HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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アズリル周りの感情面と関係性を少し回収する回です


オルドヴィアの王子

 ノクトとの騒動があった翌朝、先に目を覚ましたのはレオリオたちだった。

 

 レオリオは大きな欠伸を噛み殺しながら、食堂代わりのリビングへ入ってきた。目尻には、欠伸のせいで滲んだ涙が少し浮かんでいる。

 

 クラピカとゴンは、すでにテーブルを囲んで朝食を取っていた。ゴンはパンを頬張り、クラピカはコーヒーを片手に新聞へ目を落としている。

 

「……おはよう」

 

 レオリオは眠そうな声でそう言うと、ふらふらと椅子に腰を下ろした。

 

 結局、昨夜アズリルが部屋を出ていったあと、ほとんど一睡もできなかった。

 

「随分眠そうだな」

 

 クラピカは新聞から目を上げずに言った。

 

「……ああ。ちょっと、寝つきが悪くてな」

 

 レオリオは気まずそうに視線を逸らす。

 

 眠れなかった理由を思い出した途端、妙な後ろめたさがこみ上げてきて、ますます目を合わせられなくなった。

 

「アズリルは」

「まだ寝ているようだ」

 

 レオリオは部屋の中を軽く見回した。

 

「……あいつは」

 

 クラピカは目を落としたまま、窓の方を指さす。

 

 レオリオは座ったまま身を乗り出し、窓の外を覗いた。

 

 家のすぐ外に、ノクトが立っていた。家に背を向け、背筋を伸ばしたまま、まるで門番のように微動だにしない。

 

「何してんだ、あいつ」

「見張りだって言ってたよ」

 

 ゴンは口いっぱいにパンを詰め込んだまま答えた。

 

 レオリオはしばらく無言でノクトを見ていたが、ふと部屋の中へ視線を戻した。

 

 昨夜、自分が吹き飛ばされてぶつかった食器棚は、もう元通りに片付けられていた。倒れた棚も、床に散らばっていた破片も、跡形もない。

 

 その視線に気づいたのか、クラピカが静かに言う。

 

「昨夜、君たちが部屋へ戻ったあと、ノクトが片付けていた。割れた食器までは元に戻せないから、あとでゼブロに弁償すると言っていたよ」

「そ、そうか……」

 

 レオリオは複雑な顔で頷き、目の前のコーヒーに手を伸ばした。

 

 その間も、クラピカは相変わらず新聞を見下ろしている。だが、先ほどから同じ箇所をじっと見つめたまま、ページをめくる気配がなかった。

 

「なあ。昨日のことだが」

 

 その言葉に、レオリオの肩がびくりと跳ねた。

 

「な、何だよ」

 

 クラピカは黙って新聞を持ち上げ、レオリオの方へ向けた。

 

「これを見てくれ」

 

 レオリオは眉をひそめながら新聞を覗き込む。

 

 最初は何のことか分からなかった。だが、記事の見出しと、そこに載っている写真を確認した瞬間、顔色が変わった。

 

「……おい」

 

 ゴンも気になったのか、椅子から立ち上がって後ろへ回り込み、新聞を覗き込んだ。

 

「こ、これ、いつの新聞だ」

 

 レオリオの声が小さくなる。

 

「数か月前のものだ。ここに置かれたままになっていたらしい」

 

 クラピカの表情も、いつになく硬かった。

 

「昨日言ってたレオンハルトって、この人のことだったの?」

 

 レオリオは慌ててゴンの口を塞ぎかけた。

 

「声がでけえ!」

 

 クラピカも窓の外を気にしながら、声を落とす。

 

「私も、まさかとは思った。だがこの写真を見ろ。レオンハルト皇太子の後ろに立っている護衛。どう見てもノクトだ」

 

 レオリオはもう一度、新聞の写真に目を落とした。

 

 そこには、華やかな式典らしき場で微笑む美しい青年が写っていた。整った容貌も、穏やかな微笑みも、堂々とした佇まいも、新聞の小さな写真に収められてなお人目を引く。見出しには、オルドヴィア帝国第一皇子、レオンハルト=オルロフの名が大きく載っている。

 

 そして、その背後に控えている黒衣の騎士。

 

 その顔に、三人は息を呑んだ。

 

 今、建物の外にいる男と同じ顔をしていた。

 

 ほとんど同時に、三人は窓の外を見る。

 

 ノクトは相変わらず、建物の前で背を向けたままだった。

 

「待て待て待て」

 

 レオリオは額に汗を浮かべながら、小声で早口に言った。

 

「アズリルは昨日、レオンハルトってやつのこと、兄上って呼んでたよな。そのレオンハルトが、この写真のレオンハルト皇太子だとすると……」

 

 一瞬、誰も何も言わなかった。

 

 それだけで、ほとんど答えは出ていた。

 

「……じゃあ、アズリルって」

 

 レオリオの声がかすれた。

 

 クラピカは新聞を見下ろしたまま、低く言った。

 

「レオンハルト皇太子の弟、ということになる」

「皇太子の弟ってことは……」

「オルドヴィア帝国の皇子だ」

 

 レオリオはごくりと喉を鳴らした。

 

「……マジかよ」

 

 重い沈黙が落ちる。

 

 その空気を壊すように、ゴンが首を傾げる。

 

「ねえ、オルドヴィアテーコクって何? そんなに有名なの?」

 

 レオリオとクラピカは、ぎょっとした顔でゴンを見た。

 

 次の瞬間、二人は勢いよく口を開いた。

 

「お前、一体どこの世界で生きてきたらオルドヴィアを知らずに済むんだよ!?」

「ヨルビアン大陸でも最大級の版図を持つ、世界有数の大帝国だ。歴史は古く、軍事力も資源も桁外れ。長いこと閉国主義を貫いていたせいで内情は謎に包まれていたが」

「そうそう! その閉ざされてた国が、最近になって急に外交に乗り出したんだよ。その中心にいるのが、このレオンハルト皇太子で──」

「周辺国はもちろん、ハンター協会やV5の要人すら動向を注視している。政治的にも軍事的新調においても、世界を揺るがすレベルの超大物だ」

「しかもこの顔だぞ!? 連日テレビでも新聞でも大特集されて、今世界中で知らない奴はいねえってくらいの有名人なんだよ!」

 

 息つく間もないセリフの応酬の末、二人はぜえぜえと肩を荒く上下させながら、同時にゴンを睨み据えた。

 

「分かったか」

「分かったな」

 

 ゴンは二人の凄まじい熱量と圧に完全圧倒され、頬に汗を伝わせながら引きつった顔でコクコクと頷いた。

「う、うん……なんとなく分かった……」

 

 クラピカは深く息を吐くと、ぱたりと新聞を閉じた。

 

「ともかくだ」

 

 その声は、先ほどよりずっと真剣だった。

 

「このことは絶対に他言無用だ。いいな。もし本当にアズリルがオルドヴィアの皇子なら、私たちが軽々しく口にしていい話ではない。外に漏れれば、彼だけでなく、国同士の問題になりかねない」

 

 レオリオは大きく頷いた。

 

 ゴンも、詳しいことはまだよく分かっていないようだったが、二人の表情を見て真面目に頷く。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 その日の昼過ぎ、アズリルはようやく目を覚ました。

 

「……ん」

 

 寝台の上でゆっくりと身じろぎし、アズリルは大きく欠伸をした。目元をこすりながら、ぼんやりと時計へ視線を向ける。

 

 柔らかい蜂蜜色の髪は、寝癖であちこちに跳ねていた。

 

「……何時」

 

 針が示す時刻を理解しても、慌てる気力は湧かなかった。

 

 アズリルはしばらく寝台の上でぼんやりしてから、のろのろと身体を起こす。ちらりと隣の寝台を見たが、そこにノクトが眠った痕跡はなかった。掛け布も、枕も、使われた様子がない。

 

 昨日、自分が言った言葉を思い出して、胸の奥が小さく痛んだ。

 

 アズリルは寝台から下りると、窓辺へ向かった。

 

 三階にある部屋の窓から庭を見下ろすと、ゴンたちはちょうど昼の訓練を終えるところらしい。レオリオは上半身に汗を光らせながら、二百キロ以上はありそうな重りを背負い、最後の坂道を駆け上がっていた。

 

「……元気そうだ」

 

 小さく呟いて、アズリルはほっと息を吐く。

 

 その時、窓の下に、見覚えのある立ち姿が見えた。

 

 窓から身を乗り出して真下を覗くと、家の壁を背にノクトが立っていた。

 

 昨夜から、ずっとそこにいたのだろうか。

 

 胸に浮かんだ罪悪感を振り払うように、アズリルは首をぶんぶんと振った。

 

 レオリオにあんなことをしたのだ。一晩くらい外にいたって、ノクトなら平気だ。

 

 そう思うことにして、アズリルは窓から離れた。

 

 身支度を整えて下へ降りると、ちょうどレオリオたちが息を切らしながら家へ戻ってきたところだった。

 

「あ……アズリル。起きたのか」

 

 レオリオは一瞬だけ気まずそうにしたが、すぐにいつもの調子で笑った。

 

「茶でも飲むか。あ、朝飯の残りもあるぜ」

 

 そう言いながら、レオリオはばたばたとテーブルへ向かい、アズリルの前にパンやら茶やらを並べ始める。

 

「……ありがとう」

 

 アズリルは困惑しながらも、差し出されたパンを手に取った。

 

「特訓……どうだった?」

「ああ、順調だ。かなりきついが、ゼブロはよく考えた訓練メニューを組んでくれている」

 

 クラピカは普段と変わらない声で答えた。けれど、最後まで目は合わなかった。

 

 部屋に、妙な沈黙が落ちる。

 

 アズリルはパンを口に運びながら、そっと顔を上げた。

 

 レオリオも、クラピカも、いつもと同じように振る舞っている。けれど、会話の間が少しだけずれていた。ゴンでさえ、落ち着かない様子で水を飲んでいる。

 

 結局、アズリルは何も言えないまま視線を落とし、冷めたパンを黙って噛んだ。

 

 味は、ほとんどしなかった。

 

 

 

 

 

 それから、さらに数日が経ち、レオリオはついに一人で一の門を開けられるようになった。

 

「わあ、すごいやレオリオ!」

 

 ゴンは大はしゃぎで飛び跳ねている。

 

「いやはや、驚いた。まさか二週間ほどでここまで来るとは」

 

 ゼブロは感心したように頷いた。

 

 その輪の少し外に立ちながら、アズリルはふと視線を動かした。

 

 ノクトは相変わらず、離れた場所から一行を見ていた。

 

 あの日以来、ノクトはアズリルに話しかけることも、近寄ることもしなかった。以前のように同じ寝室にいることもなく、夜をどこで過ごしているのかさえ、アズリルには分からない。

 

 けれど、変わったのはノクトだけではない。

 

 レオリオたち三人も、どこかよそよそしかった。

 

 クラピカは何かを考え込む時間が増え、レオリオは以前よりもずっと気を遣ってくるようになった。ゴンでさえ、いつものように話しかけてくるものの、ふとした瞬間に何かを言いかけて、途中でやめることがある。

 

 優しいのは変わらない。けれど、その優しさの中に、前にはなかった遠慮が混じっている。

 

 何もしないでいると、その距離ばかりが気になった。本を開いても文字は頭に入らず、部屋の中で一人時間を潰していても、皆が外で訓練している気配ばかりを追ってしまう。

 

 正直に言えば、アズリルは昔から、こういう訓練がひどく苦手だった。

 

 息が切れることも、身体が痛むことも、もう無理だと思ってからさらに足を動かさなければならないことも嫌いだった。自分が皆と同じようにできるはずがないとも、思っていた。

 

 それでも、何もしないまま置いていかれる方がずっと怖かった。

 

 だからアズリルは、最近になって、少しずつ特訓に加わるようになっていた。その日も五十キロの重りを背負い、皆の後を追うように坂道を上っていた。

 

 前方では、レオリオ、クラピカ、ゴンがさらに重い重りを背負って歩いている。三人の足取りも決して軽くはなかったが、それでもアズリルとは明らかに速さが違い、気づけば少しずつ距離が開いていた。

 

 息が上がるたび、肩に食い込む重りの痛みがじわじわと増していく。足元は頼りなく、気を抜けばそのまま坂道に膝をついてしまいそうだったが、それでもアズリルは何も言わず、ただ足元だけを見て歩き続けた。

 

 レオリオが何度も後ろを振り返っていることには気づいていた。けれど、顔を上げれば、もう無理だと見抜かれてしまいそうで、アズリルは気づかないふりをした。

 

 やがて、レオリオが足を止めた。

 

 しばらく迷うようにこちらを見てから、見かねたようにアズリルの方へ戻ってきた。

 

「そんなに無理して、怪我が悪化したらどうすんだよ」

「でも……」

「でもじゃねえ。お前、さっきから顔色悪いし、足元だってふらついてんだろ」

「大丈夫だって」

「大丈夫じゃねえよ。腕だってまだ治ってねえんだぞ」

「気にしないで先に行ってて。僕も、出来るところまでやってみたいんだ」

 

 レオリオは困ったように眉を寄せた。

 

 心配しているだけのはずだった。けれど焦れば焦るほど、口から出る言葉はきつくなる。

 

「そこまでして、俺たちに合わせることねえだろ」

 

 その言葉に、アズリルの足が止まった。

 

「……俺たち?」

 

 小さく繰り返した声は、思ったより冷えていた。

 

「僕は、そこに入ってないんだ」

 

 レオリオはそこでようやく、自分が何を言ったのかに気づいた。

 

 けれど、一度口にしたものはもう戻らない。

 

「いや、その……違う。そういう意味じゃなくてな。ただ、ほら、お前にはそういう……立場とかもあるだろ。俺たちと同じつもりでいたら、まずいっていうか」

 

 言い訳を重ねるほど、言葉は悪い方へ転がっていく。

 

 立場。

 

 その一言で、ここ数日の距離が何だったのか分かってしまった。

 

「……そういうことね。分かった」

 

 小さく呟くと、アズリルは重りを外した。

 

 どさり、と重い音を立てて、それが地面に落ちる。

 

「あ、アズリル?」

「疲れたから、先に戻ってるね」

「おい、待てって」

 

 様子がおかしいことに気づいたクラピカとゴンも、先の方から戻ってきていた。

 

「どうしたんだ」

「いや、先に戻るって……おい、アズリル!」

 

 けれどアズリルは振り返らなかった。

 

 そのまま、使用人の家がある方へ向かって坂を下り始める。

 

 三人は、何も言えないままその背中を見送るしかなかった。

 

 家へ戻る途中の道で、ノクトとすれ違った。

 

 おそらく、離れたところからずっとついてきていたのだろう。

 

「アズレイ様、どうかされましたか」

 

 通り過ぎざまに、ノクトが静かに尋ねる。

 

 アズリルは答えずにそのまま家へ向かう。

 

 ノクトも、一定の距離を保ったまま、ゆっくりと後を追ってきた。

 

 家の前まで来ると、アズリルは扉の前で足を止めた。

 

 背後にノクトの気配を感じながら、家の中へ入ろうと右手をかけ、扉を押す。

 

 けれど、扉はびくともしない。

 

 そうだった。

 

 この家の扉は、片側だけで二百キロもある。

 

 もう一度、力を込めた。右腕が震え、足を踏ん張っても、扉はほんの少しも動かなかった。

 

 惨めだった。

 

 自分の力では、家の中に入ることすらできない。

 

 けれどそれ以上に、このままノクトに扉を開けてもらえば、また同じ形に戻ってしまう気がした。

 

 王子と騎士。

 

 結局、自分はそこへ戻される。

 

 ぽたり、と地面に水滴が落ちた。

 

 乾いた土の色が、そこだけ濃く変わっていく。

 

「アズレイ様」

 

 ノクトの声が近づいた。

 

「どこか痛むのですか。腕ですか。扉は私が開けます。どうか、無理をなさらないでください」

 

 その言葉で、なぜか涙がさらに溢れた。

 

 アズリルは声にならない息を漏らし、扉に手をついたまま、肩を震わせる。

 

「アズレイ様、失礼します」

 

 無理に扉を押し続けるアズリルの右肩にそっと手を添え、慎重に扉から引き離そうとした。

 

 その瞬間だった。

 

 アズリルは振り向きざま、ノクトの胸に額を押しつけた。

 

 どん、と軽い衝撃が伝わる。

 

 そのまま、縋るようにノクトの服を掴んだ。

 

 声を殺す余裕もなく、アズリルは泣き出した。

 

 ノクトの胸元が、涙で少しずつ温かく濡れていく。

 

 両手をアズリルの背の近くで宙に浮かせたまま、触れるべきか、触れてはいけないのか分からずに立ち尽くしていた。

 

「僕はただ……友達と一緒に、普通に……遊んで、旅をしたいだけなんだ……っ」

 

 途切れ途切れにこぼれた言葉に、ノクトの目元がわずかに動いた。

 

 アズリルはしゃくり上げながら、上着の前を強く握りしめている。指先が白くなるほど力を込めても、ノクトは何も言わなかった。

 

 否定も、慰めも、励ましも口にしない。

 ただ、胸に縋りつく小さな身体を拒まず、その場に留まり続けた。

 

 そして、少し離れた坂道の上では、心配になって後を追ってきたレオリオがその光景を前に足を止めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 ようやく落ち着いたころ、アズリルは結局、ノクトに扉を開けてもらって自分の寝室へ戻っていた。

 

 先ほど無理に力を入れたせいで、左腕に巻いていた包帯が少し崩れている。

 

 アズリルは寝台の端に腰かけ、ノクトはその前に片膝をついて、黙々と包帯を直していた。

 

 一度すべてほどかれた包帯の下から、左手首に巻かれた細い革紐が顔を出す。

 

 アズリルは一瞬だけそれに目を留めた。それから、丁寧に包帯を巻き直していくノクトの手元を見下ろしながら、ぽつりと尋ねる。

 

「夜は……どうしてるの」

 

 少しだけ間があった。

 

「……クラピカ殿のご厚意で、ゼブロ殿から空き部屋をお借りしております」

 

 ノクトは静かに答えた。

 

「アズレイ様のご命令に背く形になってしまったこと、申し訳ございません。ご不快であれば、すぐに部屋を引き払い、外で──」

「いい」

 

 アズリルは短く遮った。

 

「いい。……すまなかった」

 

 包帯を巻く指先が、一瞬だけ止まった。

 

 けれど彼は顔を上げず、またすぐに包帯を巻き始めた。

 

 その沈黙が、やけに寂しく感じられた。

 

「……部屋、戻ってきてよ」

 

 包帯の端を押さえていた指先だけが、わずかに反応した。

 

「一人だと、広すぎるし……寂しい」

「できません、アズレイ様」

 

 すぐに返ってきた声は、静かだった。

 

「な、なんで」

「私は一介の臣下です。王子と同じ部屋で寝泊まりすることはできません。ご希望でしたら、部屋の前で待機いたします」

「な……ついこの間まで、ずっと一緒に寝てたじゃないか」

「それは、私がレオンハルト様の代わりを務めていたためです」

 

 ノクトは目を伏せたまま言った。

 

「自然と、距離を誤っておりました。度を越していたこと、謝罪いたします」

 

 アズリルは深く息を吐いたが、その言葉を聞いた途端、不意に思い出してしまった。

 

 今まで同じ部屋で眠っていたのは、兄ではない。あの十日ほど、夜ごとすぐそばにいたのは、レオンハルトの姿をしたノクトだった。

 

 そう思うと、急にその顔を見たくなった。

 

 本当に、今ここにいるのがノクトなのだと確かめるように、アズリルはまだ包帯を巻いている彼の肩へ、そっと右手を置いた。

 

 そこで初めて、ノクトが手元から目を離す。

 

 顔を上げ、アズリルを見る。

 

 その瞬間、胸がどきりと跳ねた。

 

 ここ数週間、ずっと一緒にいたはずだった。けれど自分は、この人をノクトとしては一度も見ていなかったのだと、今さら気づいてしまった。

 

 そう思った途端、これまでそのことに気づかずにいた時間が、急に惜しいもののように感じられた。

 

「……別に、僕がいいって言ってるんだからいいよ」

 

 アズリルは目を逸らした。

 

「ここで寝なよ」

「できません」

「どうして」

「レオンハルト様が許しません」

「大丈夫だよ。ノクトだし、兄上も気にしないよ」

「アズレイ様」

 

 ノクトは本当に困ったように眉を下げた。

 

「困ります」

 

 そう言うと、彼は急いで包帯の端を留め、立ち上がった。一歩下がると、いつものように深く頭を下げる。

 

「また何かありましたら、お声をおかけください」

 

 相変わらずそっけない態度に、アズリルは思わず口を尖らせた。

 

 ノクトが部屋を出ようとした、その直前。

 

「まだ……レオリオにしたこと、許したわけじゃないからね」

「はい。承知しております」

 

 ノクトは短く答え、扉へ向かった。

 

 扉を開けると、そのすぐ先に、レオリオがいた。

 

 腕を組み、逃げも隠れもしない顔で、まっすぐノクトを見ている。

 

「入らせてもらうぞ」

 

 一瞬、空気が張り詰める。

 

 けれどノクトは何も言わず、すぐに身体を横へずらした。

 

「どうぞ」

 

 拒まれると思っていたのか、レオリオは一瞬だけ拍子抜けしたような顔をした。

 

 それでもすぐに表情を引き締め、ノクトの横を通り抜けた。

 

 そして、何のためらいもなく寝台の方へ歩いてくると、どすん、とアズリルの横に腰を下ろした。

 

 ノクトはちらりとその様子を見たが、何も言わなかった。ただ静かに頭を下げ、扉を閉める。

 

「れ、レオリオ」

 

 いつもなら、近づくだけでどこか気まずそうにする男が、今はあまりにも堂々としていた。迷いも遠慮もなく、当然のように隣に座っている。

 

 レオリオは一度、深く息を吸った。

 

「アズリル」

「……うん」

「すまなかった!」

 

 突然頭を下げられて、アズリルはぽかんとした。

 

「さっき言ったこと、俺が悪かった。あんな言い方、するべきじゃなかった。いや、そもそも俺が勝手にビビって、勝手に距離を取ってただけだ」

 

 レオリオは顔を上げると、照れくさそうに頭をかいた。

 

「実は、あのあとクラピカたちと話しててさ。お前、もしかして……オルドヴィアの王子様、なのか? ええと、アズレイ王子、って」

 

 アズリルの肩が、かすかに強張る。

 

「正直、ど肝抜かれた。俺がずっと普通に話してた相手が、そんなとんでもねえ立場のやつかもしれないなんて、思わねえだろ。ちょっとビビったし、どう接すりゃいいのか分かんなくなった」

 

 レオリオはそこで一度言葉を切り、今さら確かめるように、アズリルの顔を見つめた。

 

「でもさっき、お前が泣いてるのを見たら、そんなの全部どうでもよくなった。俺にとってはさ。お前はやっぱり、アズリルなんだよ」

 

 照れくさそうに息を吐き、レオリオは続けた。

 

「一緒に試験を越えてきた仲間で、同じ飯食って、くだらねえこと喋って、怪我したら心配する。友達……だろ」

 

 そこで少しだけ、言葉が詰まる。

 

「それなのに俺は、さっき、お前をそういうふうに扱えなかった」

 

 言葉を探すように、レオリオは一度唇を噛む。

 

「突き放したみたいになった。本当に、悪かった」

 

 アズリルは固まっていた。

 

 信じられない言葉を、真正面から投げつけられた気がした。胸の奥に、じわじわと熱いものが広がっていく。

 

「……レオリオ」

 

 呼んだ声が震えた。

 

 次の瞬間、涙がこぼれた。

 

「う、え、おい、なんで泣くんだよ!?」

 

 レオリオが慌てて腰を浮かせる。

 

 けれどアズリルは、返事の代わりにその胸へ飛びついた。

 

「ありがとう」

 

 ぎゅっと服を掴む。

 

「ありがとう、レオリオ」

「お、おう……」

 

 レオリオは真っ赤になったまま固まっていたが、やがて困ったように笑って、ぽんぽんとアズリルの背を叩いた。

 

 その時、扉の方から静かな声がした。

 

「私たちのことも、忘れないでほしいな」

 

 アズリルが顔を上げると、いつの間にか扉が少し開いていた。

 

 そこにはクラピカとゴンが立っていた。二人とも、どこか申し訳なさそうな顔をしている。

 

 クラピカは一度レオリオに視線を向けてから、静かに部屋へ入ってきた。そして、アズリルの前で足を止める。

 

「アズリル。私からも謝らせてほしい」

「クラピカ……?」

 

「君は前に、自分のことをまだ話したくないと相談してくれていた。それなのに、私たちは知ってしまった途端、勝手に身構えてしまった。君の立場を守らなければと考えるあまり、君自身を見ることを少し忘れていたのだと思う」

 

 クラピカは静かに頭を下げた。

 

「すまない。君は君のままなのに、私たちの態度で傷つけた」

 

「俺も」

 

 ゴンがクラピカの横から一歩前に出た。

 

「なんか、ちょっと変だったかも。ごめんね、アズリル」

「ゴンに関しては、私が余計なことを言わないよう口止めしていた。彼だけが悪いわけではない」

「でも、俺も変だった」

 

 ゴンはまっすぐにアズリルを見た。

 

「だから、ごめん」

 

 アズリルは、しばらく何も言えなかった。

 

 レオリオはすぐ隣にいる。クラピカも、ゴンも、自分の方を見ている。

 

 胸がいっぱいで、うまく息ができない。

 

「……これからも」

 

 ようやく絞り出した声は、まだ少し涙に濡れていた。

 

「これからも、友達でいてくれる?」

 

 クラピカが穏やかに頷く。

 

「ああ。もちろんだ」

「当たり前だろ」

 

 レオリオが照れくさそうに笑い、アズリルの頭をわしわしと撫でた。

 ゴンも笑って、勢いよくアズリルに飛びついた。

 

「わっ」

 

 アズリルはよろけたが、レオリオが慌てて支えた。クラピカが苦笑しながら近づき、そっとその肩に手を添える。

 

 アズリルは泣きながら笑った。

 

 さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。

 

 部屋の外で、ノクトは閉じかけた扉の隙間からその声を聞いていた。

 

 アズリルが笑っている。

 

 それは、喜ばしいことのはずだった。

 

 それなのに、すぐには扉を閉められなかった。

 

 胸の奥に、かすかな重さだけが残る。

 

 ノクトはそれを見ないふりをするように目を伏せ、音を立てないように扉を閉めた。

 

 

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