最終試験の会場は、これまでの試験場よりずっと整然としていた。
高い天井も、磨かれた床も、無駄な装飾のない広い空間も、これから行われる勝負の単純さを際立たせているようだった。
ネテロは中央に立ち、ゆるく手を後ろに組んだまま試験の説明を始める。
一対一で戦い、相手に負けを認めさせれば勝ち。ただし、相手を殺せば即失格。
勝った者から順に合格となり、敗れた者は次の試合へ回される。最後まで勝てなかった一人だけが、不合格となる。
それだけの、あまりにも明快な形式だった。
アズリルは受験者たちの列の端に立っていた。
前の試験で毒蛇に噛まれた足首には、まだ包帯が巻かれている。熱は下がり、意識もはっきりしていたが、顔色はいつもより薄い。頬にだけ、熱の名残のような淡い赤みがうっすらと差している。
これが最後の戦い。
これさえ乗り越えれば、ハンターになれる。そして、長年待ち望んだ旅が、ようやく自分のものになる。
アズリルはごくりと息を飲み、覚悟を決めるように拳を握りしめた。
やがて、ネテロが組み合わせを読み上げた。
「第一試合。ハンゾー対アズリル」
レオリオは真っ先に顔をしかめて、先日、自分が手当てしたアズリルの足元へ目をやる。
「……一番手かよ」
クラピカも表情を硬くする。
ゴンはアズリルを見て、何か言いかけて飲み込んだ。
キルアの視線はアズリルたちへ向いているのに、どこか別のことを考えているように、意識だけが薄く逸れている。
ヒソカは壁にもたれ、カードを指先で回している。
興味の先は、アズリルではなくハンゾーに向いていた。
ハンゾーは頭をかきながら前へ出た。
「先に言っとく。俺は手加減しねえ。無理だと思ったら、早めに降りろ」
アズリルも一歩前へ出ると、そこでようやく相手の顔に見覚えがあることに気づく。
二次試験で、スシの課題を台無しにした人だ。
けれど、それ以外のことは何も知らない。ただ、つるりとした頭と、無駄なく鍛えられた身体だけは妙に印象に残っていた。
足首に鈍い痛みが波打ち、表情が一瞬だけ強張った。
「ここまで来て、簡単に諦めるつもりはないよ」
ハンゾーは、アズリルを頭から足先まで見定めた。
細い身体は、凛としてまっすぐ立っている。
けれど、熱の名残を薄く残した頬と、包帯の巻かれた足が、この少年が万全ではないことを示していた。
ハンゾーの目から温度が消えていく。
「なら、悪いが確かめさせてもらうぜ。お前の覚悟が、本物かどうか」
試合開始の合図が響いた。
次の瞬間、ハンゾーの姿が消えた。
アズリルは、かろうじてその動きを捉えた。
床を蹴る微かな音、沈む重心、わずかに揺れた空気が、真正面ではなく横から来るのだと悟らせる。
だが、身を引こうとした時には、毒の残る足も、疲れきった筋肉も、頭で捉えた動きよりわずかに遅れた。
直後、肩に硬い指が食い込んだ。
「っ——」
何が起こったか理解する前に、身体は宙に浮いていた。
みぞおちに凄まじい衝撃が叩き込まれ、そのまま背中から床へ叩きつけられる。
息が抜けて視界が白く弾けた。
会場に、低いどよめきが起こる。
吐き気が込み上げ、頭の奥で衝撃が反響した。天地が一瞬ほどけたみたいに、冷たい床だけが現実の感触として背中に貼りつく。
アズリルは慌てて震える手を床につき、上体を起こそうとした。
その瞬間、ハンゾーの足が、どん、と胸のすぐ横へ置かれる。
少しでも動けばそのまま踏みつけられそうな距離だった。起き上がるための動きを、完全に塞がれている。
「降参するか」
アズリルは、人生で一度も味わったことのない衝撃に息を詰まらせていた。誰かに暴力を振るわれるという初めての状況に、身体の奥が震える。それでも必死に動揺を押し殺し、荒い息のまま首を横に振った。
ハンゾーはそれを見下ろし、小さく息を吐く。
「……ま、だろうな」
ハンゾーは言い終えるのとほとんど同時に、胸の横に置いていた足を引き、次の一撃のために振り上げた。
それから先は、間を置かず、一方的な暴力が続いた。
アズリルが膝をつこうとするたび、ハンゾーは容赦なく身体を弾き飛ばした。肩を床へ叩きつけ、背中から落とし、立ち上がるための重心を崩す。アズリルはそのたびに息を詰まらせ、喉の奥でむせるような息を吐き、指先で床を掻いた。
次から次へと衝撃が重なり、自分の身体がどう倒れているのかさえ分からなくなっていく。どこが痛いのかを数える余裕もなく、ただ遅れて押し寄せる激痛だけが、身体の奥へ広がっていった。
そして十度も叩きつけられないうちに、もう起き上がる素振りすらまともに作れなくなっていた。
会場は静まり返っていた。
試験官たちの間にも、張り詰めた空気が流れている。
そのうちの一人が、低く呟いた。
「……会長も、本当に性格が悪いわね」
隣の試験官が視線だけを向ける。
「ここまで残った受験者が、簡単に参ったなんて言うわけないじゃない。このままだと、あの子……」
その先は、言葉にならなかった。
ネテロはまるでこうなることを予測していたかのように、真剣で揺れない眼差しのまま、二人を見つめていた。
ハンゾーは、アズリルを床へ叩きつけた手を軽く振った。
それから床に伏せた少年の背後へ回り、しゃがみ込む。片手で肩口を掴むと、力の抜けた上半身を無理やり引き起こした。
「あ……っ」
喉の奥で声が潰れ、かすれたうめきだけがこぼれた。
そのぐらりと揺れた頭の付け根へ、ハンゾーはもう一方の手を振り上げた。
けれど、その瞬間、ハンゾーの視界にアズリルの横顔が入った。
乱れた前髪の影が頬に落ち、涙に濡れた睫毛の下で、青い瞳が苦しげに揺れていた。その表情には、痛みから遠ざけられて育った者の無防備さがまだ残っている。苦痛に歪んでいるのに妙に整っていて、その場違いさがハンゾーの目に引っかかった。
ハンゾーは上げた腕を下ろした。
代わりに、アズリルの顎を掴み、無理やり視線を合わせる。
その動きに、アズリルの眉がぐっと寄った。
ハンゾーは逃げ場を奪ったまま、アズリルの顔をじろりと見下ろした。
「綺麗な顔してるな」
そこに欲の色はない。ただ、相手の弱点を見極めるような冷静さだけがあった。
「痛みを知らねえ顔だ。……案の定、身体が先に止まったな」
ハンゾーの口元に、かすかな嘲りが浮かぶ。
アズリルはハンゾーを睨むが、息がうまく吸えない。声を絞り出すこともできなかった。
壁際で見守る者たちの中で、レオリオは何かに耐えるように歯を食いしばっていた。握りしめた拳が、小さく震えている。
ハンゾーは、華奢な骨の輪郭を指先でなぞるようにしてから手を離し、今度は手首を掴んだ。
その脆さを確かめるように、指が一度だけ強く締まる。
「頼りねえな」
アズリルは唇を固く結んだ。
ハンゾーは掴んだ手首を背中側へ引き寄せた。逃げられない位置まで腕をずらし、関節に負荷がかかる角度へ変えていく。
ハンゾーの動きに迷いはなかった。
その淡々とした手つきが、かえってアズリルに逃げ場のなさを意識させた。
見透かされている。
弱さも、痛みに震えるところも。
宮廷で丁重に扱われていた頃とは違う。
今のアズリルを庇う手は、どこにもなかった。
倒され、身体の弱点を一つずつ暴かれる。痛みから遠ざけられてきた人生の中で、そんな扱われ方を、アズリルは今まで一切知らなかった。
ハンゾーが、背中側へ引いた手首をさらに外へ捻った。
関節に鋭い痛みが走る。
「っ、あ……!」
悲鳴が漏れた。
「さっさと言っちまいな。ここでやめれば、怪我は少ない」
「いやっ……いやだ……!」
アズリルは震える唇で、駄々をこねる子どものように首を振った。
反射のようにこぼれた声だった。
ハンゾーは短く息を吐き、面倒な手順を踏まされると悟ったような顔をした。
「……そうかよ」
ハンゾーは手首を離した。
途端にアズリルの身体は支えを失い、床へ崩れるように落ちた。
「っ……」
痛みに震えた吐息だけがかすかに漏れる。
周囲の視線が痛ましげに揺れた。
もう勝負は見えている。早く負けを認めればいい。
そんな言葉にならない哀れみが、会場の空気に滲んでいた。
思いのほかしぶとい少年に、ハンゾーは見立てを改めるように目を細めた。次の弱点を探すように、視線がアズリルの身体を冷静に検分していく。
そして、足首へ手を伸ばす。
包帯の上をなぞるように、包帯の上から傷の位置を確かめる。
レオリオが激しく反応した。
「てめえ……! そこは俺が処置した傷だぞ! 雑に触るんじゃねえ!!」
ハンゾーは振り返らない。
「弱い場所から潰すのが一番早い」
「ふざけんな!!」
レオリオが飛び出しかけた瞬間、クラピカが腕を掴んだ。
「やめろ、レオリオ」
「離せ! あいつ——」
「分かっている!」
クラピカの声も怒りで低く震えていた。
それでも、レオリオを止める手は緩めない。ここで割り込めば、アズリルの試験そのものが終わる。分かっているからこそ、動けなかった。
ハンゾーは包帯の上から、まだ生々しい傷へ指を沈めるように押し込んだ。
アズリルの身体が跳ねる。
「っ、痛……!」
ハンゾーは、軽く痛ぶっただけで涙をぽろぽろ零すアズリルを見て、呆れたように言った。
「よくここまで来たな。褒めてるわけじゃねえ。ここから先に行くには、あまりに足りねえって話だ」
アズリルは悔しさで唇を噛んだ。
ハンゾーは、アズリルが少し庇うように置いている左手へ目線をやった。
そこに巻かれた黒い革紐を見て、視線が一拍止まる。
「大事……なんだろ、それ。なら、そいつのためにも無事にここを出るべきなんじゃねえのか」
ハンゾーは革紐へ手を伸ばしながら言った。
勘で投げた問いだった。
それでも、アズリルの表情ははっきりと強張った。
ハンゾーはそれを見逃さない。
そのまま革の端に指先を引っかけ、そこにある意味を暴くように軽く持ち上げる。
見開かれた青い瞳が、声にならない悲鳴のようにハンゾーへ縋った。
「お願い……それだけは」
それまで痛みに震えていた時とは違う。
その声には、はっきりとした拒絶があった。
アズリルは左腕を抱え込むように身体を捩り、革紐をハンゾーの手から隠した。
ハンゾーの口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
こっちか。
痛みよりも、こちらの方が深く刺さる。
そう分かった瞬間、胸の奥で、ぞくりと嫌な熱が立った。
ハンゾーはさらに追い被さるように距離を詰めた。アズリルの肩を掴んで身体を戻させ、もう一度、手を伸ばしかける。
だが、伸ばしかけた手が、一瞬だけ宙で止まった。
何をする気だ。
胸の奥で、自分の声が低く響いた。
ハンゾーは奥歯を噛みしめる。
次の瞬間、その手は最初に伸ばしかけた先ではなく、アズリルの襟元を乱暴に掴んでいた。
髪が揺れ、汗で白い額に張り付いたまま、ハンゾーのすぐ鼻先まで近づく。
衝撃に浅い息が漏れ、細い喉が苦しげに上下する。
あまりの近さに、アズリルは恐怖で顔を伏せた。
「さっさと言っちまいな」
ハンゾーは、伏せられた頭のつむじを見下ろして言った。
「お前みたいに弱いやつが生きていけるほど甘い世界じゃねえ」
心を折るための言葉だった。
けれど、そこには本気の忠告も混じっている。
アズリルは荒く息をしていた。
身体のあちこちが打ちつけられた熱を持ち、激痛に、このまま気を失えたらどれほど楽かと思った。
ついさっきまで容赦なく自分を痛ぶっていた相手に、不快なほど息がかかる距離で、どこか身に覚えのある侮辱を投げつけられているこの状況が、アズリルの精神を少しずつ崩していった。
怖い。
怖くて、痛くて、惨めだった。
何もできずに見下ろされている自分が、どうしようもなく情けない。今すぐ子どもみたいに泣きじゃくりたかった。
実際、頬はもう涙でぐっしょり濡れていた。
ノクト。兄上。助けて。
一瞬、そんな言葉が胸の奥で形になった。
けれど、それが声になるより先に、別の言葉が勝手にこぼれていた。
「このまま、何も知らないまま終わるなんて……嫌だ」
声は弱々しく掠れていた。
けれど、その言葉を吐き出した瞬間、腹の底で何かがぐるりと蠢いた。
自分のものではないはずの熱が、痛みと恐怖の奥からゆっくりとせり上がってくる。
その震えの奥に、さっきまでとは違う硬い芯が混じったことを、ハンゾーは聞き逃さなかった。
少しだけ強まった声で、アズリルは続けた。
「私には……どうしてもやり遂げなければならないことがある」
自分の口から出ている言葉なのに、アズリル自身もその意味を掴みきれずにいた。まだ形も名前もない。けれど、それはきっと、ここで引き返せば永遠に届かないものなのだと思った。
ハンゾーは言葉を失った。
さっきまで、少年はハンゾーの顔を直視できないほど怯え、視線を落としたまま小さく嗚咽を漏らしていた。
けれど、その言葉を放った瞬間、涙に濡れた青い瞳が初めて逃げずにこちらを見た。
その奥に、場違いなほど熱いものが宿っている。
ハンゾーはその目から視線を外せないまま、低く問いただした。
「そのために死んでもか」
「……ああ」
苦しげな息の合間に落とされた一言だった。
ハンゾーは襟を掴んでいた手をわずかに緩め、吐息に紛れるほど低く呟いた。
「……馬鹿か」
ハンゾーの目が鋭くなる。
「折るぞ」
ハンゾーはそう告げて、アズリルの腕に手を添えた。
これが最後の忠告だ、という言い方だった。
ハンゾーの顔に緊張が浮かんだ。反応を待つように、ほんの一瞬だけ間が空く。汗が一筋、ハンゾーの頬を伝った。
アズリルは震えながら言った。
「降参はしない」
ハンゾーは奥歯を軽く噛み締め、アズリルの左腕を取った。
革紐の上に手を添えるようにして手首を押さえ、肘の少し上にもう一方の手を添える。逃げられない角度へ、ゆっくりと捻り上げていく。
会場の空気が凍る。
レオリオが叫ぶ。
「やめろ!!!」
クラピカの手にも力が入る。
ゴンは拳を握り、キルアの目は暗く沈んだ。
ヒソカの指先で、回っていたカードがぴたりと止まった。
試験の立会人が、わずかに身を乗り出した。
だが、その前にネテロが目だけで制した。
出るな、と。
その視線は立会人へ向けられたもののはずだった。だが一瞬、誰にも見えない別の何かをも牽制しているように見えた。
次の瞬間、鈍い音が張り詰めた空気を裂いた。
アズリルの悲鳴が会場に響く。
骨が限界を越え、左腕が不自然な角度で力を失った。
アズリルはその場に崩れ落ち、喉の奥で潰れたような息だけを漏らした。
折れた腕から焼き切られるような痛みが走り、身体が激しく震えた。
ハンゾーはその前にしゃがんだ。
「さあ、これで左腕は使い物にはならねえ」
折れた場所を確かめるように、ハンゾーの手がそっとアズリルの腕に触れた。
指先がかすめただけで、アズリルの身体がびくりと跳ねる。
「もう分かっただろ」
ハンゾーは、諭すように声を落とした。
「お前に勝ち筋はない。これ以上続けても、壊れる場所が増えるだけだ」
アズリルは返事をしなかった。
俯いたまま、細い身体だけがぶるぶると震えている。
ハンゾーは舌打ちの代わりに短く息を吐き、アズリルの肩を掴んで仰向けに転がした。
涙で赤く荒れた顔が天井を向く。
「ほら。絞り出せ」
ハンゾーは足先でアズリルの脇腹を軽く小突き、降参の言葉を促した。
アズリルはしばらく声にならない息だけを漏らしていた。
喉が震え、唇が何度も開きかけては閉じる。
それでも、ようやく吸い込んだ息で、彼は叫んだ。
「降参は……絶対にしない……っ!」
ハンゾーは目を見開いた。
すぐに、その顔の険しさが増す。
「まだ言うか」
ハンゾーはすっと立ち上がった。
そして、腕に巻かれていた布の内側から、鋭利な刃物を滑らせるように出す。
鈍い光を放つ刃をアズリルの視界に入る位置でちらつかせ、言った。
「次は脚を切り落とす。二度とつかないようにな」
アズリルは小さく息を吸った。
「取り返しのつかねえ傷口を見れば、お前にも分かるだろう」
ハンゾーは刃を弄ぶように軽く上下させ、じり、とアズリルへ近づいた。
恐怖を飲み込むにはあまりにも短い間だけを置いて、アズリルは覚悟を決めた。
「……切ればいい」
その声に、会場の空気がぴたりと固まった。
ハンゾーも動けなかった。
ネテロの目尻に力がこもった。
アズリルは倒れたまま、ハンゾーを見上げる。
涙で濡れた群青の瞳は、弱々しいのに、底だけが異様に澄んでいた。
「死ぬぞ」
「そのときは、そのときだ」
アズリルの声は掠れていたが、自分の本心を語っていた。
ハンゾーの表情が、今までにないほど険しくなる。
怒りとも、呆れとも違う。目の前の未熟な少年が、本当に死を受け入れているのだと悟った瞬間の、信じがたさと焦りがそこにあった。
次の瞬間、迷いを断ち切るように、思いきり刃を振り下ろした。
アズリルは動かなかった。
息も絶え絶えで、瞼は今にも閉じてしまいそうに腫れていた。
それでもその目は薄く開いたまま、振り下ろされる刃を前にしても、ぴくりとも揺れなかった。
刃先は、アズリルの額に触れて止まっていた。
薄く皮膚が切れ、そこから血が一筋、じわりと滲む。
広い会場の静けさの中に、ハンゾーの荒く上がった吐息だけが落ちていた。
この少年は、強者には見えない。
痛みに泣き、恐怖に震え、今にも意識を手放しそうになっている。
それでも、屈しない。
身体は折れても、芯だけが別の場所にある。
普通の脅しでは届かない。
腕も脚もすべて奪って、床を這うことすらできなくさせても、彼の中心にあるものには届かない気がした。
そこへ届かせるには、もっと複雑に、もっと残酷に壊すしかない。
痛みだけではなく、意味を奪い、帰る場所を踏みにじり、見たいと願う目そのものを潰すような壊し方をしなければならない。
それを理解したハンゾーは、刃物を持っていない方の手をゆっくりと開いた。
自分の掌を見る。
長年の修行で硬くなった皮膚。指の節に残る古傷。何度も何度も鍛え、削り、使い込んできた手だった。
ハンゾーはその手を静かに握り込んだ。
そして、ゆっくりと拳を下ろす。
「……やめだ」
アズリルは荒い息のまま、ハンゾーを見る。
「え」
ハンゾーは刃物を下ろしながら、一歩後ろへ下がった。
「俺の負けでいい」
会場がざわめき、張り詰めていたネテロの顔が安堵にほぐれた。
ハンゾーはアズリルを見下ろした。
「俺には、殺さずお前を壊せる気がしねえ」
彼は苦々しく笑った。
「お前、死ぬまで降参しねえだろ。……試験を失格になってまで、そこまでやる趣味はねえ」
アズリルは理解が追いつかない顔をしていた。
「お前の勝ちだ、死にたがりめ」
ハンゾーは吐き捨てるように言った。
「……!」
アズリルの目が驚きに見開かれる。
ハンゾーはくるりと背を向けた。
やれやれと言いたげに片手を振り、そのまま壁際へ戻っていく。
試験の役員たちがすぐにアズリルのそばへ駆け寄る。
一人が折れた腕の状態を確認し、もう一人が担架を呼ぶ。アズリルはなされるがまま、荒い息を繰り返していた。
立会人が静かに告げた。
「勝者、アズリル」
勝者を称える歓声はなかった。
ただ、異様な覚悟を見せつけられた後の静けさだけが、広い会場に落ちていた。
受験者たちは、それぞれの場所で押し黙っていた。
これから自分たちも同じ条件の下に立つ。
単純な勝負の残酷さが、ようやく全員の前に形を持って現れていた。
ヒソカは少し離れた場所から見ていた。
その目は、もう隠す気もないほど狂気と興奮に満ちていた。
視線は、少年の力を失った左腕を一度なぞり、それから乱れた服越しに腰のあたりへ落ちる。
戦いが進むほどに、ヒソカの中で膨れ上がっていた興奮は、甘く歪んでいった。
指先で止まったカードが、わずかにしなった。
「……本当に、困った子だね♥」
アズリルは試験の役員たちに運ばれながら、ぼんやりと揺れる天井を見ていた。
先ほどの痛みと恐怖を思い出すだけで、身震いするほどの拒絶感が込み上げる。
それなのに、死にそうになっても、どこか冷静にそれを受け入れている自分がいた。
そのことだけが、意識の奥に小さな火のように残る。