HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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黒衣を脱いだ騎士

 

 ──……✶……──

 

 これは、毒蛇に噛まれて意識を失ったアズリルが、深い眠りの底で見た夢だった。

 

 アズリルは夢の中でさえ、身体の中で暴れる毒に苛まれていた。その苦しみの中で、ふと穏やかな揺れを感じた。

 

 泣きじゃくる子どもを宥めるような一定のリズムが、辛さを和らげていた。どこか懐かしい夜の香りに包まれると、痛みや吐き気とは別のところで、張り詰めていたものが緩んでいく。

 

 やがて、揺れが止まる。

 

 次の瞬間、腕にちくりとしたものを感じたと思ったら、冷たいものが身体の中へ流れ込んでくる。熱を持っていた身体の奥に、細い氷の糸がほどけていくような感覚だった。

 

 しばらくして、別の冷たさが額にわずかに触れた。

 

 それは頬へ移り、最後には、触れるか触れないかの淡さで唇をかすめた。

 

 それが何によるものなのか、夢の中のアズリルには分からなかった。ただ、そのかすかな感触は、苦痛の中で不思議なくらい心地よかった。

 

 その気配が遠ざかっていくのを感じた瞬間、ひどく心細くなった。

 

 言葉になりきらないものが、喉の奥まで込み上げてくる。

 

 それはただの寂しさというより、もっと幼く、本能に近いものだった。置いていかれることを恐れる赤子が、母親のぬくもりを求めるような、どうしようもなく頼りない衝動だった。

 

 アズリルの指先が、何かを探すようにわずかに動いたが、掴めるものは何もない。

 

 この夢が、アズリルの記憶に残ることはなかった。

 

 ただ、胸の奥に形のない寂しさだけを残して、意識は再び深い眠りの底へ沈んでいった。

 

 ──……✶……──

 

 

 

 

 ある街のホテルの周辺は、朝から人の気配で満ちていた。

 

 大通りには車が行き交い、露店の呼び込みの声が重なる。荷物を抱えた従業員や旅人たちが、忙しなく行き来していた。

 

 その賑わいの中に、一人の男が紛れている。

 

 黒衣の騎士は、珍しく黒衣をまとっていなかった。

 

 身につけているのは、どこにでもあるような簡素な服だ。普段は後ろへきっちりと撫でつけている髪も、今は少し乱れ、額にかかっている。

 

 きちんと整えられた時とは違う無造作さが、かえって男前な顔立ちを際立たせていた。

 

 ノクトは平然と街灯の並ぶ通りを歩き、一台の黒い車の前で足を止めた。

 

 中の見えない運転席側の窓を軽く叩いた。

 

 しばらくして、後ろの扉が音もなく開き、ノクトが迷いなく身を屈めて車内へ乗り込むと、扉は間を置かず、滑るように閉じた。

 

 中は向かい合って座れる造りになっており、その奥には、普段より控えめな正装に身を包んだレオンハルトがいた。

 

 ノクトはその斜め前に腰を下ろした。

 

「殿下。ただいま戻りました。お待たせして申し訳ございません」

 

 返事はなかった。

 

 レオンハルトは後部座席に深く腰掛けたまま、窓の外へ顔を向けていた。肘を窓枠に置き、指先で口元を押さえている。もう一方の手は肘掛けの上にあり、一定の間隔で、とん、とん、と指先が鳴っていた。

 

 不機嫌な時の癖だった。

 

 その仕草と横顔には、皇帝ヴィクトルの面影が色濃く宿っていた。ノクトは思わず、一拍だけ目を止める。

 

「アズレイ様の件ですが、先ほどご連絡した通りです。現在は安定しています。毒の影響も、懸念していたほど重くはありませんでした。解毒薬もすぐに投与できましたので、あとは試験で蓄積した疲労が抜ければ、三日後の最終試験までにはある程度回復されるかと」

 

 そこで、レオンハルトの指が止まった。

 

 ようやく、蒼い目がノクトへ向けられる。

 

「電話で言っていたことはどういう意味だ」

 

 声は低かった。

 

「アズリルがそんな状態だというのに、さらに私の念を外せと言ったな。お前の判断を疑ったことはなかったが、今回ばかりは見損ないかけた。説明しろ」

 

 あからさまな怒りと不機嫌を、レオンハルトは隠そうともしなかった。

 

 ノクトは顔色ひとつ変えず、静かに答える。

 

「はい。申し訳ございません。ハンター協会の者が近くにいたため、電話口で詳細をお伝えするのは適切ではないと判断しました。説明が不足しておりました」

 

 言い訳ではない、事実を述べているだけの口調だった。

 

 レオンハルトはふん、と小さく鼻を鳴らす。

 

「続けろ」

 

 ノクトは軽く頭を下げ、続きを口にした。

 

「三次試験後から、アズレイ様には明らかな異常が見られました。身体への負荷が一定の水準を超えると、レオンハルト様がアズレイ様に施した念が反応し、身体を休ませる方向へ働いていたものと思われます。長く眠り続けていたのは、その影響です」

 

 レオンハルトは黙っている。

 

「ただ、今回はその作用が強く出すぎていました。三日近く眠っても、殿下の念による休眠状態が解ける気配はありませんでした。それほどアズレイ様が無理をなさっていた証拠でもありますが、同時に、試験中の判断力と行動力を奪う危険が出ていました」

 

 ノクトはそこで一度だけ言葉を切った。

 

 レオンハルトの表情は動かない。

 

「私がかけた念が、逆にアズリルを危険な目に遭わせていたと言いたいのか」

「三次試験終了までは、よい制御として働いていたと思われます」

 

 ノクトは淡々と答えた。

 

「ですが、アズレイ様の消耗は通常の範囲を大きく超えていました。本来なら、限界を越えさせないための制御です。今回は何かしらの原因で反応が遅れ、消耗だけが先に蓄積した。その反動で、後から念が強く働きすぎたものと思われます。アズレイ様がまだ動かなければならない場面でさえ、身体を強制的に休ませようとしていました」

 

 ノクトはそこで、レオンハルトと目を合わせて、付け足した。

 

「予測できる事態ではありませんでした。殿下の判断に誤りがあったとは考えておりません」

 

 レオンハルトは舌打ちした。

 

 それまで息を潜めるように黙っていた運転手が、そこで初めてわずかに肩を跳ねさせる。

 

「方便はいい」

 

 レオンハルトは、切り捨てるように言った。

 

「分かった。念はもう解いてある。一度解けば、再び直接触れない限りかけ直せない。これで何かあれば、お前が責任を取るんだな」

 

 ノクトは深く頭を下げた。

 

「はい」

「まあ、まだお前の紐とやらがある。二重に用意しておいて正解だった」

 

 レオンハルトは窓の外へ目をやった。

 

 ハンター協会が最終試験のために貸し切ったホテルが、すぐ近くに見えている。普段なら客や従業員で賑わっているはずの正面玄関には、今は協会関係者と警備の者たちが出入りしていた。

 

「この距離なら、どこまで分かる」

 

 ノクトはホテルへ視線を向けた。

 

「アズレイ様に大きな衝撃が加われば分かります。加えて、革紐に他者の念が触れた場合、その流れの一部も拾えます。ただし、細かな会話や状況までは分かりません」

「それに加えて、どの距離でも命の危機は分かるんだな」

「はい」

 

 レオンハルトは少しだけ目を細める。

 

「やはり便利な能力だな」

「本来は、接触した念の残滓を徴集するための能力です。革紐はその応用にすぎません」

「なら、その応用で責任を果たせ。私の念を外した分、異変だけは見逃すな」

 

 ノクトは何も言わず、深く頭を下げた。

 

 レオンハルトは運転手へ短く合図した。

 

「残念ながら、南方で少々面倒な件がある。どうしても戻らなければならない。私はこのまま発つ。お前は残れ」

「陛下へのご報告は、いかがいたしましょう」

 

 レオンハルトは短く息を吐いた。

 

「いい。私が直接言う。どうせ今知らせれば、父上は余計なことをしでかす」

 

 ノクトは一拍置いて、静かに頭を下げた。

 

「承知しました」

 

 ノクトは扉へ手をかける。

 

 そこでようやく、レオンハルトは別のことに気づいたように眉を上げた。

 

「お前、まさかその格好で試験場にいたのか」

 

 改めて見ると、ノクトの姿は変装と呼ぶにはあまりに堂々としていた。

 

 帽子で顔を伏せるでも、目元を隠すでも、髪型を大きく変えるでもない。黒衣を脱いだだけで、ほとんどいつものノクトのままだった。

 

「多少は変えておりましたが、概ねこの通りです」

 

 レオンハルトは額に手を当て、やれやれと言いたげに横目でノクトを見た。

 

「まったく、君がどうやってそこまで存在感を薄めているのか、私にはいまだに見当もつかない」

「……そうでしょうか」

 

 レオンハルトは小さく息を吐く。

 

「まあいい。だからこそ、この仕事にお前を選んだ。父上も、お前ならと許したのだ」

「恐れ入ります」

「行け。最終試験が終わるまで、見届けろ」

「承知しました」

 

 ノクトは頭を下げ、車を降りた。

 

 外へ出た瞬間、先ほどまでのかしこまった気配はすっと薄れる。

 

 背筋の伸びた騎士の姿ではなく、どこにでもいる旅行者の一人のように、ノクトは通りへ歩き出した。

 

 車内からその背を見ていたレオンハルトでさえ、数秒もしないうちに見失う。

 

 人混みに紛れたわけでも、姿が見えなくなったわけでもない。

 

 ただ、街の景色の中へ、最初からそこにいたかのように溶け込んでいった。

 

 レオンハルトは窓の外を見つめたまま、低く呟く。

 

「……本当に、気味の悪い男だ」

 

 それは悪口のようでいて、どこか信頼にも似た響きを含んでいた。

 

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