HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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今回はゾルディック家編・試しの門あたりの話です。
ノクトとアズリルの関係に少し亀裂が入る回でもあり、レオリオとの距離が少し近づく回でもあります。


試しの門

 観光バスが去っていったあと、門前には不自然なほどの静けさが戻っていた。

 

 つい先ほどまで観光客の悲鳴で騒がしかった場所には、ゴンたちと守衛、それから巨大な門だけが残されている。守衛は何事もなかったかのように鍵を元の場所へ戻し、ゴンたちはその男を囲むようにして、どうすれば中へ入れるのかを聞き出していた。

 

 その輪から少し離れた場所で、ノクトは携帯電話を耳に当てている。

 

「殿下、連絡が遅くなり申し訳ございません。……はい。アズレイ様とは無事に合流し、現在パドキアに来ております。はい。いえ。はい」

 

 そう答えながらも、ノクトの視線はアズリルから離れない。アズリルはゴンたちと一緒に守衛の説明を聞き、時折、目の前にそびえる巨大な門を見上げては、何かを確かめるように首を傾げていた。

 

 電話の向こうから、レオンハルトの声が聞こえる。

 

『父上はかなりお怒りだよ。ネテロ殿も詳しいことは話さなかったらしい。合格したはずのアズレイに、まだ試練があるというのは、それだけ危険があるということではないのか、とね』

「はい」

『ネテロ殿は、万が一に備えたものだと説明したようだけれど……まあ、君が無事に合流できたのならよかった。アズリルの様子は?』

「前日ご連絡した通り、腕を負傷しておられますが、体調は悪くなさそうです。友人もできたようで、随分楽しそうにしておられます」

『……そうか。それはよかった』

 

 ちょうどその時、門の前から明るい声が飛んできた。

 

「兄上ー! ちょっと来てみてよ!」

 

 ノクトは電話を耳に当てたまま、視線だけをそちらへ向けた。

 

 普段のノクトなら、そこで騎士らしく短く応じるだけだっただろう。けれど今の彼は、アズリルに仕える者ではなく、弟に呼ばれた兄として、王族らしい品のある微笑みを返していた。

 

「試しの門だってさ! 力があれば押して開けられるらしいよ。兄上もやってみてよ!」

 

 どうやら、守衛から門の仕組みを聞いたらしい。

 

 巨大な門には、入れ子のようにいくつもの扉が組み込まれていた。一番小さい一の門でさえ片側二トンあり、二、三と数が増えるごとに重さも倍になっていくらしい。正門から入るには、そのうちの一枚を自力で押し開けなければならないのだと聞いて、アズリルはノクトなら当然開けられると思っているのか、期待に満ちた顔でこちらを呼んでいた。

 

『……兄上?』

 

 電話の向こうで、レオンハルトの声が明らかに低くなる。

 

 ノクトは表情を変えなかった。

 

「ああ、失礼いたしました。こちらの話です。アズレイ様も随分とはしゃいでおられます」

『待て、ノクト。今、兄上と言ったか?』

「はい?」

『はい、ではない。アズリルは誰を兄上と呼んでいる』

 

 その時、ノクトの視界の端で、アズリルたちが守衛に案内され、試しの門の一番小さな扉の中へ向かっていくのが見えた。

 

「……殿下、申し訳ございません。そろそろ中へ入るようですので、失礼いたします」

『おい、待て。ノクト、説明しろ。兄上とは一体──』

「また何かありましたら、ご連絡いたします」

 

 ぷつり、と通話が切れた。

 

「……」

 

 レオンハルトは、しばらく受話器を見つめていた。

 

「あの……馬鹿者が!!」

 

 次の瞬間、ものすごい勢いでそれを卓上に叩きつける。

 

「最後まで話を聞けと、一体何度言えば分かるんだ、あの大阿呆め!」

 

 こめかみに手を当て、深く息を吐く。

 

「何度言い聞かせても、どうしてあの抜けたところだけは直らない。あれだけ叩き込んだというのに、肝心なところで昔のままとはどういうことだっ」

 

 しばらく怒りに任せて息を吐いていたレオンハルトだったが、やがてふと動きを止めた。

 

 怒りの熱が少しだけ引いたあと、別の疑問が残る。

 

「……待て」

 

 レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。

 

「兄上とは、本当にどういうことだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 アズリルたちは、守衛の案内で試しの門を潜っていた。

 

 正規の門から入った者であれば、中にいる番犬のミケには襲われないらしい。先ほど電話を終えたノクトも、少し遅れて一行に合流し、当然のようにアズリルのそばへ戻っていた。

 

「ミケー! おいで!」

 

 守衛は敷地の奥へ向かって、大きな声で呼びかけた。

 

 その名前を聞いた瞬間、アズリルの脳裏には、先ほど勝手に門へ入っていった男たちの成れの果てがよぎる。あれを食ったであろう番犬が、今から目の前に現れるのだと思うと、自然と身体が強張った。

 

 やがて、茂みの奥から、低く息を吐くような音が聞こえてきた。

 

 木々の間から姿を現したのは、もはや番犬という言葉では到底収まらない、長い脚を持つ巨大な獣だった。

 ミケは吠えも唸りもせず、ただ木々の間から静かに姿を現しただけだったが、その巨大な影が目の前に立った途端、周囲の空気が一気に張り詰めた。

 

「……っ」

 

 先ほどまで真っ先に門の中へ入ろうとしていたゴンでさえ、その場で息を詰めたまま動けずにいた。

 

「ミケは、完璧に訓練された狩猟犬ってやつですよ」

 

 守衛は慣れた様子で言った。

 

「初めて見る人間の姿と匂いを記憶します。それだけです。それ以上の感情は持ちません。機械と同じです」

 

 その説明は、普段から動物と通じ合うように接してきたゴンが、どこかで抱いていたかもしれない希望を、静かに砕くものだった。

 

「命令の条件が満たされれば、毎日顔を合わせている私のことも、躊躇いなく攻撃します。こいつと戦えるかい、ゴン」

 

 ゴンは、黙って首を横に振った。

 

 アズリルはようやくミケから視線を外すと、隣に立つノクトの袖を軽く引いた。ノクトはすぐに気づき、アズリルの声が届くように少し身を屈める。

 

 アズリルはその耳元で、声を潜めた。

 

「兄上、これって……」

「ああ」

 

 ノクトはミケを見上げたまま、小さく答える。

 

「タマとそっくりだな。それもそのはずだ。タマはイルミから譲られた護衛用の犬だから、もしかしたらミケと同じ血筋なのかもしれない」

 

 オルドヴィアの冬宮には、広大な敷地の中でさまざまな生き物が飼われている。

 

 ただし、その多くは観賞用の愛玩動物ではなかった。昔からの名残で、戦闘や警備を目的として飼育されてきた、普通の動物とは少し違うものたちだ。その中の一匹に、タマという巨大な番犬がいた。

 

 そしてその姿は、目の前にいるミケと不気味なほどよく似ていた。

 

「よし。じゃあ、こちらへどうぞ」

 

 守衛はミケのすぐ横を何事もないように通り過ぎると、一行にもついてくるよう促し、敷地の奥へ向かって歩き出した。

 

 どうやら今夜は、門の内側にある使用人用の家に泊めてくれるらしい。

 

 しばらく歩くと、森の中にぽつんと一軒の家が見えてきた。ゾルディック家の敷地内にあるとは思えないほど質素で、外見だけならば、どこにでもありそうな普通の家に見える。

 

 その前に、使用人らしき男が立っていた。

 

「客人とは珍しい。ゼブロに気に入られるとは、大した連中だな。まあ、ゆっくりしていきな」

 

 どうやら、守衛の名はゼブロというらしい。

 

 ゼブロは男に軽く頷いてから、一行へ向き直った。

 

「中へどうぞ」

 

 そう言って、彼は扉の方を手で示す。

 

 促されるまま、ゴンが前に出た。折れていない方の右腕で押し戸に手をかけ、ぐっと力を込める。

 

 しかし、扉はびくともしなかった。

 

「……あれ?」

 

 ゴンが首を傾げる。

 

「その扉は片方二百キロあります」

 

 ゼブロは当たり前のように説明した。

 

「我々は常に身体を鍛えておかねばなりませんので、こういう仕様になっているんです。さあ、どうぞ中へ」

 

 次にレオリオが前へ出た。両手を扉につき、全体重をかけるようにして押し込む。腕が震え、額に青筋が浮かんだが、やがて重い扉はぎぎ、と鈍い音を立てて少しずつ開いた。

 

「お、おら……開いたぞ……!」

「中ではスリッパをお使いください。片方二十キロありますが」

「は?」

「お茶もお持ちします。湯呑みも二十キロありますので、お気をつけて」

 

 次から次へと出てくる説明に、アズリルは思わず目を瞬かせた。

 

 家の中は、外見と同じく質素だった。けれど、出されるものは何ひとつ普通ではない。スリッパも、椅子も、湯呑みも、何気なく置かれている日用品のすべてが、異様な重さを持っている。

 

 一行はテーブルを囲み、ゼブロの淹れた茶を前に座っていた。

 

 観光ビザでこの国に入っているゴンたちは、長くても一か月ほどしか滞在できないらしい。その話を聞きながら、アズリルは片手で湯呑みに触れたが、持ち上げようとしてすぐに諦めた。

 

 それを見たノクトが、何でもないことのように湯呑みを片手で持ち上げる。

 

 まず自分で一口だけ含んだ。

 

 それから、味にも温度にも問題がないことを確かめるようにわずかに間を置き、湯呑みをアズリルの方へ差し出す。

 

「飲むかい、アズリル」

「……うん」

 

 差し出された湯呑みから、アズリルは少しだけ茶を飲む。

 

 レオリオはその様子を横目で見ていたが、何かを言うことはなかった。

 

「もしよければ、この家で特訓してみませんか」

 

 ゼブロがそう切り出した。

 

「このまま山へ向かっても、おそらく納得はいかないでしょう。正門を開けられるようになれば、少なくとも中へ進む資格は得られます」

 

 ゴンはすぐに頷いた。レオリオとクラピカも、互いに顔を見合わせる。試されるようで不本意ではあったが、他に道がないことは分かっていた。

 

「君たちの若さなら、一か月ほどあれば一の門くらいは開けられるようになるかもしれません。何人がかりでも構いませんし、不可能な話ではないでしょう」

 

 こうして一行は、しばらくゼブロのもとで鍛錬をしながら、ゾルディック家の敷地内にあるこの家に泊まることになった。

 

 ゼブロは慣れた様子で、次々と重りや訓練用の道具を運んでくる。アズリルはそれを見るだけで顔をしかめたが、レオリオは意外にもやる気に満ちた顔で、さっそく重りの一つに手を伸ばしていた。

 

「わはは、君は体格がいいからな。一か月あれば、一人で一の門を開けられるようになるかもしれないね」

 

 ゼブロは愉快そうに笑いながら、レオリオの肩をぱんぱんと叩いた。

 

 その時、彼の視線がレオリオの背後にいる男へ向く。

 

 レオリオと背丈はそう変わらない。けれど、ゆったりとした旅装の上からでも分かるほど、その身体つきは明らかに鍛え上げられていた。肩幅も、胸板も、腕の厚みも、ただ体格がいいという程度ではない。

 

 ゼブロは少しだけ目を細めた。

 

「君は……もう開けられるんじゃないのかね」

 

 問いかけられたノクトは、レオンハルトの顔で柔らかく微笑んだ。

 

「いえいえ、そんな。体力仕事は苦手なものでして」

 

 しばらく、誰も何も言えなかった。

 

 細身のレオンハルトがそう言うなら、まだ分かる。けれど目の前にいるのは、どう見ても体力仕事が苦手な人間の身体ではない。

 

 しかも、本人には誇張している様子も、冗談を言っている様子もなかった。本気でそう思っているらしいことが、かえって周囲を困惑させる。

 

 アズリルだけは、もうどうにもならないというように目を伏せた。

 

 今のノクトに何を言っても、きっと無駄だ。

 

 そう思いながら、アズリルは重すぎる湯呑みの縁を、指先でそっと押した。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 それから十日ほど経った頃には、一行もこの奇妙な生活に少しずつ慣れ始めていた。

 

 ゴンたちは朝から重い扉を押し、昼には重りを背負って敷地の中を歩き、夜には重すぎる日用品に囲まれて過ごす。最初こそ何もかもに驚いていたが、数日もすれば、二十キロの湯呑みや五十キロの重りにも、それなりに感覚が麻痺してくる。

 

 その夜も、リビングには疲れきった空気が漂っていた。

 

「レオリオは、もうすぐ開けられそうな感じだな」

 

 クラピカは、百キロの重りを背負ったまま、椅子に深く座り込んでいた。疲労は顔にも声にも滲んでいたが、それでも重りを外そうとはしない。

 

 レオリオは先に寝ると言って、すでに寝室へ引っ込んでいる。

 

 ゴンはといえば、重りをつけたまま寝室まで行く気力も尽きたらしく、ソファの上に手足を投げ出して眠り込んでいた。

 

 驚くべきことに、ハンゾーに折られた腕はもうほとんど治っているらしい。まったく同じ怪我を負ったアズリルの左腕は、まだ包帯と固定具が外れそうにないというのに、ゴンはもう両手で試しの門を押せるまでになっていた。少し動かすだけでもまだ痛みが走る自分の左腕を見下ろしながら、アズリルはゴンの丈夫さにただ驚くしかなかった。

 

 そんな中で、アズリルとノクトだけは、この十日間一度も重りを身につけることなく、いつも通りテーブルのそばで茶を飲んでいる。

 

 もっとも、湯呑みだけはこれしかないらしく、アズリルは仕方なく二十キロのそれをテーブルに置いたまま、器の縁に顔を近づけ、少しずつ茶を啜っていた。

 

 クラピカはその様子をちらりと見る。

 

「……君たちは、特訓しないのだな」

「だって、疲れるし」

 

 アズリルは悪びれた様子もなく答えた。

 

 その横で、ノクトは重い湯呑みを何の苦もなく片手で持ち上げていた。

 

「ええ。私も、そういった力仕事は遠慮させていただきたいですね」

 

 優雅に茶を口に運ぶ仕草は、どこからどう見ても体力仕事を避ける者のものではなかった。

 

「そ、そうか」

 

 クラピカは返事に少し詰まった。

 

「アズリル、もう遅い。そろそろ寝るとしよう」

 

 ノクトが静かに言った。

 

「いいよ。まだそんなに眠くないし、兄上は先に行ってて」

 

 部屋の数は足りているはずなのに、アズリルとノクトは同じ部屋で過ごしていた。さすがに寝台は二つあるらしいが、それでも随分と距離の近い兄弟なのだと、クラピカは思っていた。

 

 ノクトは少しだけ迷うようにアズリルを見た。

 

 けれど、無理に連れていくつもりはないらしい。やがて小さく息を吐くと、アズリルの頭に軽く手を置いた。

 

「あまり夜更かしするなよ」

 

 そう言い残して、ノクトは寝室の方へ向かった。

 

 扉が閉まると、リビングにはしばらく沈黙が落ちた。

 

 ソファで眠るゴンの小さないびきと、アズリルが慎重に茶を啜る音だけが、静かな部屋の中にかすかに響いている。

 

「なあ、アズリル」

 

 先に口を開いたのは、クラピカだった。

 

「何?」

「……無理にとは言わないが」

 

 クラピカは一度言葉を切った。

 

 アズリルは湯呑みから顔を離し、不思議そうにクラピカを見る。

 

「君たちが一体何者なのか、教えてはくれないか」

 

 予想していたような、していなかったような問いだった。

 

 アズリルの肩が、わずかに跳ねる。

 

 その反応を見て、クラピカはすぐに表情を和らげた。

 

「いや、すまない。人にはそれぞれ事情がある。無理に聞き出すつもりは本当にないんだ。ただ、目の前でずっと見ていると、どうしても気になってしまってな」

 

 アズリルは何も言えなかった。

 

 胸の奥が少し苦しくなる。

 

 友人と呼んでいいはずの人たちに、自分はあまりにも大きなことを隠している。クラピカたちが軽々しく他人に話すとは思っていないし、信頼していないわけでもない。

 

 けれど、話してはいけないと決められていることがある。

 

 それに、話してしまえば何かが変わってしまう気がした。アズリルとして見てもらえている今の関係が、名前や身分や国の重さに押し潰されて、別のものになってしまうような気がした。

 

「クラピカたちを、信頼していないわけじゃないんだ」

 

 ようやく、アズリルは小さく言った。

 

「でも、今はまだ言えない。これは僕だけの問題じゃないし、多分、僕が勝手に話したら、他の人にも迷惑がかかることなんだと思う」

 

 そこで一度、言葉が詰まる。

 

 アズリルは視線を落とした。

 

「だから、ごめん」

「謝るな」

 

 クラピカはすぐに言った。

 

 その声は思ったよりも穏やかだった。

 

「言いにくいことだと分かっていたのに聞いたのは私だ。悪かった。本当に気にしていないから、君も気にしないでくれ」

「……うん」

 

 アズリルは小さく頷いた。

 

 沈黙が戻る。

 

 けれど、先ほどより少しだけ柔らかい沈黙だった。

 

 やがて、クラピカが静かに尋ねる。

 

「アズリルは、私のことを知りたいとは思わないのか?」

「……」

 

 アズリルは答えに詰まった。

 

 クラピカがどうしてハンターになろうとしたのか。そこにどんな事情があるのか。アズリルは、今まで一度も聞かなかった。

 

 知りたくなかったわけではない。

 

 ただ、聞けなかった。

 

 クラピカには、アズリルでも分かるほど重い何かがある。だからこそ、自分のことを何一つ話せていないまま、彼の内側だけを覗こうとするのは、どこか申し訳ない気がしていた。

 

「知りたくないわけじゃないよ」

 

 アズリルはゆっくりと言った。

 

「大きな事情があることくらいは、分かる。でも、自分が話せていないのに、クラピカのことだけ聞くのは、やっぱり何か違う気がする。だから……今は、やめておく」

 

 クラピカは少し驚いたように瞬きをした。

 

 それから、ほんのわずかに笑う。

 

「私は気にしないが、君がそう言うなら分かった」

 

 アズリルは視線を上げる。

 

「でも、いつか話せると思える日が来たら、その時は君にも聞いてほしいと思っている」

 

 その言葉に、アズリルは少しだけ照れたように俯いた。

 

「……うん」

 

 しばらくクラピカとたわいのない話をしていると、ソファで眠っていたゴンが、半分寝ぼけたままのそのそと起き上がった。

 

「……トイレ」

 

 そう呟いて、重りを背負ったまま部屋を出ていく。

 

 それをきっかけに、クラピカも椅子から立ち上がった。

 

「私もそろそろ休むよ。アズリルはまだ起きているのか?」

「うん。もう少しだけ。あまり身体を動かしてないから、疲れてないのかも」

 

 アズリルは少し申し訳なさそうに笑った。

 

 自分と年齢はそう変わらないはずなのに、その表情はどこか子どもっぽい。クラピカは思わず小さく笑い、おやすみ、と声をかけて寝室へ向かった。

 

 リビングに一人残されると、アズリルは湯気の消えた茶をしばらく眺めていた。

 

 この何気ない日々は、思いのほか幸福だった。

 

 人生で初めて友人と呼べる人たちができて、兄上──いや、ノクトか、とにかく、彼もそばにいる。旅をして、知らない土地を見て、毎日少しずつ新しいものに触れている。

 

 眠る前にその日の出来事を思い返し、一人で小さく笑うことが、いつの間にか日課のようになっていた。

 

 このままずっと続けばいい。

 

 そう思いかけて、アズリルは胸の奥にざわりとしたものが蠢くのを感じた。

 

 腹の底で、何かが身じろぎする。

 

 それは言葉にならないまま、暗く、熱く、ぐるりと内側を這い回るようだった。

 

 アズリルは胸元を押さえ、息を詰める。

 

 ──おぬしの中で、身の丈に余る望みだけが暴れ回っておる。

 

 ネテロの声が、頭の奥で蘇った。

 

 望み。

 

 これが、そうなのだろうか。

 

 アズリルは薄々気づいていた。自分の中には、自分ではない何かがいるのかもしれない。時折それが顔を出し、気づいた時には物事が思いもよらない方向へ進んでいる。

 

 ハンター試験の時もそうだった。

 

 父に与えられた試練の時も、限界だと思ったところで、なぜか身体が動いてしまうことがあった。普段の訓練や授業ではできないことが、外へ出ることになると、急にできるようになる。

 

 けれど、一つだけ分からないことがある。

 

 ハンゾーとの試合で、死を受け入れかけた時。

 

 あれだけは、自分の中にいる何かの望みではなく、アズリル自身の決断だったような気がしていた。

 

 それなのに、どうしてあんなことを選んだのか、今になっても分からない。

 

 自分の考え。実際に選ぶ行動。そして、内側で蠢くものの望み。

 

 それらがいつの間にか混ざり合い、自分のものとそうでないものの境目が分からなくなっていく。その感覚が、アズリルはひどく怖かった。

 

 全く、何もかも見透かされている。

 

 ネテロの言う通りだと思った。

 

 それでも、これが何なのか、どうすればいいのか、アズリルには分からなかった。

 

 暗い考えに沈んでいるうちに、扉が開いた。

 

 顔を上げると、レオリオが立っていた。

 

「……まだ起きてたのか」

「あ、レオリオ。起きたの?」

「水だ」

 

 レオリオはぶっきらぼうに答え、部屋の隅にあるシンクで水を汲むと、そのままアズリルの向かいに腰を下ろした。目は合わせない。どこか気まずそうに横を向いたまま、少しずつ水を飲んでいる。

 

「クラピカから聞いたよ。もう門、開けられそうなんだってね」

「あ、ああ。まだ身体が通れるほどじゃねえけどな」

「やっぱりレオリオはすごいなあ。兄上でさえ、あの門は開けられないって言うんだもん」

 

 その言葉に、レオリオの眉がぴくりと動いた。

 

 さっきまでの気まずそうな空気が、少しだけ消える。

 

「ま、まあな。本気を出せば、来週中には一人で開けられるさ。あのぐらい」

「わあ、すごい」

 

 あからさまな自慢だったが、アズリルは本気で感心していた。

 

 レオリオは満足そうに笑いかけたが、そこで視線がアズリルの左腕に止まる。まだ包帯と固定具に覆われた腕だ。

 

「腕、調子はどうだ。まだ痛むのか?」

「ああ、うん。ちょっと動かすだけでも、まだ痛いんだよね」

「そりゃ痛いだろうけどな。ずっと庇ってばかりいると、あとで動かしづらくなることもある。無理に動かせとは言わねえけど、指先とか、痛みの少ないところから少しずつ慣らした方がいい」

 

 急に医者らしい口ぶりになったレオリオに、アズリルは気まずそうに視線を逸らす。

 

「いいよぉ……痛いもん」

「子どもかお前は」

「痛いものは痛いの」

「分かるが、放っておくのもよくねえんだ。ちょっと見せてみろ」

「いいって」

 

 アズリルは椅子から立ち上がり、逃げるように一歩下がった。

 

 レオリオも立ち上がる。

 

「待てよ。無理やり動かすわけじゃねえ。ただ状態を見るだけだ」

「見なくていい」

「いいから少しだけ──」

 

 逃げ場をなくしたアズリルが、渋々左腕を差し出そうとした、その時だった。

 

 部屋の入口から、低い声が落ちた。

 

「何をしている」

 

 アズリルもレオリオも、同時に振り向いた。

 

 そこに立っていたのは、兄上──いや、ノクトだった。

 

「腕を見てやってるだけだ」

 

 レオリオはうんざりしたように言いながらも、アズリルの腕へ手を伸ばす。

 

 その瞬間、ノクトの声が飛んだ。

 

「触るな」

 

 それは、アズリルが知る兄の声でも、ノクトの声でもなかった。

 

 鋭く、冷たく、相手を人として見ていないような声だった。

 

 レオリオの顔色が変わる。

 

「おい、兄貴なのか何なのか知らねえけどな。お前がいねえ間に、こいつの怪我した足を見てやってたのは俺だ。腕のことだって、医者を目指してる俺の方がよっぽど分かる。引っ込んでろ」

 

「その足を怪我させた原因が貴様だというのに、よく偉そうに言えるな」

 

 空気が凍った。

 

 アズリルも、レオリオも、動けなかった。

 

 今、ノクトは何を言ったのか。

 

 そして、今そこにいるのは誰なのか。

 

 兄上ではない。けれど、いつものノクトでもない。

 

「……てめえ」

 

 レオリオの声が低くなる。

 

「それ、どういう意味だ」

「言葉通りだ」

 

 レオリオはアズリルの腕から手を離し、ノクトのもとへ歩み寄った。

 

「レオリオ、やめて」

 

 アズリルが慌てて声を上げる。

 

 けれど、遅かった。

 

 レオリオがノクトの胸ぐらを掴んだ、次の瞬間だった。

 

 鈍い音がした。

 

 レオリオの身体が、部屋の反対側へ飛ぶ。

 

 食器棚に背中からぶつかり、家中に響くほどの音を立てて崩れ落ちた。

 

 ノクトが腕を振り上げたところも、殴った瞬間も見えなかった。

 

 ただ、レオリオが吹き飛ばされていた。

 

 アズリルの顔から血の気が引く。

 

「レオリオ!」

 

 駆け寄ると、レオリオは苦しげに息を吐きながらも、意識はあった。

 

「……っ、てぇ……」

 

 大きな怪我はなさそうだ。

 

 それを確認した瞬間、アズリルの中で何かが切れた。

 

 彼はゆっくりと顔を上げ、ノクトを睨む。

 

「外に出て」

 

 ノクトは動かなかった。

 

「ノクト」

 

 アズリルの声が、さらに低くなる。

 

「出ろって言ったのが、聞こえなかったのか」

 

 それは、泣きそうな少年の声ではなかった。

 

 王子として、目の前の騎士に命令を下す声だった。

 

 ノクトの表情が、そこで初めてわずかに揺れる。

 

 そして小さく頭を下げ、すでに扉へ向かっていたアズリルの後を追った。

 

 途中で、物音を聞きつけたクラピカとゴンが寝室から顔を出す。

 

「クラピカ、レオリオをお願い」

 

 アズリルはそれだけ言い残し、ノクトを連れて家の外へ出た。

 

 

 

 

 家の外に出ると、夜の空気が肌に冷たかった。

 

 家の中から漏れる明かりが、足元の草を淡く照らしている。少し離れただけなのに、先ほどまでの騒がしさが嘘のように遠く感じられた。

 

 アズリルは扉から数歩ほど離れたところで立ち止まり、振り返った。

 

 背後に控えていたノクトも、それ以上は近づかない。

 

 二人は、夜気の中で向かい合った。

 

「今のは何。ちゃんと説明して」

 

 ノクトは、アズリルと合流して以来初めて、完全にレオンハルトの振る舞いを解いていた。

 

 そこに立っているのは、兄ではない。いつもの騎士の顔でもない。鍛え上げられた身体を持つ、一人の男だった。

 

 けれどその表情には、どこか昔のノクトに似た、取り返しのつかない失敗をした子どものような色が浮かんでいた。

 

「アズレイ様……申し訳ございません。少々、レオンハルト様の形に入り込みすぎておりました。我を忘れ、大切なご友人を傷つけたこと、深くお詫び申し上げます」

 

「兄上の形?」

 

 アズリルの声が震える。

 

「今のが?」

 

 ノクトは答えない。

 

「侮辱するのも大概にして。兄上が、あのレオンハルト王子が、僕の友人にあんな仕打ちをすると言いたいの?」

 

 涙が勝手に落ちてくる。

 

 怒っているのに、悔しいのに、止められなかった。

 

「兄上の騎士と聞いて呆れるよ」

 

 ノクトはただ頭を下げていた。

 

 その沈黙が、さらにアズリルの怒りを煽る。

 

「出ていって」

「アズレイ様、それはできません」

「帰れと言っている!」

 

 アズリルは無事な右手を握りしめた。

 

「これは命令だ!」

 

 ノクトは頭を下げたまま、動かなかった。

 

「申し訳ございません。私はレオンハルト様の命により、アズレイ様の護衛を任されております。たとえアズレイ様のご命令であっても、レオンハルト様の命を優先せざるを得ません」

 

 その言葉で、アズリルの中の怒りがさらに膨れ上がった。

 

 言い返そうとした、その時だった。

 

 ノクトの背後で、扉が開く。

 

「アズリル」

 

 少しふらつきながら、レオリオが外へ出てきていた。

 

「レオリオ……」

「俺は大丈夫だ。話も、だいたい聞こえた」

 

 その瞬間、膨れ上がっていた感情が、すっと冷えた。

 

 アズリルの顔から血の気が引いていく。

 

 家の入口には、クラピカとゴンも立っていた。その顔を見て、アズリルはようやく気づく。怒りに任せて口にした言葉が、彼らにも届いてしまっていたのだ。

 

 レオリオはアズリルの前に立つと、ノクトを睨み上げた。

 

「おい、ノクト。お前がこいつの兄貴じゃねえってことは、なんとなく分かった」

 

 ノクトは黙っている。

 

「何で兄貴のふりをしてるのかは知らねえ。だがな、偉そうな口でアズリルを傷つける奴は許さねえぞ」

 

 傷む身体を隠すように、レオリオは精一杯胸を張った。

 

 ノクトはしばらくレオリオを見ていた。

 

 やがて、深く頭を下げる。

 

「先ほどのこと、どうかお許しください。手を出したのは、完全に私の過ちです」

 

 あまりにも素直な謝罪に、レオリオは少し拍子抜けしたように目を開いた。

 

「お……おう。分かればいいんだよ」

 

 威勢よく言ったものの、レオリオの声にはわずかに安堵が混じっていた。これ以上ノクトとやり合わずに済んだことに、本人も少しほっとしているらしい。

 

 けれど、アズリルはまだ納得していなかった。

 

 彼はレオリオの手を取る。

 

「行くよ」

「あ、アズリル?」

 

 家へ戻りかけて、アズリルは一度だけ振り返った。

 

「ノクトは外で寝て。一緒の部屋にいてほしくない」

 

 そう言い残し、レオリオの手を引いたまま、クラピカとゴンの横を通り過ぎて家の中へ戻っていった。

 

 残されたクラピカとゴンは、困ったように互いを見た。

 

 それから、ちらりとノクトを見る。

 

 そこにいた男からは、先ほどまでの気品ある眼差しが消えていた。無表情で、落ち着いていて、少し冷たい。

 

 それなのに、なぜか二人には、主人に置いていかれた大きな番犬のようにも見えた。

 

「……どうする?」

 

 ゴンが小声で言う。

 

 クラピカは小さくため息をついた。

 

「少なくとも、外で寝かせるわけにもいかないだろう」

 

 こうして二人は、アズリルに気づかれないよう、ノクトをこっそり家の中へ入れることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

「いてて……もうちょっと丁寧に頼むぜ」

「……ごめん」

 

 レオリオが使っている寝室で、アズリルは慣れない手つきのまま、彼のアタッシュケースから借りた消毒液や包帯を広げていた。

 

 レオリオは寝台の端に腰を下ろし、上着を脱いで背中を向けている。大きな身体を少し丸めて、アズリルが手当てしやすいようにじっとしていた。

 

 アズリルはその後ろに立ち、レオリオの手が届きにくい背中や肩のあたりを、無事な右手でおそるおそる手当てしていく。左腕はまだ固定具に包まれていて、思うようには使えない。だから余計に、ひとつひとつの動きがぎこちなかった。

 

 それでも、何もしないでいることはできなかった。

 

 ノクトに殴り飛ばされたレオリオの姿が、頭から離れなかった。

 

 怒りとも悲しみともつかない感情が、体の内側でぐるぐると渦を巻いていた。

 

 護衛として過剰に反応しただけなら、許せないにしても、まだ分かる。けれどノクトは、そのあとに及んで、兄の名を汚すようなことまで口にした。

 

 兄上が、あんなことをするはずがない。

 

 そう思った瞬間、アズリルは奥歯を強く噛みしめていた。

 

「い、痛えって、アズリル。あとは自分でやるから」

「ご、ごめん。……本当にごめん、レオリオ」

 

 アズリルは手当てしていた手を、そっと下ろした。

 

「許せないよ。あんなことをするなんて。そんな人だとは思わなかった」

 

 言葉にすると、また涙が込み上げてきそうになり、肩が震える。

 

 レオリオはぎょっとしたように目を見開き、慌てて身を起こしかけた。

 

「ちょ、ちょっと待った。アズリル、やめてくれ。謝るな」

「でも……」

「さすがに、あれは俺も悪い。先に掴みかかったのは俺だ。殴り返されても文句は言えねえことをしたんだよ。だから、その……あんまり思い詰めるな」

 

 レオリオは言葉を選ぶように、少しずつ話した。

 

 自分の方が怪我をしているのに、レオリオはアズリルを落ち着かせようとしている。

 

 あんなことを言われて、殴り飛ばされて、怪我までしたのに、ノクトを責めようとしない。むしろ、今にも泣きそうなアズリルを気遣って、自分の落ち度まで口にしている。

 

 レオリオは優しい男だ。

 

 それを、アズリルはもう知っている。

 

 その優しさに甘えて、また自分が泣いてしまうわけにはいかなかった。

 

 怒りも、悲しみも、今は抑えなければならない。

 

 アズリルはこれまで、自分の感情を抑えることに慣れていなかった。必要もなかった。泣けば誰かが慰め、怒れば誰かが宥めてくれた。

 

 けれど城の外へ出て、いろいろな人と出会って、アズリルは少しずつ知り始めていた。

 

 自分の感情を、そのまま相手にぶつけてはいけない時があること。

 

 誰かの優しさに気づいたなら、それを壊さないように、自分も少しだけ踏みとどまらなければならないこと。

 

 アズリルは深く息を吸った。

 

「ありがとう、レオリオ」

「え?」

「僕は、君の優しさにいつも救われてる気がする」

「な、何言ってんだよ。俺、別に何もしてねえだろ」

 

 さすがのレオリオも、思い当たる節のない褒め言葉には困ったらしい。照れたような、困ったような顔で視線を逸らした。

 

 やがて手当てが終わると、部屋には微妙な沈黙が落ちた。

 

 特にすることも、話すこともなくなってしまった。ここはレオリオの部屋でもある。アズリルが出ていかない限り、レオリオも休むに休めない。

 

「そ、そろそろ寝るか。アズリルも部屋に戻って、ゆっくり休めよ。疲れただろ」

「……うん」

 

 アズリルは一瞬だけ間を置いた。

 

 あまり、一人の部屋に戻りたくはなかった。けれど、このままレオリオの部屋で朝まで過ごすわけにもいかない。

 

 重い腰を上げるようにして、アズリルは立ち上がった。

 

「おやすみ、レオリオ」

 

 そう言って、彼はレオリオの頬に残った擦り傷へ、そっと指先を伸ばした。

 

 触れるか触れないかの力で、傷の横を軽く撫でる。

 

「……痛かったよね」

「いや、まあ……大したことねえよ」

 

 レオリオの声が上ずった。

 

 アズリルは小さく頷くと、そのまま部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 しばらくの間、レオリオは固まったまま動けなかった。

 

 やがて、じわじわと顔が赤くなっていく。

 

「……うおおお……」

 

 意味のない声を漏らしながら、レオリオは寝台に顔から倒れ込んだ。

 

 その瞬間、手当てしたばかりの背中に痛みが走る。

 

「痛ってぇ……」

 

 呻きながらも、レオリオはしばらく枕に顔を埋めたまま、動けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 ノクトがしたことは、レオンハルトの振る舞いを演じすぎた末の過ちだった。

 

 ハンター試験の間、ノクトはずっと自分ではない誰かとして動いていた。表情も、動作も、声も、気配も変え、自分というものを極力表に出さずに過ごしてきた。

 

 最初は、ただの変装だった。

 

 けれど長く続けるうちに、自分ならどうするかを考えるよりも、今まとっている人物ならどう動くかをなぞる方が、ずっと楽になっていた。

 

 まして、この十日間ノクトがまとっていたのは、レオンハルトという、あまりにも近く、あまりにもよく知る人物の形だった。

 

 どう話すか。どう笑うか。何に怒り、何を許さないか。

 

 それらはノクトにとって、考えなくても分かるほど身近なものだった。だからこそ、かえって危うかったのかもしれない。

 

 ノクトは、洞窟で何があったのかを知っている。レオリオとアズリルの間に何が起き、アズリルがどうして毒蛇に噛まれたのかも知っていた。

 

 そして、それをレオンハルトが知ればどうするかも、分かっていた。

 

 本来なら、レオンハルトには伝える必要のないことだった。伝えれば、きっと取り返しのつかないことになる。だからノクトは黙っていた。

 

 けれど、黙っていた事実は、消えたわけではなかった。

 

 レオリオがアズリルに触れようとした瞬間、それはレオンハルトの怒りの形を借りて、ノクトの内側から噴き出した。

 

 あれはノクト自身の怒りではなかった。少なくとも、彼が望んで振るった拳ではなかった。レオンハルトなら許さない。レオンハルトなら、あの男をアズリルに近づけない。そんな思考が、演じ続けた形の奥から勝手にせり上がり、気づいた時には身体が動いていた。

 

 もし本当にレオンハルトであったなら、レオリオはあの程度では済まなかっただろう。

 

 だからこそ、突き飛ばすだけで済んだことは、まだノクト自身の制御が残っていた証でもあった。

 

 だが、それは言い訳にはならない。

 

 アズリルの大切な友人を傷つけた。守るべき相手の前で、彼が大切にしているものを壊しかけた。

 

 それは、騎士としても、護衛としても、明らかな失敗だった。

 

 問題は、そのすべてを今のアズリルに正しく説明するだけの言葉を、ノクトが持っていなかったことだった。レオンハルトなら、きっとできただろう。怒りを受け止め、言葉を選び、相手を納得させることができたはずだ。

 

 けれどノクトには、それができない。

 

 彼にできるのは、ただ頭を下げることだけだった。

 

 結局、クラピカとゴンにこっそり家の中へ戻されたノクトは、リビングの隅で、大きな身体を少し縮めるようにして座っていた。

 

 

 

 

 

 

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