HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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たっぷり愛されて育ったアズリルが、外の世界へ旅立とうとするお話。
5話まではほぼオリジナル要素のみになります。




兄弟

 十六歳になったら。

 

 それは、アズレイが必死の思いで勝ち取った、最初で最後の約束だった。

 

 外の世界が見たい。

 ただ、それだけの願い。

 けれどその願いが、やがて何を連れてくるのかを、今のアズレイはまだ知らない。

 

 

 ──……✦……──

 

 

 オルドヴィア帝国第二皇子、アズレイ=オルロフの十六歳の誕生日は、帝国を挙げての祝宴となった。

 

 冬宮の大広間には幾つもの硝子灯が輝き、磨き抜かれた床に淡い光を落としていた。白い花と銀糸の布に飾られた広間には、楽団の音と貴族たちの笑い声が心地よく響き渡っている。

 

 その中心に立つはずのアズレイ=オルロフは、祝福を受けながらも、少し離れた卓に山のように積まれた果物を横目で物色している。

 

「殿下、お誕生日おめでとうございます」

「どうか、良き旅を」

「外の空気に飽きたら、すぐにお戻りくださいませ」

 

 言葉をかけられるたび、第二皇子は礼儀正しく微笑む。

 

 蜂蜜色をした柔らかな髪は、いつも以上に丁寧に梳かされ、普段は柔らかく跳ねる癖も、今日ばかりは品よく整えられていた。銀糸の刺繍が映える正装は、その華奢な体躯を気高く飾り、胸元には帝国の紋章が輝いている。

 

 けれど、その華やかさは彼を大人びて見せるどころか、かえって幼さを際立たせていた。透き通るような白い肌、小ぶりで繊細な輪郭。そして深海を思わせる青い瞳には、大切に守られて育った若き皇子特有の、穢れを知らない無垢な光が、まだ宿っていた。

 

 幼い頃からアズレイを知る者たちは、そんな第二皇子を、愛おしい孫を見守るような目で眺めていた。大臣たちは目を細め、侍女たちは寂しそうに笑い、老いた将軍でさえ、目元をハンカチでそっと押さえている。

 

 

 

 ──外の世界が見たい。

 

 それは、アズレイが何年も前から皇帝に願い続けてきたことだった。

 

 いずれ帝国を継ぐ者として育てられた兄とは違って、第二皇子として生まれたアズレイの世界は、幼い頃から冬宮の中に限られていた。多くを失ってきた父にとって、末の皇子だけは危険から遠ざけておきたかったのかもしれない。

 

 いつからか、窓の外に広がる街並みを見るたびにアズレイは思うようになる。

 

 自分はこの世界のことを何も知らない。

 兄が歩いた道も、父が守った国も、旅人たちが語る遠い土地も、すべて誰かの話として聞くだけだった。

 

 だからこそ、いつか自分の足で歩いてみたかった。

 

 意を決してその願いを口にした時、皇帝は当然のように首を横に振った。

 

 お前には必要ない、と。

 

 普段のアズレイなら、そこで引き下がっていたはずだった。皇帝である父に自分から話しかけることさえ簡単ではない。ましてや、その決定に逆らうなど、考えたこともなかった。

 

 それでも、この願いだけは諦められなかった。

 

 何度退けられても、アズレイは珍しく食い下がった。

 

 それほど強く願う末の皇子を見ても、皇帝はそれを一時の憧れにすぎないと思ったのかもしれない。

 

 もともとアズレイは、兄をはじめ、侍女たちや師範にも何かと目をかけられて育った子どもだった。厳しく鍛えられてきた兄とは違い、叱られるより先に宥められ、転ぶより先に支えられてきた。そうして守られてきたせいか、甘えたところも、泣き虫なところも、歳を重ねてもなかなか抜けなかった。

 

 皇帝は、そんなアズレイの根気など長く続かないと思っていたのだろう。越えられそうにない課題を与えれば、外への熱は自然と冷める。そうでなくとも、甘やかされてきた皇子を鍛え直す口実にはなる。

 

 最初に与えられた条件は、単純で、そして途方もないものだった。

 

 武術、語学、礼法、地理、野営術。

 皇宮で学ぶ貴族の子弟たちが当然のように身につけるものを、彼ら以上に修めること。

 

 だが、それはほんの前提に過ぎなかった。

 

 古い条約文を一字一句違えず暗記させられたかと思えば、宴の席で諸国の使節から本音を引き出すよう命じられる。極寒の冬の森に一人で放り出され、三日以内の帰還を言い渡されたかと思えば、今度は近衛騎士を相手に、その膝を一度でも床につかせるまで挑まされた。

 

 城の外で生きることと何の関係があるのか分からない課題から、幼い皇子に背負わせるにはあまりに過酷な試練まで、課される条件は、数え切れないほどだった。

 

 アズレイがひとつを乗り越えるたび、皇帝は待ってましたとばかりに、また新たな無理難題を差し出してくる。

 

 そんな日々が、二年以上も続いた。

 

 それでもアズレイは、どれも投げ出さなかった。泣き言をこぼしながらも、ひとつずつ越えていった。

 

 けれど、すべてを満たしたあとでなお「やはり駄目だ」と言われた時だけは、胸の奥で何かが切れた。

 

 その瞬間、アズレイはそれまで誰も見たことのない怒りを露わにした。

 

 部屋に閉じこもり、誰が呼んでも返事をせず、運ばれてきた食事にも手をつけなかった。侍女たちは困り果て、侍女長が扉の前で何度も声をかけ、師範たちまで不器用に説得しに来た。

 

 水さえまともに口にしていないのではないかと、侍女たちが青ざめ始めた五日目には、とうとう典医が呼ばれた。

 

 そしてついには、遠方の領地に出ていた兄まで、予定を切り上げて冬宮へ戻ってきた。

 

 それでも、アズレイは扉を開けなかった。

 

 七日目になって、ようやく皇帝が折れた。

 

 十六歳になったら。

 外の世界を渡る者たちが挑むという、あの難関試験に合格したなら。

 二年だけ、城の外へ出ることを許す。

 

 

 

 

 その約束をしたオルドヴィア皇帝ヴィクトル=オルロフは今、賑やかな大広間の奥で、誰よりも厳しい顔をしていた。重厚な椅子の肘掛けに片肘を置き、こめかみに指を添えたまま、もう片方の指先で卓を一定の間隔で叩いていた。

 

 祝宴の席にふさわしくないほど硬い表情に、給仕たちはいつもより気を配っていた。杯が空けばすぐに新しい酒を注ぎ、皿には皇帝の好む料理をそっと取り分ける。けれど皇帝は、どれにもほとんど手をつけなかった。

 

 時折アズレイへ向けられる視線だけが、厳しさの奥に隠しきれない心配を滲ませていた。

 

 かつて戦場で敵陣を押し破り、帝国を勝利へ導いた英雄も、今はただ、末の息子を送り出せずにいる父親の顔をしていた。

 

 対照的に、その隣では、アズレイの九つ年上の兄、第一皇子レオンハルト=オルロフは、穏やかな笑みを浮かべて貴族たちと談笑していた。

 

 父である皇帝が、戦場で城門さえ砕く鉄槌のような男だとすれば、レオンハルトは宮廷で静かに抜かれる細剣のようだった。すらりと背が高く、肩にかかる金の髪は灯りを受けて淡く輝いている。微笑むたびに耳元の蒼い宝石が揺れ、近くにいた令嬢たちは一斉に色めきだつ。

 

 けれど、レオンハルトの本当の強みは、その美しさではなかった。

 

 気難しいことで有名な老公爵でさえ、彼の前では肩を揺らして上機嫌に笑っている。誰にどんな言葉を渡せば場が和らぐのか、レオンハルトはよく知っていた。

 

 かつて帝国を守ったのが皇帝の武なら、これからの国を導くのは、兄のように言葉で道を拓ける君主なのだろう。

 

 

 

 

 やがて楽団の音が静まり、給仕たちが銀の杯を配っていく。大広間にいた者たちの視線は、自然とレオンハルトへ集まった。

 

 第一皇子は杯を手に、迷いのない足取りで前へ出る。衣擦れの音さえ遠のく中、彼が背筋を伸ばしただけで、広間の空気がすっと整った。

 

「本日は、我が弟アズレイのためにお集まりいただき、心より感謝申し上げます」

 

 よく通る声が、穏やかな重さを帯びて響く。

 

「十六歳という年は、不思議な境目にあります。守られるばかりの幼さを残しながらも、自らの足で立つことを求められ始める年です。世界へ一歩を踏み出すには、きっと、これほどふさわしい時はないのでしょう」

 

 そこで、レオンハルトの視線が一瞬だけアズレイへ向いた。

 

 誇らしげな眼差しだった。

 

「明日より、アズレイは城の外へ出ます。はじめに、自ら望んだ道にふさわしい力を示すため、試練へ向かうことになるでしょう。その先で、オルドヴィアの外を見て、知らぬ土地の風を受け、見知らぬ人々の声に触れるはずです。楽しいことばかりではありません。迷う日も、傷つく日もある」

 

 広間は静まり返っていた。

 

「けれど、私は信じています。弟が外で得るものは、彼を強くし、いつか必ず、この国を照らす知恵となる。アズレイの旅路が、彼自身の未来だけでなく、オルドヴィアの未来をも明るくするものになると」

 

 ただ一人、皇帝だけは杯の縁を見つめたまま、最後まで笑わなかった。

 

 レオンハルトは杯を掲げた。

 

「我らが小さき光、アズレイ=オルロフの十六歳と、その旅立ちに」

 

 広間中の杯が持ち上がる。

 

「殿下に」

「良き旅を」

「アズレイ殿下に祝福を」

 

 声が重なり、大広間に柔らかな熱が満ちていく。

 

 兄の完璧すぎる運びに、アズレイは感心とも呆れともつかない目を向けた。けれどすぐに銀の杯を持ち上げ、人々へ向けてにこりと笑った。

 

 やがて歓声は収まり、広間には再び楽団の穏やかな音色が戻りはじめた。

 

 杯の音と談笑がしばらく続いたあと、祝宴はゆるやかに終わりへ向かっていった。広間の灯りも和らぎ、貴族たちは順に退出していく。楽団の音が遠ざかる中、皇帝は最後まで厳しい顔を崩さなかったが、別れ際、アズレイの前で足を止めた。

 

 大きな手が、そっと頭に置かれる。

 

 何度も国の運命を決めてきた手は、節ばって硬かった。その重みが、アズレイの髪越しに静かに伝わってくる。

 

 皇帝はしばらく何も言わなかった。

 

 それから、低い声で一言だけ告げた。

 

「無茶はするな」

 

 その短い言葉に込められたものを、アズレイは分かっているつもりだった。

 心配も。許したくなかった気持ちも。それでも約束を守ろうとしてくれていることも。

 

 けれど、その時の重みを、アズレイはまだ本当の意味では知らなかった。

 

「はい、父上」

 

 礼をして顔を上げると、レオンハルトがすぐ横に立っていた。

 

「父上、アズレイを少し借りていきます」

 

 レオンハルトは皇帝にそう言って、アズレイの肩を軽く押した。

 

「え、今?」

 

 そう言いながら、アズレイの視線が卓の上に向く。皿に乗せたばかりの白い菓子に、まだ手をつけていない。

 

「兄上、せめてあれを食べてから──」

「今夜くらい、兄に付き合え。アズリル」

 

 レオンハルトは涼しい顔でそう言うと、促すように弟の背を押した。

 

 アズレイは照れたように瞬きした。

 

 アズリル。

 

 その名で呼ぶのは、兄だけだった。

 

 オルドヴィアの古い言葉で、「小さな光」という意味を持つ。幼い頃、兄がふざけて口にしたその響きは、いつの間にか、二人だけの呼び方になっていた。

 

 レオンハルトは何でもない顔で歩き出した。アズレイは遅れて、その隣に並ぶ。

 

 そのとき、いつの間に現れたのか、体格のいい黒づくめの男が音もなく二人の後ろについた。

 

 ──ノクトだ。

 

 アズレイはちらりと振り返った。

 

 祝杯のあいだ、何度も姿を探したはずなのに、見つけられなかった。あの広間のどこに控えていたのだろう。

 

 ノクトは、第一皇子付きの筆頭近衛騎士だった。いつもレオンハルトの斜め後ろに控え、必要な時以外はほとんど声を発しない。華やかな灯りと笑い声に満ちた冬宮の中で、彼だけがその賑わいから切り離されているようだった。

 

 アズレイは歩きながら、久しぶりに見るノクトを、肩越しにちらちらと覗き見た。

 

 無駄のない姿勢。感情を映さない静かな目元。黒衣の上からでも分かる広い肩と、鍛えられた体つき。レオンハルトと同じ年のはずなのに、その佇まいには熟練の兵士のような静けさがあった。

 

 歩いているだけで、周囲への警戒が身体の芯まで染みついているのが分かる。

 

 アズレイの視線に気づいたのか、ノクトはほんのわずかに目を伏せた。

 

 それだけで、礼を返されたのだと分かった。

 

 アズレイは慌てて背筋を伸ばす。

 

 アズレイの部屋に着くと、レオンハルトは扉の前で足を止めた。

 

「ノクト。アズリルと二人で話がしたい。ここで待っていてくれ」

「承知しました」

 

 ノクトはいつもの静かな声で答え、扉を開ける。

 

 レオンハルトは当然のように先に入り、アズレイもその後に続いた。

 そして二人が部屋へ入るのを見届け、静かに扉を閉めようとしたその瞬間。

 

 レオンハルトが、王族の威厳をすべて脱ぎ捨てるように、アズレイのベッドへ勢いよく倒れ込んだ。

 

「疲れたあああ……」

 

 豪奢な正装のまま、うつ伏せに沈む。片腕がだらりとベッドの外へ落ち、もう片方の手が襟元の留め具を雑に外し始めた。

 

 まだ閉まりきっていない扉の向こうで、ノクトの手が一瞬だけ止まる。

 

 アズレイも扉の前で立ち尽くしたまま、目をぱちくりさせた。

 

 つい先ほどまで、広間中の視線を集めていた完璧な皇太子が、今は弟のベッドに突っ伏している。

 

「……兄上」

 

 呆れたように呼ぶと、ベッドの上からくぐもった声が返ってきた。

 

「無理だ。もう今日は一歩も動きたくない」

 

 アズレイは小さく息をついた。

 いつものことだ。

 そう思いながら部屋の奥へ歩き出すと、扉の向こうでノクトが無言のまま軽く会釈し、扉が静かに閉まる。

 

 兄は続けて外套を脱ぎ捨てた。銀の刺繍が入った布が、哀れなほど無造作に床へ落ちる。次に靴が片方、ぽん、と飛んだ。

 

 アズレイは何事もなかったように椅子へ座り、茶器へ手を伸ばす。細い指が慣れた動きで茶葉を量り、湯を注ぐ。その仕草だけは、祝宴の広間にいた時と変わらず上品だった。

 

 兄はベッドの上からそれを眺め、にひひ、と笑った。

 

「俺より、お前の方がよほど皇子らしいな」

「僕は普通です。兄上がおかしいだけです」

「そんなこと言うなよー」

 

 兄は笑いながら、今度は靴下まで脱ぎ捨てた。

 

 アズレイは眉を寄せる。

 

「本当だよ。ずっとノクトと一緒にいて、どうしてこうなるかな。爪を煎じて飲ませてもらった方がいいんじゃない?」

 

 その言葉に、兄の動きがぴたりと止まった。

 

「……へえ」

 

 アズレイは嫌な予感を覚えた。

 

 兄がゆっくり顔を上げる。

 

 その目が、完全にいたずらを思いついた時のものだった。

 

 次の瞬間、兄の手が伸びた。

 

「わっ」

 

 腕を引っ張られ、アズレイは椅子からずるりと引き剥がされる。

 そのままベッドへ転がされ、兄に上から押さえ込まれた。

 

「兄上!」

「口の悪い弟には罰だ」

「やめ、やめて、っ、くすぐるな!」

 

 兄の指が容赦なく脇腹を攻める。

 

 アズレイは身をよじり、声を殺そうとして、結局できずに笑い出した。髪は乱れ、整えられていた正装も見る影なく着崩れて、頬は笑いすぎて赤くなっている。

 

「兄上、やめて、ほんとに、もう!」

「反省したか」

「したした、したから!」

「いや、まだだ」

 

 兄はさらにくすぐり、二人はそのまま子どものようにベッドの上で取っ組み合いになった。

 茶がすっかり冷めた頃に、ようやく兄が手を止めると、アズレイは息を切らしながら涙目で兄を睨んだ。

 

「ひどい」

「先にひどいことを言ったのはお前だ」

「事実だってば」

「まだ言うか」

 

 兄は笑いながら、ベッドに横たわったまま片肘をついた。

 

「まったく。お前は昔から、俺よりノクトに甘い」

「べ、別にそんなことは……」

 

 アズレイはすっと目をそらした。耳の先がわずかに赤い。

 

 レオンハルトはそれを見て、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 けれど何も言わず、仰向けに転がる。

 

 

 しばらく、二人は並んでベッドに転がったまま、何となく黙っていた。

 やがて兄が天井を見上げて、ぽつりと言った。

 

「明日かあ」

 

 その声は、さっきまでより静かだった。

 

「月日が経つのは早いな。もう十六か」

 

 アズレイはぱっと顔を上げる。

 

「大人っぽくなった?」

 

 期待を隠しきれない、きらきらした目だった。

 

 兄はじっとアズレイを見つめた。

 さっきまで笑い転げていた人間とは思えないほど、まっすぐで真剣な顔だった。

 

 アズレイは期待を込めて、顎を上げた。

 

「どう?」

 

 兄はしばらく黙った。

 

 そして、きっぱりと言った。

 

「全然」

「もー!」

 

 アズレイは即座に手を振り上げた。

 

 叩こうとする手を、兄は慌てて両手で受け止める。

 

「……悪かった。悪かったって」

 

 兄は笑いを堪えながら、宥めるようにアズレイの手首を軽く握った。

 

 それから、声を柔らかくする。

 

「そんなに急いで大人になる必要なんてないんじゃないか? そういう子どもっぽさも、立派な取り柄だ」

「子どもっぽさが取り柄って、馬鹿にしてる?」

 

 アズレイはむっとした顔のまま、兄を見る。

 

「放っておけないと思わせるのは、人の上に立つ者にとって大事な魅力だ。

 気づけば周りが手を貸していて、気づけば味方になっている。そういうのは、才能だぞ」

「うーん……」

 

 アズレイは納得のいかない顔で、壁際の大鏡へ視線をやった。乱れた髪を指先で直しながら、鏡の中の自分を確かめる。少しでも大人びて見えないかと顎を上げてみたが、映る顔はどうにも頼りない。

 

 その拍子に着崩れた正装の肩口がはだけた。普段から侍女たちに丁寧に手入れされている白い肌と、細い首筋が視界に入り込む。

 

 どこか無防備で、見る者の調子を狂わせるような姿に、レオンハルトは気まずそうに顔を逸らした。

 

「お前のそういうところ、大抵の人間は折れるしなぁ」

「そういうところ?」

 

 アズレイが、話についていけないという顔をする。

 

「どこぞの王が、姫君の代わりにお前を妃に迎えたいと、婚姻を申し込んできたくらいだ」

「そんなの、全然嬉しくない。男なのに、妃とか……」

 

 小さくぼそぼそと続ける。

 

「……ノクトみたいな顔に生まれたかった」

 

 レオンハルトは一瞬、目をぱちくりさせた。

 

 次の瞬間、レオンハルトは今日一番大きな声で笑った。

 

「っ、ははははっ!」

「なんだよ!」

 

 アズレイは一気に顔を赤くする。

 

 兄は腹を抱え、ベッドの上で肩を震わせた。

 

「悪い、悪い……いや、でも、お前、本当にノクトが好きだな」

「別に」

 

 アズレイは目を逸らし、唇を結んだ横顔に、かすかな不機嫌さが滲んでいる。

 

 兄はそれに気づいて、からかいを引っ込めた。

 

「まあ、分からなくもないけどな。あいつはモテるよ。国でも一、二を争う腕だし、立ち回りは完璧すぎる。顔も悪くない」

 

 アズレイは、まんざらでもない顔を隠すように視線を落とした。

 

 レオンハルトはそこで、わざとらしく肩をすくめた。

 

「図体が無駄にでかいし、愛想がないのが玉に瑕だな」

 

 少々、頭の働きが独特すぎるところもある。

 

 レオンハルトは心の中でそう付け足したが、もちろん口には出さなかった。

 

「……そこがいいのに」

 

 我慢しきれず、アズレイは即座に言った。

 

 兄は呆れたように片手を振る。

 

「はいはい」

 

 レオンハルトは軽く流した。

 

 けれど次に口を開いた時、その声からはからかいの色が消えていた。

 

「……まあ、実際、お前のこういうところを見ると不安にはなるんだよな」

 

 アズレイは顔を上げる。

 

「城の外は、お前に甘い人間ばかりじゃない」

「……兄上は、賛成してくれてるんだと思ってた」

 

 ぽつりと漏らすと、レオンハルトは苦笑した。

 

「賛成してるよ。……心配もしてる。両方だ」

 

 兄は肩をすくめる。

 

「父上も、ずいぶん子どもっぽいことをしたよな。行かせたくないなら、最初から駄目だと押し通せばよかったのに。条件を足して、先延ばしにして、最後にはハンター試験だ」

 

 アズレイの指先が、ぴくりと動いた。

 

「ほとんど、諦めろと言っているのと同じだ」

「……やっぱり、そんなに難しいのかな」

「ハンター試験だからな」

 

 レオンハルトの声は静かだった。

 

「合格できるのは数万分の一とも、年によっては数十万分の一とも言われている。皇子の名前も、家柄も、護衛も通用しない。外に出れば、お前はただの受験者の一人だ」

 

 アズレイは何も言えなかった。

 

 知っていたはずのことなのに、兄の口から聞くと、急に現実の形を持つ。

 

 レオンハルトは横目で弟を見た。

 

 不安そうに伏せられた睫毛。さっきまでノクトの話で赤くなっていた頬から、色が引いている。

 

 それに気づいて、ふっと笑った。重くなりかけた空気を払うように、わざと軽い声を出す。

 

「まあ」

 

 アズレイが顔を上げる。

 

「お前なら、どうにかするさ。兄の勘だ」

 

 レオンハルトはそう言って、アズレイの額を指先で軽く弾いた。

 

「それに、お前は俺が思っていたよりずっとしぶとい。父上の無茶な条件を、全部越えてきただろ」

 

 アズレイは額を押さえながら、小さく唇を尖らせた。

 

「……苦労したんだからね」

「知ってる」

 

 そう答えた兄の声は、驚くほど穏やかだった。

 

「だから、行ってこい」

 

 レオンハルトはアズレイの頬にそっと手を添え、親指で名残惜しむように撫でた。そのまま指先を滑らせ、迷うように唇の端へ触れる。

 

 その声に、ほんのわずかな寂しさが混じった。

 

「父上がどれだけ心配しても、俺がどれだけ寂しくても、お前が自分で選んだ道なら、止めるべきじゃない」

 

 アズレイの胸の奥がきゅっと詰まった。

 

 迷った末に、アズレイは兄へ身を寄せた。

 

「ありがとう」

 

 そのまま、ぎゅっと兄に抱きつく。

 

 兄は一瞬だけ目を丸くして、照れくさそうに笑った。

 

 けれどすぐに、その表情は和らいだ。

 

 弟の乱れた髪に何度か指を通してから、ゆっくりと抱きしめ返した。

 

「……必ず無事に、帰ってくるんだぞ」

 

 引き寄せる手に力がこもる。

 

 アズレイは兄の肩に額を預けたまま、くすぐったそうに笑った。

 

「うん」

 

 兄は心配しすぎだと、そう思った。

 まずはハンター試験。

 それに合格して、ようやく二年の旅が始まる。

 少し外を見て、少し遠くへ行って、知らないものを見て帰ってくる。

 それだけの旅になるはずだった。

 

 

 それからしばらく、二人は取り留めのない話をした。

 

 明日からの旅のこと。

 城下の外れにある古い橋のこと。

 兄が昔、父に内緒で抜け出そうとして、ノクトに三歩で捕まった話。

 アズレイがまだ小さかった頃、雪の中で転んで泣いた話。

 くだらない話ばかりだった。

 

 けれど、どの話も妙に惜しくて、二人ともなかなか終わりを見つけられなかった。

 

 

 やがて兄が、体を起こした。

 

「……さて」

 

 散らかった外套や靴下を見下ろし、顔をしかめる。

 

「そろそろ回収しないと、ノクトに本当に怒られるな」

 

 そう言いながら、レオンハルトは床に投げ出した服をかき集め始めた。

 

 アズレイはベッドの上に座ったまま、その様子を見ていた。

 

 

 明日の朝には、城を出る。

 

 さっきまで晴れやかだった胸の奥が、急に寂しさを帯び始める。

 

 兄はそれに気づいたようだった。

 

「また明日の朝な、アズリル」

「……うん」

「そんな顔するな。旅立ちの朝から泣かれたら、父上が本気で取り消すぞ」

「泣かないよ」

 

 兄は軽く笑い、扉へ向かった。

 

 扉を開けると、外には変わらずノクトが立っていた。

 背筋を伸ばし、まるで時間が止まっていたかのようにそこにいる。

 

「お待たせ」

「いえ」

 

 ノクトは静かに頭を下げた。

 

 兄はそこで、思い出したように振り返る。

 

「あ、そうだ。アズリル」

「なに?」

「ノクト、お前に渡したいものがあるらしいぞ」

 

 アズレイは目を瞬かせた。

 

「ノクトが?」

「せっかくの機会だ。二人で少し話をしな」

 

 それからノクトの肩に手を置き、身を寄せる。アズレイには聞こえないほど低い声で、何かを耳元に囁いた。

 

 その瞬間、ノクトの目が、ほんのわずかに見開かれた。

 

 けれどそれも一瞬で、彼はすぐに目を伏せた。

 

「……承知しました」

 

 レオンハルトは満足そうに頷いた。

 

「じゃ、よろしくな」

 

 そう言い残して、廊下の向こうへ歩いていった。

 足音が少しずつ遠ざかる。

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