交互に見た。

 

 そして、何かを察したように頷く。

 

「うん。じゃあ、オレ外にいるね」

「ありがとう」

 

 ゴンは椅子から立ち上がり、レオリオの横を通って部屋を出ていく。

 

 すれ違う時、ゴンはレオリオを見上げて、いつものように真っ直ぐ言った。

 

「レオリオ、アズリルまだ病み上がりだから、あんまり無理させちゃだめだよ」

「分かってる」

 

 レオリオは気まずそうに答えた。

 

 扉が閉まる。

 

 部屋には、さっきとは違う静けさが残った。

 

 レオリオはぎこちなく部屋に入り、また入口に近い場所で立ち止まろうとした。

 

 アズリルはそれを見て、すぐに言った。

 

「そこじゃなくて、こっち。座って」

 

 レオリオは困ったように眉を下げたが、寝台のそばまで近づき、椅子へ浅く腰を下ろした。目が合うと、すぐに気まずそうに逸らす。

 

 その様子を見ただけで、アズリルには分かった。

 

 また謝るつもりだ。

 

 レオリオが何かを言いかけた瞬間、アズリルは先に口を開いた。

 

「もう謝罪なんて聞きたくないからね」

 

 レオリオがぎくりと固まる。

 

 アズリルはまっすぐレオリオを見た。

 

 その目は本気だった。

 

「怒ってるからじゃない。そもそも、僕に怒る資格なんてないんだから」

「そんなこと──」

 

 反論しかけたレオリオを、アズリルは睨むように見た。

 

 レオリオは言葉を飲み込む。

 

 アズリルは息を整えてから続けた。

 

「初めてレオリオが話しかけてくれた時のこと、覚えてる?」

「……ああ」

「あの時から、勘違いしてたんだよね」

 

 レオリオは気まずそうに視線を泳がせる。

 

「……悪い」

「だから謝らないでって」

 

 アズリルは少しだけ笑った。

 

「女の子だと思われて、あんなふうに扱われた時は、最初は腹が立った。ひどい態度も取ったと思う。でも……本当は、すごく嬉しかった」

 

 レオリオが驚いたように顔を上げる。

 

 アズリルは慌てて首を振った。

 

「あ、間違われたことが嬉しかったんじゃなくて。……レオリオは、この試験で初めて、ちゃんと僕を知ろうとしてくれた人だった。僕にとっては、それがすごく大切だったんだ」

 

 言葉にすると、喉の奥が苦しくなった。

 

「なのに、変な誤解が続いたまま、訂正しなかった。多分、怖かったんだと思う」

「怖かった?」

「自分が男だって知られたら、もうレオリオが僕のことを友達として見てくれないんじゃないかって。前みたいに話しかけてくれないんじゃないかって」

 

 アズリルは目を伏せた。

 

「だから、無意識に本当のことを言うのを避けてた。僕も、ちゃんと悪かった」

「そ、そんなことねえよ」

 

 レオリオが慌てて言いかける。

 

 アズリルはそれを止めるように、片手を軽く上げた。

 

「最後まで聞いて」

 

 レオリオは口を閉じる。

 

 二人の間に、短い間が落ちた。

 

 アズリルは一度息を整え、言葉を選ぶように続ける。

 

「あの日のことは、僕は恨んでない。本当に。だから、レオリオが償わせてくれって言うなら、お願いがある」

 

 レオリオが顔を上げる。

 

 アズリルは、逃げずにレオリオを見た。

 

「これからも、前と変わらず僕の友人でいてくれないか」

 

 レオリオは答えなかった。

 

 顔を背けるようにして、拳を握る。

 

 アズリルは不安になり、慌てて続けた。

 

「もう誤解は解けたし、男同士なんだから、こんなことは水に流そうよ」

 

 その言葉に、レオリオが顔を上げた。

 

 思いのほか、つらそうな顔をしていた。

 

 アズリルは息を止める。

 

 しばらくして、レオリオが低く呟いた。

 

「……無理だ」

 

 胸の奥が冷たく縮んだ。

 

「僕と……友達ではいられない、ということか?」

 

 レオリオは何も言わない。

 

 その沈黙だけで、アズリルの胸は締め付けられた。

 

 傷つけたことは分かっている。

 

 けれど、その傷がここまで深いとは思っていなかった。

 

 アズリルは膝の上で拳を握った。

 

「そう、だよね。ごめん、レオリオ。僕の考えが甘かった」

「違う!」

 

 レオリオが慌てて顔を上げた。

 

「違うんだ。そうじゃねえ」

「……?」

 

 レオリオはしばらく口を開けなかった。何度か言いかけては、飲み込む。やがて、腹を括ったように低く息を吐いた。

 

「あれから、色々考えたんだ。俺はなんで、あんな態度を取っちまったんだって」

 

 アズリルは黙って聞いた。

 

「惚れた女が実は男で、ショックだったんだと思ってた。俺のせいで大事な友人を傷つけたっていうのもある。後半はそうだ。そこは間違ってねえ」

 

 レオリオは苦しげに目を伏せる。

 

「でも、前半は違うって、クラピカと話してて分かったんだ」

「違う?」

 

 アズリルは首を傾げた。

 

 レオリオは耳まで赤くなっていた。

 

「俺、多分……お前が女だろうが男だろうが、関係ねえんだと思う」

 

 アズリルは一瞬、意味が分からなかった。

 

「だから」

 

 レオリオは視線を逸らしたまま言う。

 

「前と変わらずなんて、無理だ」

 

 部屋が、しんと静まり返る。

 

 アズリルはその言葉を辿ろうとした。

 

 女でも男でも関係ない。前と変わらずにはいられない。

 

 そこまで考えた瞬間、ふいにノクトの顔が浮かんだ。

 

 ずっと憧れだと思っていたノクトへの気持ち。あの夜、胸の奥で別の形を持ち始めたもの。

 

 そこまで考えて、アズリルははっとした。

 

 顔が一気に熱くなる。

 

 レオリオもそれに気づいたのか、照れたように視線を逸らした。

 

 しばらく、二人は何も言えなかった。

 

 気まずい時間が続く。

 

 やがてレオリオが、片手で口元を隠しながら言った。

 

「べ、別に、俺がこう言ったからって、アズリルにどうこうしてほしいわけじゃねえんだ。ただ……知っててほしかっただけで」

 

 声が掠れていた。

 

「あと、やっぱり前みたいには接せねえ。何でもない顔で触れたりしたら……俺の心臓が持たねえ」

 

 そう言って、レオリオは顔を隠すようにそっぽを向いた。

 

 アズリルは、耳の先まで熱くなるのを感じた。

 

 告白されている。

 

 ようやく、はっきりそう認識した。

 

 自分がノクトに対して抱いているものを、この人は自分に向けてくれている。

 

 自分をそんなふうに見てくれる人がいる。そのことは、素直に嬉しかった。けれど、その気持ちを返せないと分かっているからこそ、同じくらい申し訳なかった。

 

 アズリルは間を置いて、慎重に言葉を選んだ。

 

「嬉しいよ、レオリオ」

 

 レオリオが一瞬、期待するようにこちらを見る。

 

 その目を見て、アズリルは胸が痛んだ。

 

 けれど、曖昧にするわけにはいかなかった。

 

「でも、ごめん。その気持ちは返せない」

 

 レオリオは少しだけ肩を落とした。

 

 けれど、どこか分かっていたような顔でもあった。

 

「……まあ、そうだよな」

 

 レオリオは小さく息を吐く。

 

「いいんだ。俺は、お前が俺の気持ちを聞いてくれただけで十分だ。悔いはねえ」

 

 その言葉に、アズリルはようやく息をついた。

 

 けれど、レオリオはそこで終わらせなかった。

 

 迷うように視線を落としてから、もう一度口を開く。

 

「でも……それとは別に、やっぱりちゃんと謝らせてくれ」

 

 アズリルは顔を上げた。

 

「洞窟で、俺がしたことだ。お前がどう思ってるかとは関係なく、あれは俺が悪かった。気が動転してたとか、勘違いしてたとか、そういうのを理由にしちゃいけねえ」

 

 レオリオの声は、さっきよりも低かった。

 

「怖かっただろ。嫌だっただろ。……本当に、悪かった」

 

 アズリルはすぐには答えられなかった。

 

 責めたいわけではなかった。けれど、何もなかったことにしていいわけでもないのだと、レオリオの言葉でようやく分かった気がした。

 

「……びっくりはした」

 

 小さくそう言うと、レオリオの肩がわずかに強張る。

 

 アズリルは迷ってから、続けた。

 

「ああいうの、初めてだったから」

 

 その瞬間、レオリオは言葉を失った。

 

 顔から血の気が引き、膝の上で握っていた拳にさらに力がこもる。

 

「……初めて、だったのか」

 

 声はほとんど掠れていた。

 

 アズリルは頬に熱が集まるのを感じながら、小さく頷いた。

 

「だから、どうしたらいいのか分からなかった。でも、怖かったというより……混乱した。どっちかというと、その後、レオリオが僕を嫌になったんだと思って、それが一番、苦しかった」

 

 レオリオは顔を歪めた。

 

「嫌になるわけねえだろ……」

 

 声が震えていた。

 

「俺が傷つけたのに、お前はそんなこと考えてたのかよ」

「だって、すごく怒ってたから……」

「怒ってたんじゃねえ。いや、怒ってたのは……自分にだ。お前にじゃない」

 

 レオリオは両手を膝の上で握りしめる。

 

「悪かった。初めてだったなら、なおさらだ。俺は、本当に最低なことをした」

 

 アズリルは首を横に振って、少しだけ息を吸った。

 

「ちゃんと向き合ってくれて、ありがとう」

 

 レオリオは何か言いかけて、それから困ったように笑った。

 

 短い沈黙が落ちた。

 

 さっきまでの気まずさとは違う、痛みが少しだけ形を変えたような沈黙だった。

 

 アズリルは、そっと手を差し出した。

 

 レオリオが不思議そうに見る。

 

「……握手」

「握手?」

「これは、クラピカともしたんだけど」

 

 アズリルは照れながら言った。

 

「これからも友達でいてほしいっていう、僕のお願いだ」

 

 レオリオは困ったように、けれど優しい目をした。

 

 それから、レオリオはおずおずとアズリルの手を取った。

 

 大きくて、熱い手だった。力を入れすぎないようにしているのが分かるのに、それでも確かな温度が伝わってくる。

 

 アズリルが顔を上げると、レオリオと目が合った。

 

 失くしかけたものを、もう一度結び直せたような気がした。

 

 その瞬間。

 

「ほっほ」

 

 扉の方から、愉快そうな笑い声がした。

 

 レオリオはがたっと音を立てて飛び上がり、寝台から距離を取った。

 

「ち、違う! これは誤解で──!」

 

 入口に立っていたのは、ネテロだった。

 

 いつの間に入ってきたのか、扉の隙間からひょいと顔を覗かせている。

 

「邪魔したかの?」

「してません!」

 

 レオリオが即答する。

 

「そろそろ面談を済ませておこうと思ってな」

 

 その言葉に、アズリルの背筋が伸びた。

 

 レオリオは気まずそうに咳払いをした。

 

「じゃあ、俺は外に出てる」

「レオリオ」

 

 アズリルが呼ぶと、レオリオは扉の前で足を止めた。

 

「ありがとう」

 

 何に対する礼なのか、きっと言葉にしなくても伝わった。

 

 レオリオは目を細める。

 

「ああ」

 

 それだけ言って、部屋を出ていった。

 

 

 

 

 扉が閉まると、部屋の空気が重くなった。

 

 さっきまでの気まずさと温かさが残っているせいで、余計に胸が落ち着かない。

 

 その上に、面談という言葉の重さが遅れてのしかかってくる。

 

 ネテロは、先ほどまでゴンやレオリオが座っていた椅子へ、当然のように腰を下ろした。

 

 アズリルはまだ寝台に横になっていたため、慌てて起き上がろうとする。

 

「よいよい。そのままで」

「でも……」

「病人を起こしてまで聞く話でもないわい」

 

 そう言われても、緊張は解けなかった。

 

 懐かしい相手でありながら、今はハンター協会の会長として自分の前にいる。アズリルは落ち着かない気持ちでネテロをちらりと見た。

 

 ネテロは髭を撫でながら、何でもないことのように手元の紙へ視線を落としている。

 

「ネテロ……」

 

 アズリルは小さく呼んだ。

 

 俯き加減で出たその声は、思ったより頼りなかった。

 

 緊張のあまり、昔のように名前を呼んでしまっていた。

 

「面談って……なにか変なこと言ったら、落とされる?」

 

 ネテロは一瞬きょとんとし、それから懐かしそうに目を細める。

 

「ほっほっほ。変わらんのう」

 

 アズリルははっとして、耳が熱くなるのを感じた。

 

「試験にまったく関係ないとは言わんが、落とすための問答ではない。参考までに、聞いておきたいだけじゃ」

 

 ネテロはそれ以上、昔のように甘やかすことはしなかった。

 

 ただいつものように髭を撫で、淡々と問いを続ける。

 

「最終試験まで残った者の中で、注目している者を教えてくれ」

「注目……」

 

 そもそも、誰が残っているのかも知らない。

 

 困った顔をしたアズリルを見て、ネテロは手元の紙をこちらへ向けた。そこには、最終試験へ進んだ者たちの名前が並んでいる。

 

 アズリルはしばらくその名前を見つめ、迷いながら答えた。

 

「注目、かどうかは分からないんですけど……レオリオ、かな」

 

 ネテロが片眉を上げる。

 

「ほう」

「レオリオの、ハンターになりたい理由はすごいと思います。僕は、ああいうふうにはっきりした目標がまだないから。だから、尊敬してます。それに、行動力もあるし」

 

 言いながら、洞窟の中で自分を助けようとしてくれたレオリオの姿が浮かんだ。

 

「僕は、ああいう人は強いと思います」

 

 ネテロは小さく頷いた。

 

「では、この中で一番戦いたくないと思う相手は?」

 

 アズリルは黙った。

 

 本当のことを言えば、誰とも戦いたくない。

 

 沈黙が長くなる。

 

 ネテロは紙を膝の上で軽く叩いた。

 

「まあ、一人に絞れぬようなら、複数でもよいぞ」

 

 アズリルはほっとした。

 

「じゃあ……レオリオ、クラピカ、ゴン、キルア、ヒソカと、イル……じゃなくて、ギタラクル、です」

 

 ネテロがじっとアズリルを見る。

 

 その視線は、先ほどまでの穏やかなものとは違っていた。

 

 多い。

 

 明らかに、そう言っている顔だったが、やがて肩をすくめるように息を吐いた。

 

「まあ、よいじゃろう」

 

 その顔には、今まで考えていた何かをもう一度組み直さなければならなくなったような、わずかな面倒くささが浮かんでいた。

 

「では、最後じゃ。これは残った者たちにも聞いておることだが、わし個人としても気になっていての」

 

 アズリルはごくりと喉を鳴らした。

 

 ネテロは、まっすぐこちらを見る。

 

「おぬしは、なぜハンターを目指しておる?」

 

 一番答えに迷う問いを向けられて、アズリルはあからさまに固まった。

 

 ネテロは急かさなかった。

 

「もちろん、ヴィクトルから事情は聞いておる。だが、わしが知りたいのは、アズレイ自身がどう思っておるかじゃ」

 

 静かな視線に促されるように、アズリルはしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕は……父上に、旅に出ることをどうしても許してほしくて、ハンター試験を受けに来ました」

 

 声は小さかったが、途中で止まることはなかった。

 

「それは、今も変わりません。でも、僕には、どうしても外に出て、自分の目で見ないといけないものがたくさんあるんです」

 

 言葉にしていくうちに、ぼんやりしていたものの輪郭が、胸の内側で少しずつはっきりしていく。

 

「僕はずっと、城の中で過ごしてきました。父上が守ってきた国のことも、兄上がこれから背負っていくものも、話の中でしか知りません」

 

 アズリルは一度、言葉を探すように目を伏せた。

 

「自分が何を見て心を動かされるのか、何を怖いと思うのか、何を大切にしたいのか。そういうことも、僕はまだちゃんと知らないんです。外の世界を自分の目で見て、自分の足で歩かないと、自分が何者なのかも分からない気がする」

 

 そこまで言ってから、アズリルは静かに息を吸った。

 

「ハンターになりたいかどうかは、正直言うと、まだ分かりません。けど、ハンターになることで僕の世界が広がるなら、それは、父上に許してもらうためだけじゃなくて……僕自身の願いです」

 

 言い終えた時、自分の声が思ったより強くなっていることに気づいた。

 

 ネテロはしばらく、その目を見ていた。

 

 アズリルも、視線を逸らさなかった。

 

 やがてネテロは、何かに納得したように軽く頷く。

 

「なるほどのう」

 

 それだけで十分だと言うように、ネテロは手元の紙をひらりと畳んだ。

 

「面談は以上じゃ」

「え、もう?」

「うむ」

 

 拍子抜けするほどあっさりしていた。

 

 アズリルが少しだけ肩の力を抜いた、その時だった。

 

 ネテロは腰を上げながら、ついでのように言った。

 

「そういえば、おぬしの護衛は失格にしておいたからな」

 

 アズリルはぽかんとした。

 

「……護衛?」

「さすがに、試験外の私情が混じった援助は見逃せんのでな」

 

 何を言われているのか、すぐには分からなかった。

 

 アズリルはしばらく固まっていた。けれど、遅れてひとつの影が頭に浮かぶ。

 

 洞窟から自分を連れ出した人物。

 

「ち、父上……!」

 

 アズリルの顔から血の気が引いた。

 

 父が、何かしらの護衛を試験に紛れ込ませていたのだ。

 

 自分は、最初から見張られていたのかもしれない。

 

 何も知らずに守られていた情けなさと、知らないうちに試験を歪めてしまったかもしれない申し訳なさが、胸の奥に重く沈んだ。

 

 ネテロはほっほっほ、と笑った。

 

「やはり知らなんだようじゃな」

「すみません……気づかなくて……」

「分かっておる。試験官たちとも話し合ったが、おぬし自身が認識していたわけではない。今回は特別に、おぬしは失格にはせんことにした」

 

 アズリルは膝の上へ視線を落とした。

 

「それに、あそこで手出しがなくとも、いずれクラピカやゴンが助けに来ておったじゃろう。結果は大きく変わらん」

 

 ネテロはそれ以上は言わず、扉の方へ向かった。

 

「まあ、次で最後じゃ」

 

 扉の方へ向かいながら、いつもの読めない顔で振り返る。

 

「せいぜい、悔いのないようにな」

 

 それだけ言って、ネテロは部屋を出ていった。

 

 扉が閉まると、部屋にはまた静けさが戻った。

 

 アズリルはしばらく、ぼんやりとその扉を見つめていた。

 

 試験中、自分に護衛がついていた。

 

 そう言われても、すぐには実感が湧かなかった。思い返してみても、洞窟で連れ出された時以外、本当に何も心当たりがない。

 

 父上は、アズリルが顔も知らない誰かを送り込んでいたのだろうか。

 

 アズリルは小さく息を吐いた。

 

 父上は、本当に過保護だ。

 

 そんなにも、自分が自由になるのが嫌なのだろうか。

 

 そう思うと、胸の奥が少し重くなる。けれど、試験そのものを邪魔されたわけではない。そう考えれば、まだましなのかもしれなかった。

 

 考えることが多すぎて、頭の中が少し麻痺している。ひとつ考えようとすると、別の疑問がすぐに重なって、結局どれも形にならない。

 

 

 

 

 

 やがて、飛行船内に到着を知らせる放送が流れた。

 

 アズリルはゆっくり寝台から足を下ろし、久しぶりに部屋の外へ出た。

 

 廊下には、ゴンとキルア、クラピカ、レオリオがいた。

 

 まるで待っていてくれたみたいだった。

 

 アズリルに気づくと、ゴンは嬉しそうに笑い、レオリオは少し照れたように口元を緩めた。クラピカは静かに頷き、キルアは何も言わず、窓の方を顎で示す。

 

 つられるように、アズリルも窓辺へ歩いた。

 

 廊下の窓から差し込む光が、思いのほか眩しい。

 

 目を細めながら外を見下ろすと、眼下には街が広がっていた。

 

 そしてその中心に、ひときわ大きな建物が見える。

 

 最終試験の舞台が、そこにあった。

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