そして、キルアを連れ戻しに向かおうとしたその時、彼を待ち構えていたかのように、ある男が現れる。
ネテロは、アズリルを不合格にするつもりでいた。
あの試合で、アズリルは殺されることを拒まなかった。むしろ、どこかでそれを受け入れているようにさえ見えた。その有り様を目にした時から、ネテロの判断はほとんど固まっていた。
最終試験で勝利した以上、アズリルは本来ならば合格者の一人として認められるはずだった。
不合格となった者の結果を覆せないのと同じように、合格となった者の結果もまた、簡単には覆せない。
それでもネテロは、ハンター試験史上、前例のない判断を下そうとしていた。
幼い頃からアズリルを知っている以上、そこに情がないと言えば嘘になる。
だが、それだけではない。
あの少年は、オルドヴィア帝国の皇子だ。ハンター協会が彼にライセンスを与え、外の世界へ送り出した以上、アズレイ皇子の身に何かあれば、ヴィクトル皇帝が黙っているはずがない。巨大な帝国を敵に回すことになれば、ハンター協会とて無事では済まないだろう。
それほどの火種を外へ放つわけにはいかなかった。
ただ、それはハンゾーという青年に会う前の話だった。
彼の苦悩を聞いた今、ネテロの中には別のものが混じりはじめていた。
あの少年王子の中に眠っているもの。本人でさえ扱いきれず、周囲の人間まで揺さぶってしまうほどの性質。
それがただの危うさで終わるのか。
それとも、何か別のものへ化けるのか。
見極めたい。
その先に取り返しのつかないものが待っているかもしれないと感じながら、それでもネテロの中には、そう思わずにはいられない欲深い好奇心が芽生えていた。
不合格を告げるために向かっていたはずの足取りは、いつの間にか別の意味を帯びていた。
[newpage]
アズリルは、最終試験場となったホテルの一室で目を覚ましていた。
医療班はまだ、眠っている間に終わりきらなかった処置を続けているところだった。左腕は厳重に固定され、包帯の下では熱を持った痛みが脈打っている。身体のあちこちも重く、少し息を吸うだけでも胸の奥に鈍い痛みが残った。
それでも、意識ははっきりしていた。
アズリルは、固定された自分の左腕を見下ろした。
正直に言えば、最終試験の終わりの方の記憶は曖昧だった。痛みも、声も、ハンゾーの顔も、ところどころ輪郭がぼやけている。
けれど、この折れた腕だけは、あの場で起きたことが夢ではなかったのだと教えていた。
勝ったんだ。
これでハンターになれる。ハンターになれば、旅に出られる。長い間、ずっと欲しかったものが、ようやく手に入る。
何度も、実感が湧くように、頭の中で繰り返した。
けれど、嬉しさも安堵も、はっきりとした形にはならなかった。あるはずの感情は、どこか遠く、胸の奥深くに霞んでいるようだった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「起きておったか」
返事を待つより早く、ネテロが部屋へ入ってくる。
寝台の上のアズリルを見ると、ネテロはいつもの調子で、ほっほと笑った。
「おぬしと腰を据えて話す時は、どうにも枕元ばかりじゃのう。具合はどうじゃ」
そう言って、ネテロは医療班に目配せした。
医療班の者たちは最後の確認を済ませると、一礼して部屋を出ていく。扉が閉まると、室内にはアズリルとネテロだけが残った。
「少し寝たら、良くなりました。まだ、身体中痛いですけど」
「そりゃそうじゃろうな」
声色こそいつも通りだったが、ネテロの表情はいつになく重く、それに気づいたアズリルは背筋を固くした。
ネテロはしばらく何も言わず、すぐそばに立ったまま、アズリルを見下ろしていた。
「おぬし、死にたがっておるのか?」
「え!?」
思わず変な声が出た。
「な、ないです。そんなこと……ないです」
「ならば、なぜあそこで死を受け入れた」
「死を……」
アズリルは言葉を失った。
そんなつもりはなかった。
死にたいと思ったわけでも、死んでもいいと思ったつもりもない。けれど、ハンゾーに問われた時、自分は確かに、それに近いことを言った気がした。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。
今になっても、分からなかった。
痛くて、怖くて、惨めで、それでも降参だけはできないと思った。ただ、それだけだったはずなのに。
ネテロはその沈黙を責めなかった。ただ、静かに続ける。
「おぬしは、不合格じゃ」
アズリルの呼吸が止まった。
「……え」
ネテロはしばらく、その反応を見ていた。
「と、言うつもりじゃった。じゃが、少し事情が変わっての。試験上は合格じゃ。そこは覆さん」
アズリルはまだ、息を詰めたままだった。
「ただし、ハンターライセンスは渡せん」
アズリルは目を見開く。
「どうして……」
「これはワシの独断じゃ。協会としての正式な判断ではない。異議を申し立てれば、おそらくライセンスは受け取れるじゃろう」
ネテロはそう言って、アズリルを見た。
「じゃが、それでもワシは今のおぬしに渡すべきではないと思っておる」
アズリルは、どうにかその表情から何かを読み取ろうとネテロの顔を見つめた。けれど、いつも以上に底が見えない。真剣なのは分かるのに、それ以上は何も分からなかった。
「どうして……そこまで反対するのですか」
「おぬし、このまま外へ出たら死ぬぞ。三日も保たん。確実にな」
背筋に冷たいものが走った。
アズリルは反射的に、固定された左腕を見下ろす。
そこまで言われるほどのことなのか、理解できなかった。
「本来なら、合格した後のハンターがどこへ行き、何をするかに、協会が口を出すことはない。じゃが、おぬしだけは別じゃ。これは完全にワシの私情じゃが、見過ごすわけにはいかん」
「でも、僕は……」
「本来なら受かっておる。そこは間違いない。じゃから、このまま終わりにするつもりもない」
ネテロは寝台のそばの椅子に腰を下ろし、ゆっくりと腕を組んだ。
「試練をひとつ与える。それを越えたら、ワシも認めよう」
また、試練。
その言葉が胸の奥に重く落ちた。
アズリルは恐る恐るネテロを見る。
「まさか、父上が?」
「ほっほっほ。違う。安心せい。これはワシが勝手に決めたことじゃ。ヴィクトルにも、まだ詳しいことは話しておらん」
父が関わっていないと聞いて安堵したものの、それで安心していいのか分からず、アズリルは黙り込んだ。
「もっとも、ワシもヴィクトルと似たようなことをしようとしておる自覚はあるがの」
「でも、それって……」
「必要なことじゃ」
ネテロは、逃げ道を塞ぐような声で、アズリルの言葉を遮った。
「おぬしは、実力と精神と行動がまったく噛み合っておらん。望んでいることと、実際に選ぶ行動が大きくずれておる。しかも、そのずれを受け止めるだけの力がまだない」
ネテロは指先で、アズリルの胸元をとん、と軽く叩いた。
「おぬしの中で、身の丈に余る望みだけが暴れ回っておるの、わかるじゃろ」
アズリルはごくりと息を飲む。
「このままでは、おぬしだけでは済まん。周りを巻き込むぞ」
その一言に、アズリルの顔色が変わった。
自分が死ぬと言われた時よりも、ずっと強く。
「……それは、いやです」
小さな声ではあったが、その言葉ははっきりしていた。
「それだけは、絶対にいやです」
アズリルは折れていない方の手で、布団をぎゅっと掴む。
「自分で、一人で、どうにかできる力がほしいんです。そのためにここまで来た。誰かを巻き込むためじゃない」
一度言葉にすると、胸の奥にあったものが少しずつ形になっていく。
「だから、その試練、やります」
ネテロはしばらくアズリルを見つめ、その意思を確かめるように、やがてゆっくりと頷いた。
「うむ。分かった」
そして、表情を緩めた。
「とりあえず、おぬしの意思が聞けてよかった。あとはワシに任せよ。おぬしの引き受け手にも連絡を取らねばならん」
「引き受け手……」
「少々変わった相手でな。説得が要る。そもそも、連絡がつながるかも分からん」
「誰なんですか」
「詳しい話は後じゃ。まずはヴィクトルにも話を通さねばならんし、おぬしのことで気を揉んでおる者たちにも知らせておかねばならん。この件は、ワシひとりで勝手に進めるわけにもいかんからの」
アズリルはまだ聞きたいことがあった。けれど、ネテロがすぐには答えるつもりがないのだと分かると、それ以上は言葉を重ねられなかった。
沈黙が落ちる。
その間に、意識の端に追いやっていた別のことが、ゆっくりと胸の中へ戻ってきた。
「他の人は、どうなりましたか。……最終試験で落ちたのは、誰ですか」
「キルアじゃ」
「え。あの、キルアが?」
「うむ。ボドロという受験者を殺めてしもうた。レオリオと当たった男じゃ」
アズリルの顔が強張る。
ネテロは感情を交えずに、必要な分だけを選んで話した。
キルアの兄であるイルミが試験に紛れていたこと。最終試験で姿を現したこと。彼がキルアに何を告げ、どのように追い詰めたのか。
すべてを聞き終える頃には、アズリルの拳は固く握りしめられていた。
イルミが来ていたことも、キルアの兄だということも、自分は知っていた。弟が心配だから来たのだと言われ、それを疑わなかった自分の甘さが、今になって重くのしかかってくる。
ネテロはそれに気づいたが、あえて触れなかった。
「少し休んだら、皆と合流しなさい」
ネテロは立ち上がる。
「今後の準備には、少し時間がかかる。おぬしの腕もすぐには使いものにならんじゃろう。その間くらいは、好きにするといい。友と過ごす時間も、今のおぬしには必要なはずじゃ」
アズリルは小さく頷いた。
ネテロはそれを見届けると、部屋を出た。
[newpage]
講堂では、最後の説明が終わったあとも、数人の受験者がその場に残っていた。
レオリオは席に着いたまま、机の下で落ち着きなく足を揺らしている。長い脚は狭い机の下に収まりきらず、膝が動くたびに、がた、がた、と机へ当たる。隣に座るクラピカは、その音に眉をひそめていた。
講習の間中、彼はずっとそんな調子だった。
キルアのことも気になる。もちろん、気にならないはずがなかった。けれどそれ以上に、医療班に運ばれていったアズリルの状態が頭から離れなかった。
ネテロに尋ねても、まだ安静にしているから会いに行くなと言われただけだった。だからレオリオは、説明が終わったあとも講堂を出ずに待っていた。ゴンも、クラピカも同じだった。
そしてなぜか、ハンゾーも、ヒソカも、イルミも、特に用があるとは思えないのに講堂に残っている。
ハンゾーはレオリオと同じ列の反対側に座っていた。最初は黙っていたが、机を伝ってくる振動に、とうとう顔をしかめた。
「ちょっとは落ち着け。ガタガタうるせえんだよ」
「あ?」
レオリオの眉が跳ね上がる。
「やんのか、オラ?」
注意されたことよりも、それを言ったのがハンゾーであることが気に食わなかった。つい先ほどまでアズリルを痛めつけていた男に向けるレオリオの視線には、隠す気のない怒りと敵意が滲んでいた。
「落ち着け、レオリオ」
クラピカが低く言った。
「ハンゾーの言う通りだ。少し静かにしろ」
レオリオは今度はクラピカをきっと睨んだが、言い返すことはしなかった。背もたれにずるりと身体を預け、ふん、と鼻を鳴らす。
その時だった。
「アズリル!」
最初に声を上げたのはゴンだった。
レオリオははっと顔を上げると、ゴンよりも早く椅子を蹴るように立ち上がり、入口の方へ駆け寄った。
「大丈夫か!? 腕は!? 足は!?」
すごい剣幕で詰め寄られ、アズリルは一瞬目を丸くした。
けれどすぐに、困ったように笑う。レオリオのこういうところには、少しずつ慣れてきていた。大げさで、うるさくて、距離が近い。その騒がしさが、不思議と胸を温かくすることも。
「大丈夫だよ。医療班によると、綺麗に折れていたから、治るのにもそこまで時間はかからないらしい。足も平気」
「そ、そうか……」
ようやくレオリオは息を吐いた。そこで初めて自分の距離の近さに気づいたのか、気まずそうに一歩下がる。
大きな身体が視界からずれると、その後ろにクラピカとゴンの顔が見えた。
クラピカとは、互いに静かに頷き合った。多くを言わなくても、無事でよかった、という思いは伝わってくる。
それからアズリルはゴンへ目を向け、その視線が左腕で止まった。
そこには、自分と同じように包帯が巻かれていた。
「ゴン、それ……」
「ああ。俺もやられちった」
ゴンはへらっと笑ったが、アズリルは言葉を失ったまま、包帯の巻かれた腕を見つめていた。
その沈黙を引き取るように、クラピカが補足した。
「あの後、ゴンもハンゾーと当たったんだ。君の時と同じように腕を折られたが、それでも降参しなかった」
アズリルが呆然とゴンを見ると、ゴンはどこかばつが悪そうに視線を逸らした。
その様子を見て、クラピカが代わりに答える。
「結果としては、ゴンの勝ちだ。ハンゾーが先に降りた。そのあとポックルと当たり、三度目でようやく相手を降参させた。……あの男も、とんだ組み合わせを引いたものだな」
アズリルは、クラピカとゴンの背中越しに講堂の奥を見た。
ハンゾーはまだ席に座ったまま、こちらに背を向けていた。会話が聞こえていないはずはない。しばらく黙って頭をかいていたが、やがて居心地悪そうに肩を揺らした。
「そう、だったんだ……」
アズリルが小さく呟いた頃、ハンゾーは面倒くさそうに立ち上がり、誰に声をかけるでもなく、そのまま講堂を出ていった。
アズリルはその背中を見送る。
何か言うべきかとも思ったけれど、今の自分には、その言葉を選ぶことができなかった。
やがて三人へ視線を戻し、口を開く。
「キルアのこと、聞いたよ」
その場の空気が、ふっと沈んだ。
最初に口を開いたのは、ゴンだった。
「キルアを連れ戻しに行く」
迷いのないまっすぐな声だった。
「あいつから、もう居場所は聞き出した」
ゴンの視線を辿って、アズリルは講堂の隅にまだイルミとヒソカが残っていることに気づいた。
クラピカとレオリオも、すでに行くつもりなのだと分かる顔をしていた。
イルミが試験に来ていたことも、キルアの兄だということも、自分は知っていたのに、結局誰にも言わなかったのだと思うと、アズリルの胸は重く沈んだ。
「僕も、行きたい」
三人が迷わず頷いてくれたことで、置いていかれるかもしれないと思っていたアズリルの胸から、少しだけ力が抜けた。
ネテロに言われた試練のことはある。けれど、それもすぐに始まるわけではないのなら、今だけは一緒に行ってもいいはずだ。
その時、アズリルは何かを思い出したように、ちらりとイルミの方を見た。
「……ごめん。ちょっとだけ、待ってて」
三人が不思議そうに見守る中、アズリルはイルミとヒソカのもとへ向かった。
近づいてくる彼を見て、ヒソカがにやりと口角を上げる。
「どうしたの? ボクに用かな♥」
「イルミ。少し話がある。二人だけで」
「そっちね」
ヒソカはわずかに肩をすくめた。
アズリルはイルミの手を取り、そのまま引こうとして、はっとする。
指先に触れた腕が、ひどく腫れていた。
「っ……ごめん」
慌てて手を離す。
「これ、どうしたの?」
イルミは何でもないことのように、自分の腕を一瞥した。
「あの少年」
そう言って、部屋の向こうにいるゴンへ視線を向ける。
アズリルはそれだけで察した。キルアのことで、ゴンが怒ったのだろう。
「話なら、別にいいよ」
イルミは淡々と言い、二人は講堂を出た。
扉のすぐ外で足を止めると、中に残った三人からは、開いた扉越しに二人の姿が見えていた。会話までは聞こえない。それでも、レオリオたちは気が気でない様子でこちらを見ている。
「キルアの件?」
イルミが先に口を開いた。
「キルアの件もそうだけど……嘘をつかれたことも、イルミがしたことも、すごく腹立たしい。問い詰めようと思ってた。でも、それはもうゴンが怒ってくれたみたいだから」
アズリルは一度言葉を切った。
「それじゃない」
イルミは首を傾げる。
「一応、聞いておきたいんだけど」
アズリルは声を落とした。
「兄上がイルミに頼んでいる仕事って、人殺し?」
イルミは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、否定ではなかった。
「イルミの家が、そういう仕事をしていることには驚いた。いや……本当は、まったく予想していなかったわけじゃない。キルアに会ってから、試験中のイルミを見てから、薄々そういうものを感じてはいた」
アズリルは視線を落とす。
「でも、やっぱり兄上がそんなことを頼むとは思えなくて。確認しておきたかったんだ」
イルミはしばらくアズリルを見ていた。
「アズレイは、兄のことが好き?」
唐突な問いに、アズリルは目を瞬かせる。
「……え? ああ……まあ。優しいし、完璧な兄上だとは思うよ。唯一、僕のことを何でも分かってくれる人だし」
「そう」
イルミは表情を変えない。
「じゃあ、それ以外のことはどうでもいいんじゃないの?」
アズリルは言葉に詰まった。
「そんなことで、その好きが左右されるわけじゃないだろ」
「それは……そう、だけど」
「君が思っている以上に、兄も君のことが好きなんだ。これ以上は何も言えない」
その言葉に、アズリルは一瞬だけ頬を赤くした。
けれどすぐに、結局何も教えてもらえていないことに気づいた。イルミに最後まで答える気がないのだと分かると、アズリルはそれ以上追及できないまま、しばらくして三人のもとへ戻った。
「大丈夫だったか?」
レオリオがすぐに尋ねる。
「うん。平気」
その横顔を、レオリオとクラピカが見て、互いに目を合わせる。
なぜアズリルがイルミと親しげなのか。
何を話していたのか。
聞きたいことはあった。けれど、今ここで問い詰めるべきではないと、二人とも分かっていた。
やがて、アズリルたちは講堂を出た。
建物の外へ出ると、玄関前には、先に出ていたハンゾーの姿があった。
ハンゾーはアズリルを見ると、少し気まずそうに視線を逸らした。アズリルもまた、反射的に足を止めた。苦手意識、というにはまだ整理しきれていない何かが、身体の奥に残っている。
ハンゾーは目線を合わせないまま近づいてくると、小さな紙片をアズリルへ差し出した。
名刺だった。
「オレは国に戻るよ。色々あったが、まあ、楽しかったぜ」
ハンゾーは試合中に起きたことには触れなかった。
アズリルも、触れるつもりはなかった。
触れずにいることでしか、互いに通り過ぎられないこともあるのだろう。
「もしオレの国に来ることがあったら、言ってくれ。案内するぜ」
ハンゾーはそう言いながら、アズリルの後ろからあからさまに怪訝な顔で覗き込むレオリオを見た。
短く息を吐くと、懐からさらに三枚の名刺を取り出し、ゴンたちにも配った。
アズリルとハンゾーの目が合うと、少しだけ気まずい沈黙が落ちた。けれど、試合の時に二人の間にあった空気は、もうそこにはなかった。
アズリルが小さく笑うと、ハンゾーもほんのわずかに口元を緩めた。
それだけで、二人には十分だった。
ハンゾーは、試合中に胸の奥まで入り込んできたあの妙な感情が、今も続いているわけではないのだと分かった。アズリルもまた、あれほど怖かったはずの男を前にしても、身体がもう強張らないことに気づいていた。
それからアズリルたちは、しばらく何気ない言葉を交わした。
そろそろ別れようかという空気になり始めた頃、ホテルの敷地の門の方から、ひとりの男が建物へ向かって歩いてきていた。
男の姿は、確かに視界に入っている。けれど、不思議と誰の意識にも引っかからない。そこにいることを、気に留める必要がない。そう思い込まされているような自然さがあった。
その男がアズリルたちの前で足を止めた瞬間、ようやく皆が顔を向けた。
遅れて、アズリルもその視線を追うように振り向こうとした。
「アズリル! 探したんだ。随分遅かったじゃないか」
明るく、品があり、少し馴れ馴れしい声だった。
アズリルの肩が跳ねた。
顔を見る前に、身体が反応していた。
兄上。
そう思った瞬間、頭の中が真っ白になる。
なぜ、兄上がここにいる。
こんな場所に、供も連れず、一人で堂々と来るはずがない。
ありえない。
けれど、声色も、間合いも、こちらを呼ぶ時の親しげな明るさも、あまりにレオンハルトそのものだった。
アズリルはおそるおそる顔を上げた。
そして、息を止める。
兄上ではなかった。
似ても似つかない。
兄よりずっと体格がよく、美しいというより、鍛えられた男らしさのある顔。輪郭も、眼差しも、まるで違う。
アズリルはしばらくその顔を見つめて、ようやく気づいた。
ノクトだ。
その瞬間、全身の毛が逆立つような感覚が走った。
「無事で良かったよ!」
気づいた時には、身体がふわりと浮いていた。
男に抱き上げられ、そのままくるりと回される。折れた腕に響かないようにしているのか、動きは驚くほど丁寧だった。けれど、アズリルの心はそれどころではなかった。
降ろされても、何も言えない。
「……なんだか怪我はしているようだけど。兄の心配も少しは考えてくれよ」
兄。
その言葉に、アズリルの背筋が凍る。
ノクトは何かを言う隙も与えず、今度はゴンたちの方へ向き直った。驚いて固まっている三人に、改まったように微笑む。
「ああ、急に失礼。驚かせてしまったね。アズリルの兄だ。この旅では弟が世話になったようで」
そう言いながら、ノクトは一人ずつ手を取って握手していった。
その仕草は丁寧だったが、へりくだった様子はなく、むしろその場の空気が自然と彼の方へ寄っていくような、奇妙な余裕があった。
ゴンは目を丸くしながらも、勢いで握手に応じる。
クラピカはわずかに警戒を滲ませながら、礼儀として手を差し出した。
ハンゾーの番になった時だけ、ノクトの動きが一瞬止まる。
「……アズリルが世話になったね」
笑顔は穏やかだった。
けれど、その場でただ一人、ハンゾーだけが、その笑みの奥に薄い冷たさを感じ取った。
最後にノクトはレオリオへ手を差し出したが、指先を軽く触れさせただけで、握り返される前にすぐ引っ込めた。
「どうも」
それだけ言うと、もう興味を失ったようにアズリルへ向き直った。
「……あ?」
レオリオは置いていかれたような顔で、自分の手を見る。
アズリルはまだ固まっていた。
声の調子も、言葉の選び方も、何気ない身のこなしも。
そのすべてが兄上のものだった。
姿は違う。声も、顔立ちも、身体つきも、アズリルの知る兄上とは何ひとつ重ならない。
けれど、それを覆すほどに、彼はレオンハルトそのものだった。
そして同時に、その顔は間違いなくノクトのものだった。
それなのに、この男のこんな態度は見たことがない。聞いたこともない。
ノクトだと分かっているはずなのに、身体がそれを拒んでいた。
「さあ、大変だっただろう」
ノクトは当然のようにアズリルの手を取った。
「ゆっくり休んでから、帰るとしよう」
その言葉で、アズリルははっと我に返った。
「……か、帰らないよ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
その場にいた者たちも、突然の剣幕に目を見開く。
ノクトは顔色ひとつ変えず、アズリルの手を握ったまま離そうとしなかった。
「約束してるんだ。このあと、友達に会いに行くって。それに、僕は合格した。それも、約束したよね」
アズリルは、ノクトなのか、兄なのか分からない男の顔を、きっと見上げた。
ノクトが何か言うより先に、別の声が割って入った。
「アズリルの言う通りじゃ」
ネテロだった。
いつの間にか、彼は少し離れた場所に立っていた。
「兄として心配なのは分かるが、しばらく自由にしてやったらどうじゃ」
穏やかな声だったが、その目は笑っていない。
「それに、彼の試験はまだ終わっとらん。ハンターライセンスを受け取るには、ワシが出した試練を越えてもらわねばならん。今はハンター協会の管轄内じゃ。それが終わるまでは、手出し無用じゃぞ」
「ライセンスを……受け取る?」
クラピカが小さく呟いた。
レオリオも眉を寄せる。
「おい、それってどういうことだよ。合格したんじゃねえのか?」
ノクトはしばらく黙ってネテロを見ていたが、やがて何事もなかったように、にこりと笑った。
「嫌ですねえ。誤解をさせてしまっていたみたいだ」
そう言って、握っていたアズリルの手をあっさりと離す。
「もちろん、友人たちとの約束があるなら、そちらを優先させます。でしたら、私も同行しましょう。せっかくですから、少し見届けさせてください」
アズリルはぎょっとした。
「えっ」
「まあ、それは仕方ないじゃろ」
ネテロはさらりと言った。
「まだ正式に約束を果たしたことにはなっておらんからの、彼は」
「では、決まりですね」
ノクトは一同へ向き直り、軽く会釈する。
「しばらく同行させてもらうよ。弟ともども、よろしく頼む」
アズリルは、何かを言わなければならないと思うのに、胸の奥でいくつもの感情がほどけないまま絡まり合って、どの言葉も喉まで上がってこなかった。
ただ、握られた手の感触だけが、やけにはっきりと残っていた。