HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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物語の結末にあたる、ひとつの終わりの場面です。


プロローグ 小さな光

「陛下」

 

 低く掠れた声が、静まり返った寝室に落ちた。

 

「最後ぐらい、ちゃんと名前で呼んでよ」

 

 長い沈黙のあと、ようやくその頑なな唇が震えた。

 

「……アズリル」

 

 その名を聞いた瞬間、アズリルは静かに微笑んだ。

 

 

 愛する人に殺されることは、果たして残酷な運命なのだろうか。

 少なくともアズリルにとって、これ以上に幸福な結末などありはしなかった。

 その手で終わりをもらえるのなら、それはもはや罰ではなく、救いに近い何かになる。

 

 

 慣れ親しんだ大きな手が、アズリルの喉元を目前にして彷徨っていた。指先はひどく震えている。ようやく肌に触れたかと思えば、まるで熱に焼かれたかのようにすぐ離れていった。

 

「そんな顔をしないで」

 

 アズリルは手を伸ばし、男の頬に触れた。

 それを合図にするように、男が必死に堪えていた涙が一気に溢れ出す。アズリルは親指でその涙を拭うと、自分より背の高い身体を、愛おしそうに腕の中へ引き寄せた。

 

 男はアズリルの肩に顔を埋め、声を漏らすまいと必死に息を殺す。それでも喉の奥から零れる呼吸は、ひとつひとつ痛ましいほど震えていた。

 

「大丈夫」

 

 アズリルは囁き、男の後頭部をそっと撫でた。

 

「ここにいるよ。まだちゃんと、ここにいるから」

 

 男の呼吸が少しだけ整うのを待ってから、アズリルは彼の顎に指を添え、伏せられた顔をこちらへ向けさせた。涙に濡れた頬へ、慰めるように幾度も唇を触れさせる。

 

 そこでとうとう堪えきれなくなったように、男はアズリルの頬を両手で包み込んだ。

 

 最初は、許しを乞うような、痛いほど優しい口づけだった。

 

 けれど、その理性は瞬く間に崩れ去る。

 

 堰を切ったように、男は何度もアズリルの唇を求めた。一度離れては、また重ねる。必死に、何度も、何度も。離れてしまえば本当に全てが終わってしまうことを、彼だけがまだ認められずにいるように。

 

 やがて口づけは次第に弱々しいものへと変わり、それでも男は、途切れがちな呼吸の合間に縋るように唇を重ね続けた。

 

 ようやく動きを止めたときも、その額はアズリルの額に押し当てられたままだった。

 

 アズリルは、そっと男の胸を押した。

 

「もう……時間が」

 

 男は強く奥歯を噛み締めた。それでも、溢れ続ける涙を止めることはできない。

 アズリルは男の手を取り、自らの白い首元へと導く。

 

「怖くないよ」

 

 もう一度、安心させるように微笑む。

 

「僕は幸せだ。本当に。だから……お願い」

 

 男は最後にもう一度だけ、アズリルの唇を塞いだ。別れを告げるためではなく、二度と戻らない温度を、骨の髄まで覚えておくための口づけだった。

 

「……愛していた。ずっと」

 

 再びアズリルを見つめた男の瞳には、凄絶な決意が宿っていた。消えゆく星が放つ最後の光のように、強く、痛ましいほどに燃えている。

 

 ゆっくりと、喉に添えられた指に力が込められた。

 

 アズリルは静かに身を任せた。何度も自分を守り、触れてくれた、大好きな手だった。その温もりを感じているだけで、不思議と死の恐怖は消えていた。

 

 視界が滲み始める。

 男の顔も、その頬を伝う涙も、寝台のそばで揺れる小さな灯りも、すべてが遠ざかっていく。

 

 気づけば、柔らかな寝台に背中が深く沈んでいた。男は覆い被さるように身を寄せながら、一度たりともアズリルから目を逸らさなかった。

 

 上から零れ落ちた涙が、アズリルの頬を冷たく濡らす。

 

 ひどい顔。

 ぼんやりと、アズリルは思った。

 この人はいつだって強く、何があっても揺らがない人に見えていた。それなのに今は、まるで迷子の子どものように泣きじゃくっている。

 

 それが少しだけ可笑しくて、どうしようもなく、愛しかった。

 

 ──ありがとう。

 

 声にはならなかった。

 けれど最後に動いた唇は、確かにそう告げていた。

 

 遥か遠くで、男が何かを叫んでいる。

 

 けれど、その声がアズリルに届くよりも先に──

 

 世界は、静かに途切れた。

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